知られざる日台鉄道事情

台湾の発展を支えた縦貫鉄道と劉銘傳(上):清国時代

歴史

台湾の鉄道史は清国統治時代の末期、台湾巡撫(じゅんぶ)・劉銘傳(りゅうめいでん)の時代にさかのぼる。基隆(きいるん)を起点に台北、新竹までの区間が開通し、その後、日清戦争・下関条約を経て、台湾は日本領となり、鉄道施設は台湾総督府に接収され、日本に受け継がれた。台湾鉄路の黎明(れいめいき)期、縦貫鉄道と劉銘傳について台湾在住の作家・片倉佳史氏が解説する。

劉銘傳と清国統治時代の鉄道建設

台湾の鉄道の歴史を拓いたのは劉銘傳という人物である。台湾が清国の統治下に置かれた時代、初代台湾巡撫(知事に相当)の地位に就き、台湾の発展に深く関わったことで知られている。

1840年のアヘン戦争以来、清国は欧米列強にむしばまれ、不平等条約に苦しめられていた。同時に、西太后による専制、腐敗した官僚政治と、まさに身動きが取れない状態にあった。

1860年代に入ると、欧米の先進的な科学技術を導入し、国力増強を目指す洋務運動(自強運動)が起こり、李鴻章(りこうしょう)らを中心に軍隊の近代化と指揮権の統合を進めようとしたものの、保守派の抵抗で頓挫してしまう。

そこで洋務派は一策を講じた。福建省から台湾を切り離し、巡撫として、洋務派の旗手とも言うべき劉銘傳を送り込んだのだ。劉銘傳は安徽(あんき)省合肥(ごうひ)に生まれ、太平天国の乱で李鴻章率いる淮(わい)軍に入り、洋務派の中心人物・曽国藩(そうこくはん)と出会ったことで、頭角を現すようになっていた。

つまり、洋務派は保守派の妨害に遭いやすい清国本土ではなく、台湾の地で改革を行なおうとしたのである。そして、1885年10月12日、台湾は清国20番目の省となった。

台湾を狙ったフランス

アロー戦争(アロー号事件)後、1858年に清国は欧米列強と天津(てんしん)条約を結ぶ。そして、1863年に基隆港が開かれるが、1884年にベトナムの支配権を巡って清仏戦争が勃発。フランス軍は極東艦隊を台湾に派遣し、基隆湾を攻撃した。

英国が香港を拠点としたように、フランスは東アジア進出の拠点として、台湾に着目していた。この時に登用された劉銘傳はフランス軍を迎撃し、退けた。しかし、フランス極東艦隊は台湾から福州の攻略に転じ、馬江海戦では清国福建艦隊を壊滅させる。

その後、フランスは再び台湾攻略を試みたが、ここでも阻止された。そこで海上に逃れたフランス軍は台湾海峡に留まり、台湾と福建の交易を封じ込めるという策に出る。1885年に天津条約(李鴻章・パトノートル条約)が締結されると、フランスは台湾海峡の封鎖を解いたが、その後も台湾海峡への進出は執拗(しつよう)なものがあった。

日清戦争の際、下関で清国全権大使・李鴻章との間で停戦交渉が行なわれたが、伊藤博文と陸奥宗光は、密かに澎湖へ混成支隊を派遣し、3月26日に媽宮(現在の馬公)湾を占領した。これは日清間の交渉を有利に進めるきっかけになったとされるが、実際はフランスが混乱に乗じて澎湖海域に侵入することを警戒したためとも言われている。

劉銘傳は洋務派の旗手だった。一貫して軍事力増強と防衛を重視し、台湾海峡の重要性も熟知していた
劉銘傳は洋務派の旗手だった。一貫して軍事力増強と防衛を重視し、台湾海峡の重要性も熟知していた

国土防衛と鉄道建設

劉銘傳は台湾海峡の重要性を認識していた。そこで、北の基隆と南の安平(あんぴん)という港湾を鉄道で結び付け、台湾西部の各都市をつなぐことを考えた。そして、中国大陸沿岸部との連携を図って台湾海峡を守る。つまり、国防を意識した施策の中に鉄道は組み込まれていたのである。

この時期、すでに清国は瀕死の状態だったが、北からはロシアが虎視眈々(たんたん)と侵略の機会をうかがっていた。劉銘傳は清国中央に対し、現在、ロシアが攻めてこないのはシベリア鉄道が未開通だからだと直言している。ロシアは準備を着実に進めており、後には1896年の露清密約で東清(とうしん)鉄道の敷設権を得て、満洲に大きな影響力を持つようになった。これが日本とロシアの間の緊張を高め、日露戦争につながっていったのは言うまでもあるまい。

19世紀後半という時代、国力を高めるために大規模輸送機関を整備するのは、西洋の常識だった。しかし、清国は独善的な中華文化至上主義の中にあり、それを実現できなかった。清国の鉄道は大半が外国資本によるものであり、皮肉にもそれが自国への侵略に直結していた。こういった状況下で洋務派は自前の鉄道に着目し、劉銘傳を台湾に向かわせたのである。

洋務派官僚の動き、また、地政学から見た台湾の重要性、英仏を中心とし、米国やドイツ、ロシア、そして日本を巻き込んだ国際情勢など、さまざまな要素の中で台湾の鉄道は産声を上げたのである。

清国統治時代に開通した鉄道。おおよそ「台湾循環鉄道路線図」の基隆から新竹に当たるが、その後、日本統治時代に大半の区間で路線変更と改良工事が行なわれている。『台湾鉄道史・上(未定稿)』より転載
清国統治時代に開通した鉄道。おおよそ「台湾循環鉄道路線図」の基隆から新竹に当たるが、その後、日本統治時代に大半の区間で路線変更と改良工事が行なわれている。『台湾鉄道史・上(未定稿)』より転載

台湾の鉄道とドイツ人技師

台湾の鉄道の端緒が開かれたのは1887年のことだった。台湾巡撫の劉銘傳は海防の要地である台湾の防備を進め、富強を図るべきだとし、大規模輸送機関の建設は不可欠と上奏した。

劉銘傳は李鴻章の支持を得て、工事に着手する。1887年5月20日、大稲埕(だいとうてい)に「全台鉄路商務総局」が創設され、ドイツ人技師ベッケルが招聘(しょうへい)された。技師長としては英国人のヘンリー・クリプス・マシソンが就いたものの、ドイツ人が工事を指揮したのは興味深い。

これは清国において横暴を繰り返す英国やフランスを劉銘傳が嫌い、英仏両国が台湾に介入することを警戒したためと言われる。また、ドイツは普仏戦争でフランスを破り、国内産業の育成に成功していた。そのドイツもまた、台湾という地に関心を抱いており、西洋の技術を欲していた劉銘傳と思惑が一致した。

工事は同年6月9日から始まり、台北~基隆間が1891年10月20日、台北~新竹間が1893年10月30日に開業した。

静態保存される「騰雲号」。国立台湾博物館(旧台湾総督府博物館)の傍らに展示されている。台湾を最初に走ったドイツ製蒸気機関車である
静態保存される「騰雲号」。国立台湾博物館(旧台湾総督府博物館)の傍らに展示されている。台湾を最初に走ったドイツ製蒸気機関車である

劉銘傳の理想と挫折

清国は200年の歴史を誇る大帝国だったが、劉銘傳が台湾の地で行なった施政は、最も斬新で進歩的なものだったと言われる。在任期間はわずか6年だったが、鉄道以外にも、電灯をもたらし、電信ケーブルの敷設、郵便制度の創設、炭鉱開発、学校の設置、かんがい用水路の整備など各種インフラを整え、台湾発展の礎を築いた。

しかし、急激な改革による弊害も大きかった。特に財源確保を目的とした土地測量事業については、末端官吏の横暴な振舞いに民衆が立ち上がり、1888年に台湾中部で大規模な反乱が起きている。

そして、自身も清国中央の政争に遭い、1891年6月4日をもって召還されてしまう。劉銘傳が思い描いた理想はここで頓挫してしまった。後任の邵友濂(しょうゆうれん)は財政逼迫(ひっぱく)を理由に、劉銘傳の新政を中止する。鉄道建設も例外ではなく、結果的に、劉銘傳が手掛けた事業は、新来の統治者である日本に受け継がれていくこととなった。

清国統治時代の鉄道遺跡は多くない。基隆近郊にある獅球嶺隧道は古蹟の指定を受けている
清国統治時代の鉄道遺跡は多くない。基隆近郊にある獅球嶺隧道は古蹟の指定を受けている

縦貫鉄道敷設は日本統治時代の重点施策

1895年4月17日、日清戦争後に締結された下関条約で、台湾は日本の領土となった。その後、軍事物資の輸送と産業開発・殖産興業の観点から鉄道は重視され、台湾の発展を支えていくことになる。

初代台湾総督の樺山資紀(すけのり)は台湾経営における3つの急務として、縦貫鉄道敷設、基隆築港、島内道路の整備を挙げている。縦貫鉄道とは基隆から台北(たいほく)、台中、台南を経て打狗(のちの高雄)に至る鉄道である。

台湾総督府はすぐに動き始め、清国から接収した基隆~台北~新竹間の修理に取り掛かる。そして、新竹から苗栗(びょうりつ)、台中、嘉義(かぎ)、台南と経由し、打狗に至る新規建設区間の大まかなルートが決められた。

しかし、この時期の台湾社会は混乱を極めており、日本に対する抵抗は想像以上に激しかった。そして何より、日清戦争を戦った日本には莫大な費用を捻出する力がなく、すでに緊張感が高まっていたロシアとの関係上、日本本土の国力拡充が優先されていた時期でもあった。そのため、新領土・台湾に力を注ぐ余裕はなかった。

総督府は既存の鉄道の修繕と新規開業区間の建設を同時に進めた。簡易軌道の様子。資材の多くは日本本土から運び込まれた。新元久氏所蔵の古写真
総督府は既存の鉄道の修繕と新規開業区間の建設を同時に進めた。簡易軌道の様子。資材の多くは日本本土から運び込まれた。新元久氏所蔵の古写真

写真は一部を除き、筆者による撮影、提供

バナー写真=基隆と高雄を結ぶ縦貫鉄道。開業以来、台湾の発展を支えてきた大動脈である。台湾の主要都市はほぼ沿線上にある。

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