中国の大湿地帯を穀倉地帯に変えた日中友好秘史

豊穣の大地を生んだ日本の技術者たち(上)

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三つの大河に囲まれた沖積地である中国の三江(さんこう)平原は大湿地帯で、かつては水はけが悪いために作物の生育不良に悩まされていた。朝鮮戦争後に退役した人民解放軍の兵士を入植させても問題は解決しなかった。中国政府にとって悲願だった三江平原の干拓を成功に導いたのは、日本の技術者たちだった。

中山 輝也 NAKAYAMA Teruya

(株)キタック代表取締役会長。1937年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後、東京の建設コンサルタント会社に就職。その後、新潟県職員を経て、73年に北日本技術コンサルタント(現・キタック)を設立、代表取締役に就任。2017年から現職。現在、公益財団法人新潟県国際交流協会理事長、NPO法人新潟県対外科学技術交流協会理事長、公益社団法人日本技術士会参与なども務める。

「不毛の大地」三江平原

1978年に始まった改革開放政策以降、著しい食料増産を遂げた中国。中でも東北部にある黒竜江省の三江平原は、大豆、トウモロコシ、コメの栽培が盛んで、今では中国最大の食料供給基地に成長した。かつては「不毛の大地」ともいわれた三江平原が、一大穀倉地帯へと変貌した舞台裏には、新潟市にある亀田郷(かめだごう)土地改良区の理事長だった故・佐野藤三郎をはじめ、多くの日本人の技術協力があった。

三江平原はもともと、アムール川(黒竜江)、松花江(しょうかこう)、ウスリー川の三つの大河に囲まれた沖積地で、米国・中西部、ウクライナと並んで世界三大黒土地帯の一つに数えられるほど、土壌が肥沃(ひよく)だ。中国政府は、約1500万ヘクタールに及ぶ広大な平原に、53年に休戦に至った朝鮮戦争後に撤収した人民解放軍部隊を入植させた。

三江平原拡大図
三江平原拡大図

しかし、大湿地帯で水はけが悪いために、作物は生育障害が発生したり、枯れてしまったりする湿害に悩まされていた。食料増産計画を進める中国政府にとって、三江平原で穀物を栽培して国内総生産(GDP)を上げるためにも、農業基盤整備は悲願だった。

72年の日中国交正常化を受け、中国政府は三江平原の農業開発協力を日本に要請した。これに応えたのが、亀田郷土地改良区だった。土地改良区とは、公共投資による土地改良事業を、行政に代わって実施する農業者の団体。亀田郷土地改良区は、新潟市内にあった湿地帯の亀田郷に、排水機場の整備や水路改修、耕地整理によって乾田化に成功し、「地図にない湖」と呼ばれた一帯を県内有数の稲作地帯に変えた実績があった。

これが中国側の目に留まって、当時の理事長だった佐野に声が掛かり、78年、三江平原農業開発プロジェクトが始まることになる。

専門技術と訪中経験を買われメンバーに

プロジェクト始動に合わせ、新潟県日中友好協会が、三江平原農業基本建設考察団を組織することになった。佐野の人脈を生かして、大学、研究機関、民間企業などからメンバーを探した。ダムの地質を専門とする技術者として選ばれたのが、当時、新潟市に本社を構える北日本技術コンサルタント(現・キタック)の経営者、中山輝也だ。

地質専門の技術者として、プロジェクトに参加した中山輝也氏
地質専門の技術者として、プロジェクトに参加した中山輝也氏

1937年に生まれ、新潟大学で地質学を学んだ中山は卒業後、地質調査を請け負う東京の創業間もない会社「応用地質」に就職。ダム地質技術を現場で身に付けた。その後、新潟に戻って、県の技術職員として働きながら技術士資格を取得。3年後に独立し、会社を設立した。このキャリアが選考の決め手になったが、佐野を団長とする考察団12人のうち、中山は42歳で最年少。佐野が中山に掛けた「中国にちょっと一緒にいかないか」の一言が、それから長く続く国際技術交流に携わるきっかけとなった。

中山が選ばれたもう一つの理由は、訪中経験があったことだ。中山は79年1月、所属する日本技術士会が企画した初めての技術交流で中国を訪れていた。文化大革命が終わり、改革開放政策が始まったばかりの中国へ、香港経由で入国した。香港との国境管理は極めて厳しく、入国のために、重たいスーツケースを引きながら仮設の木橋を歩いて渡った。

中国側の入国管理局では、虚栄心の表れなのか、係官が中山の真新しいパスポートを無表情で繰り返しめくって、時間稼ぎをしていた。中山はその時、旧ソ連の体制が「鉄のカーテン」、中国が「竹のカーテン」と呼ばれていたことを思い出し、「大変なところに来たのだと、緊張感がみなぎったことを鮮明に覚えている」と振り返る。

中山らは広州、上海、南京などで人民公社の電球工場、自動車工場、農業研究所などを約2週間の日程で視察した。初めての訪中経験が、後に関わる三江平原プロジェクトで生かせることになるとは、予想もしなかった。

ミッションがスタート

1979年8月、考察団は10月までの2カ月の滞在予定で、上越新幹線開通前の新潟駅を特急で出発し、成田空港から北京空港へ向かった。北京からハルビンまではコンパートメントで17時間、ハルビンから三江平原の前線基地となるチャムズまで、さらに鉄道で10時間移動した。

チャムズ到着後は約1週間、早朝から夜まで三江平原の農業について説明を受け、日本からは先進技術のプレゼンテーションが行われた。中国は自国の技術者のために、外国から技術調査団が来た時には、必ず研修会を開いて技術レベルを評価していた。

黒竜江省はかんがいの水源として、地下水を大々的に利用する計画があったことから、地下水の流動をキャッチする日本製の最新鋭探査器に強い関心を示した。中山はダム地質の専門家として、日本で行われていた地質解析と、中国の地質評価基準との整合性について説明した。

この頃、中国では乱造したダムの補修対応に追われていたため、中国の技術者は真剣に耳を傾け、質問や相談を持ち掛けた。反日感情が根強く残っていたせいか、「それまでの会議での発言では、日本の技術力をあまり重要視していないようにうかがえたが、プレゼンを機に、中国側は日本の技術レベルの高さを改めて認識し、敬意を表す態度に変わった」(中山)

日中両国で行われたディスカッション 1979年9月 チャムズ 撮影:中山氏
日中両国で行われたディスカッション 1979年9月 チャムズ 撮影:中山氏

いざ、三江平原へ

予備知識を詰め込んだ考察団は、三江平原に向けてチャムズを出発した。準国賓待遇で、どこに行くにも身辺警護のSPがついた一行は、通訳や技術者、運転手ら両国合わせて総勢約60人。旧ソ連製の軍用車を模した四輪駆動車(通称・北京ジープ)に分乗し、目的地へ向かった。

三江平原に向けて出発する考察団のメンバー 1979年9月 チャムズ 提供:中山氏
三江平原に向けて出発する考察団のメンバー 1979年9月 チャムズ 提供:中山氏

平原の広さは、中山の想像をはるかに超え、どこまでも続く地平線に圧倒された。外国人立ち入り禁止区域だったが、特例で制限が解除されていたので、一行は不自由なく移動ができた。ただ、道路がぬかるんだり、土が凍結して氷の層が分厚く重なり、土壌の隆起が1メートル近くになったりする路面もあった。そんなでこぼこ道を毎日300キロ以上走り続けるので、四輪駆動車といえども走行は困難で、天井や鉄の支柱に頭をぶつけ、皆が首や腰の痛みに悩まされた。

通称・北京ジープに乗って移動する三江平原農業開発基本建設考察団。毎日300キロ以上を走行した 1979年9月 三江平原 撮影:中山氏
通称・北京ジープに乗って移動する三江平原農業開発基本建設考察団。毎日300キロ以上を走行した 1979年9月 三江平原 撮影:中山氏

行く先々で手厚いもてなしを受けたが、困ったこともあった。宿泊先として与えられた公務員宿舎には、風呂がない。地元住民が屋内体育館にドラム缶を持ち込み、てんびん棒で湯を運んで仮設の風呂を用意してくれた。公衆の面前だったので抵抗があったが、汗まみれだったこともあり、仕方なく入浴した。

寝室から数百メートル離れた場所にあるトイレにも悩まされた。中山は「便器の代わりに、ほうろうの洗面器を用意してくれたが、気がとがめてどうしても使うことはできなかった」と苦笑する。

農村部の厳しい現実に直面

中山のカウンターパートは、水利地質の技術者だった。言葉は通じなかったが、長い時間を一緒に過ごしため、共通の趣味のクラシック音楽で意気投合。互いに提案し合ったり、技術を通して交流を深めたりした。この間に道路の整備状況、かんがい、栽培する農作物などを調査し、現状を頭に入れることができた。

農村部の実態に触れる中で、中山の印象に残ったのは、国営農場と人民公社の格差だ。国営農場はれんが造りの住宅、近距離の移動手段は自転車だったのに対し、人民公社は日干しの泥れんがの住宅で、移動は常に徒歩。全てが保障された国営農場と、収穫に左右される人民公社の歴然とした差を目の当たりにした。

視察先で出会った運転手が残留邦人だったことも、忘れられない思い出だ。滞在中、ほかにも複数の残留邦人らしき人に会い、中山は戦争の傷跡を感じ、胸を痛めた。

国営農場の子どもたち。背後の家屋はれんが造り 1979年9月 三江平原 撮影:中山氏
国営農場の子どもたち。背後の家屋はれんが造り 1979年9月 三江平原 撮影:中山氏

人民公社の住民。住居は日干しれんがで造られている 1979年9月 三江平原 撮影:中山氏
人民公社の住民。住居は日干しれんがで造られている 1979年9月 三江平原 撮影:中山氏

佐野の情熱に触れた帰路

考察団の予定は10月までだったが、佐野と中山は次の予定があり、一足先に三江平原を後にした。新潟までの長い帰路で中山は、佐野の体験を聞く機会に恵まれた。「相当な苦労話になるのかと思っていたが、佐野さんが口にしたのは、これからの日本のあるべき姿、日中関係の重要性だった。『いざというとき、頼りになるのは、やはり隣国だよ』とおっしゃっていた」と中山。日中の国交回復前から「氷解」を信じ、努力を続ける佐野に敬意を払わずにはいられなかったという。

長旅の車中で過ごす佐野氏(写真中央)と中山氏(左) 1979年9月 黒竜江省 提供:中山氏
長旅の車中で過ごす佐野氏(写真中央)と中山氏(左) 1979年9月 黒竜江省 提供:中山氏

考察団がミッションを終えて帰国した2カ月後の12月、時の首相、大平正芳が訪中した。中国政府に対し、両国間の交流をあらゆるレベルでさらに促進する必要性を強調。国際協力事業団(現・国際協力機構、JICA)が実施する技術協力事業として、三江平原開発に7億円の投資を伝えた。

民間レベルで進んでいた三江平原プロジェクトに、追い風が吹き始めた。(敬称略)

バナー写真=湿地が広がる三江平原 1979年9月 撮影:中山氏

以下、豊穣の大地を生んだ日本の技術者たち(下)に続く。

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