「諸行無常」と「判官贔屓」 ―源平が残した日本人のメンタリティ
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無常の儚さと権力者への敵意
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし 猛き者も遂にはほろびぬ 偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ
日本文学史上、あまりに有名な『平家物語』の書き出しだ。
『平家物語』の正確な成立年は不詳だが、鎌倉時代前期には原型ができていたと考えられている。形式は二つあり、一つは「読み本系」、つまり書写された書物として残っているもの。もう一つは「語り本系」で、琵琶法師が琵琶を弾きながら語り継いできたもので、「語り」とは節を付けて歌うこと。これを書物化したのが「語り本系」である。
私たちが目にする機会が多いのは、もっぱら「語り本系」だ。
琵琶法師は、冒頭の一節に長い時間をかけたという。実際、語り本を朗読したCD等でも約7分かかる。それだけ重要なパートだ。
「祇園精舎」とは、釈迦が説法したインドの寺院の名称。「諸行無常」も仏教用語で、この世の事象(諸行)はすべて変化し、不変のものはない(無常)という意味。
『平家物語』の根底には、仏教的な無常観が流れている。さらに「盛者必衰」は、無常だからこそ、栄華を極めた者も必ず衰える時がくると続く。
これらは、すべて平清盛と平家一門を指している。
清盛は武士として初めて太政大臣(だいじょうだいじん / 律令官制における最高位[一位])に上り詰め、嫡男の重盛は内大臣(ないだいじん)兼左大将(さだいしょう)。内大臣は二位だ。次男の宗盛は中納言(ちゅうなごん / 三位)兼右大将(うだいしょう)。三男・知盛は三位中将、孫の惟盛は四位少将。
その他を含めて、主な公卿(一~三位の官職)に平家が16人、四位以下の殿上人(てんじょうびと / 天皇が日常生活を送る宮殿へ昇殿を許された者)が30人以上。宮中には、平家以外の者はほとんどいないのではないかというほどの権勢を誇った。
独裁政権である。
だが、独裁は腐敗する。腐敗の原因が「驕(おご)り」だ。清盛の太政大臣就任が仁安2(1167)年、死去が養和元(1181)年、翌年に平家都落ち、壇ノ浦で滅亡するのが寿永4(1185)年3月。驕った平家は、わずか19年で権力の座から転げ落ち、滅びた。
『平家物語』はその顛末を「諸行無常」——この世に不変のものはないという摂理に基づく自然の流れであり、かつ「驕り」が原因だったと、冒頭で結論づけるのである。
清盛は瀬戸内海の航路を整備し、港を開き、厳島神社の社殿を造営するなど、功績は決して少なくない。
平家滅亡も政争・権力闘争・武力衝突など、数々の要因が重なり、最後は源氏の武力の前に屈した結果なのだが、原因を「諸行無常」とするほうが日本人の琴線には触れた。
不変のものはない、「もっとも」なことだ、何と儚(はかな)いことか——と。
ここに日本人の無常観が凝縮されている。
もう一つ隠れたスパイスが効いていることも見逃せない。栄華を誇る者たちへの嫉妬、憎悪、滅びてしまえという敵意である。無常観より、この敵意のほうが強かったという人もいる。西洋史学の会田雄次氏(故人)は、「完全なる勝利者、富も地位も栄誉もすべて掌中にし(中略)たというような人間にはさっぱり人気が湧かない」(『歴史と旅』臨時増刊号所収『謎と異説の日本史綜覧』)と、権力者の不人気を指摘している。
無常観と権力者への憎悪がないまぜとなった複雑な感情こそが、日本人のいう「諸行無常」であり、それを示す代表格として、平家は強く焼きついている。
世の花に 判官びいき 春の風
憎悪を一身に浴びて滅びた平家に対し、評価が高まったのが源氏だ。特に人気は、源義経の独占状態だった。
義経の人気を表す言葉が「判官贔屓(ほうがんびいき)」である。これも日本人の特質の一つといっていいだろう。悲運の武将・源義経が任じられた検非違使尉(けびいしのじょう)の官職の三等官を「判官」という。平家を滅ぼした立役者にもかかわらず、兄の頼朝に疎まれ、非業の最期を遂げる。
義経への同情は、気の毒な身の上の人や弱者の肩を持ち、応援することに転化し、判官贔屓という言葉になった。敵対した平家と頼朝はヒール(悪役)に貶められた。
この文言が初めて文献に登場するのは、寛永15(1638)年~正保初期(1645年頃)に成立した俳句書『毛吹草』(けふきぐさ)だ。
世の花に 判官びいき 春の風(詠み人知らず)
寛永15年の頃には、世間に知られていた俗諺(ぞくげん)だったようだ。ということは、登場したのはもっと古い時代だろう。
判官贔屓を「国民感情」と定義したのは、国史学者の高橋富雄氏(故人)だ。
「正しくてしかも世にいられない弱者に対する同情を、義経について典型化した国民感情」と指摘した(『義経伝説 歴史の虚実』)。
さらにこの国民感情は、義経をことさら美化する方向に走り、「こうあってほしい」「こうあるべき」と先鋭化していく。
『平家物語』で描かれた義経は「低身長・色白・出っ歯」だった(出っ歯は別人説も)が、室町時代中期に成立したとされる一代記『義経記(ぎけいき)』では、美少年に脚色されている。
中尊寺(岩手県)が所蔵する義経の肖像もなで肩の優男(やさおとこ)に見える。ただし、この肖像も室町〜江戸時代の制作といわれており、実際の容姿は想像する他ないのに…である。
腰越から始まる流浪のストーリーはまさに日本人好み
卑怯なことはしない、真っ直ぐで猪突猛進という(設定に脚色された)キャラクターも愛された。
義経率いる船団が屋島を急襲しようとしていた1185年3月、頼朝の信任厚い梶原景時が「船尾側にも櫓を取り付けて、自在に後退できるようにすべし」と進言したのに対し、義経は「戦う前から退却を考えるなどありえない。前進あるのみ」と主張。義経と景時の不仲の原因の一つとなった「逆櫓」論争は、正々堂々と戦う義経の姿勢を示すものとして語り継がれ、反対に景時は義経の猪突猛進ぶりを頼朝に讒言(ざんげん)するなど、憎まれ役のイメージが定着する。ただ、逆櫓の逸話も史実としては疑問視されている。
また、義経が直情径行ゆえに他人に利用されやすいということも同情を買った。
有名な一ノ谷の戦い(1184)後、義経は京に留まって都の治安維持にあたっていたが、そこに後白河法皇が接近する。後白河法皇から検非違使尉に任じられるのは、この時である。
頼朝は配下の御家人たちが、自分に許可なく官位を受けることを禁じていた。なぜなら、朝廷から褒美として官位を授かった武士は、朝廷に取り込まれ、将来的に自分に敵対する可能性があると警戒していたからだ。その禁を、なんと弟がうかつにも破ってしまった。
「真っ直ぐな性格」といえば聞こえはいいが、義経は思慮に欠けるといったほうがいいかもしれない。
さらに、極めつけが、腰越である。
「自分には異心(頼朝に逆らう気)はない」と頼朝に伝えるため、義経は鎌倉郊外の腰越から兄に書状を出す。世にいう「腰越状」である。だが、鎌倉に入ることは許されず、追い返される。ここから流浪が始まる(バナー画像)。
歴史・民俗学者の和歌森太郎氏(故人)は、義経の流浪を「貴種流離譚」(きしゅりゅうりたん)という、日本人が好んだストーリーに合致すると指摘している(『判官びいきと日本人』)。
「貴人が辛苦のうちにさすらいの旅をつづけることを主題とする話」であり、『源氏物語』で光源氏が京から追放される須磨・明石巻、菅原道真の大宰府左遷にも見ることができる。
悲劇の貴人に寄せる同情は日本人の特質の一つであり、それを投影する人物として義経は輝いた。
大久保利通と敵対して薩摩の旧士族と運命を共にした西郷隆盛も、判官贔屓の対象だろう。いまだに大久保より西郷の人気が高い。
最近では、菅義偉前首相が退陣してから、にわかに同情論が寄せられ、ワクチン接種の功績が認められている。これも判官贔屓といえるかもしれない。
バナー画像 : 『平家物語』絵本 巻十一 / 壇ノ浦で捕えた平宗盛親子を護送し、義経は鎌倉に向う。しかし腰越まで来て鎌倉軍に遮られ、宗盛父子を渡すのみで頼朝に会えない。義経は無実を訴える書状を送るが、頼朝は取り合わなかった。(明星大学図書館所蔵)