周恩来の宿願をかなえた伝説の男(下)
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▶︎周恩来の宿願をかなえた伝説の男(上)より続く
「俺は死ぬまで百姓だ」が口癖
佐野藤三郎が初めて訪中したのは、51歳のときだった。ここで彼の経歴について触れたい。生まれたのは1923年11月、両親は新潟県石山村(現・新潟市)の貧しい小作農だ。
亀田郷の中でも旧石山村は深い湿田が多く、どこの小作農の倅(せがれ)も尋常小学校の頃から泥田に胸まで埋まって、手伝いをした。佐野は亀田郷土地改良区理事長になり、どんなに多忙でも、未明に田んぼへ出かけてひと働きする日課は、晩年まで崩さなかった。
作家の司馬遼太郎は紀行文『街道をゆく』の中で「亀田郷には、佐野藤三郎という大変な傑物がいる」と紹介。75年秋、取材で亀田郷に佐野を訪ねたときの印象を「レスラーのように肩の肉が盛りあがって、白い開襟シャツの似合う人」と描写した。
身長は170センチにわずかに足りないが、体重は優に90キロを超す。日焼けした笑顔に、何ともいえない風格がある。「俺は死ぬまで百姓だ」が口癖だった。
尋常高等科を卒業し、国鉄の新潟駅操車場で働いた。42年、応召で海軍二等水兵として巡洋艦に乗艦。九州沖で艦船が魚雷で撃沈された。復員後は小作闘争に没入し、農地解放では地主から農地を買い上げる最年少の農地委員になった。土地改良法の施行で51年11月、それまでの亀田郷耕地整理組合が土地改良区に組織替えした。
33歳の若さで理事長に就任
しかし、激しい農民運動の余波で、土地改良区の組合内部は社会党系と共産党系、旧地主層の3派閥が入り乱れて抗争を繰り返していた。そうした折、水路工事に伴う贈収賄事件で当時の理事長が逮捕され、大騒動になった。
1955年12月、33歳の佐野が理事長になった。だが、このとき亀田郷土地改良区の台所は火の車で、圃場(ほじょう)整備事業の融資金返済に窮し、銀行管理下に置かれていた。
伊東正義との出会い
佐野の秘められた能力は、大混乱の中で理事長職を引き受け、七転八倒する中で培われた。1958年8月、土地改良区は莫大な累積債務を抱えており、佐野は「返済猶予」と「債務縮減」の一念で、農林省(当時)農地局長の部屋に飛び込んだ。
「土地改良区の事業費助成は、自然排水できる農地をモデルに制度設計されているため、亀田郷のような24時間機械排水しなければ農地が水没する輪中(わじゅう)では、必ず財政破綻を来す」と、国の助成制度の是正を嘆願し、譲らなかった。
応対した農地局長が長い間の左遷から解かれ、古巣の農林省に戻ったばかりの伊東正義(後に副首相)だった。二人はお互いに怒鳴り合い、午後5時を過ぎると、新橋のガード下の飲み屋に場所を移して、朝まで議論した。それも2日間続けたという。
佐野が「この強情な会津っぽめ」と言えば、伊東は「何を、この越後の山猿が」と罵詈雑言(ばりぞうごん)。そのうち農林省だけでは解決できず、伊東が官房長官大平正芳(後に首相)に電話してくれて、佐野は大蔵省(当時)主計局まで乗り込み、農林主計官に直訴した。そのとき応対した主計官が相沢英之(後に経済企画庁長官)と高木文雄(後に国鉄総裁)だった。二人は話を聞いて「面白い男だ。何とか相談に乗ろう」と手を差し伸べて、苦境を乗り切る策を授けた。
農民利益擁護の実力行使
1968年、新都市計画法の施行により、市街化調整区域の線引きが建設省(現・国交省)から提案された。そのまま放置すれば、農地転用で宅地化する地区と、都市化の波とは無縁の農業専業地区とで、亀田郷が分断されかねない提案に対し、佐野は土地改良区の承認なしには、農地を売却できない仕組みを作った。
区画整理事業では通常、農家が拠出した農地の一部が国所有の用水路や道路となる。亀田郷土地改良区は債務超過で財政破たんに追い詰められた窮余の一策で、売却農地の用水路や道路部分を国所有とせず、土地改良区所有にして、売却金から得た収入を融資返済金に充てた。売却した農家には、売却金の一定割合を土地改良区に納入する義務を課し、それを原資に農地転用が少ない地区の道路整備や下水道整備を進めた。
亀田郷土地改良区のこうした見切り発車に農林省や県農地部、法務省は異を唱えたが、強権発動は控えて、問題の先送りでやり過ごした。膠着(こうちゃく)した事態を打開する知恵を出したのは、大蔵省主計官の相沢英之だった。
今では亀田郷の取った措置が法改正によって、公式に追認されている。佐野の農民利益擁護の実力行使は、時には法の枠を外れるが、佐野は「それは法が悪法だからだ」とあまり頓着しないのだ。
動き出す円借款プロジェクト
そんな豪放磊落(らいらく)な男に、中日友好協会の孫平化らが三江平原計画への協力を要請したのは、1978年2月のことだった。その時、「分かりました。やってみましょう」という佐野の返答を聞いて、中国の要人たちはその場では喜んだが、実現性については「半信半疑」だったのではないだろうか。
亀田郷は信濃川、阿賀野川、小阿賀野川の3河川に囲われた輪中で、形状が三江平原とそっくりだが、自然条件の厳しさが格段に違うし、何よりも湿原のスケールが比較にならない。亀田郷の成功体験がそのまま中国の巨大湿原で力を発揮できるとは、誰も確信を抱いてはいなかっただろう。
現地調査はまず民間主導でスタートし、次いで国際協力事業団(現・国際協力機構、JICA)の事前調査、政府主導の技術調査と続いた。そして、1984年春、最終報告書が佐野から因果を含まれた農水省構造改善局建設部長須藤良太郎の手で中国政府に提出された。
この間、78年には日中平和条約が調印され、条約批准書交換のために副総理鄧小平が来日した。次いで首相大平正芳が訪中するなど、両国間の経済協力関係は進展し、79年9月、訪日した副総理谷牧が円借款を要請して、第1次円借款プロジェクトが動き出していた。
亀田郷土地改良区が主導した民間調査団の作業の傍らで、佐野は新潟県と黒竜江省の友好県省提携を仕掛けた。友人の新潟市長川上喜八郎の協力で、省都ハルビンと新潟市の友好都市提携を結んだ。さらに県や市、社会党、労働団体に呼び掛け、佐野が自ら会長となって、新潟県日中友好協会を設立した。
政治的な環境を整えながら、渋る県知事君健男と黒竜江省長陳雷とのトップ会談を黒竜江省で実現させた。これで三江平原調査団に、県や新潟大学の農業技術陣らが気兼ねなく参加できる環境が整った。
財界中国東北部視察団の副団長に選出
中国との経済協力を担った団体に、日中経済協会と並んで、日中東北開発協会がある。会長は日本興行銀行の正宗猪早夫(まさむねいさお)だが、副会長の野村証券会長田淵節也が実力者で、大平内閣の外相大来佐武郎(おおきたさぶろう)も顧問をしていた。田淵が団長となり、1990年7月、中国東北部の3省へ総勢135人の財界視察団を派遣する計画を立て、副団長として佐野に白羽の矢を当てた。
佐野は田淵が元首相竹下登と旧制松江中学の同窓で親密だと聞いていた。また農相を経験した羽田孜(後に首相)や亀岡孝夫らに相談し、円借款では竹下登が強い影響力を持つことも知った。財界視察団の乗ったチャーター便が三江平原上空を飛んだときは、佐野は機内を走り回りながら、子どものように熱っぽく三江平原計画の概要を説明した。
翌91年7月には再度、日中東北開発協会が財界人による視察団を編成、今度は佐野を団長として黒竜江省の開発予定地を視察した。これにはJICA調査団派遣に力を尽くした農水省OBや小松製作所会長の河合良一(日中経済協会長)、金森久雄(日本経済研究センター会長)らも参加した。
一行は竜頭橋ダムの建設予定地を見学した後、副総理田紀雲や国家計画委員会、農業部など、関係する中国政府機関のトップと面談して、三江平原を円借款の対象プロジェクトとするよう陳情した。中国政府要人には、日本の財界がまるで計画の応援団として映っただろう。
届かなかったプロジェクト内定の報
円借款はJICAが実施計画調査報告書を中国政府に提出した後、中国側で事業リストを絞り込み、日本政府に要請する。それを受けて、日本政府が実施事業の最終決定を下すというプロセスをたどる。第1、2次の円借款では、中国政府が運輸や交通など、沿海部インフラ整備を優先したため、農業部門は先送りされてしまった。
佐野は黒竜江省首脳らと一緒に情勢分析して、「1990年からの第3次には採択される」と予想していたが、外れてしまった。すでに日中両政府のしかるべき要人には、充分に話をしてきた。日本の財界首脳(経団連会長の斎藤英四郎、日経連会長の鈴木永二、三菱重工相談役の金森政雄など)らにも陳情行脚した。上海宝山製鉄所の事業再開で、中国政府要人を説得した実績の大来には、新潟市まで足を運んでもらって詳細な話をしていた。
しかし、ついには92年暮れ、訪日した田紀雲と東京で会い、第4次円借款には必ず対象リストに挙げるとの内定を聞かされた。最終決定が公表されたのは94年暮れだった。
しかし、その報を佐野が耳にすることはなかった。この8カ月前、佐野は土地改良事業に対する多大な功績を表彰する農林水産大臣賞の中でも最高位のダイヤモンド賞を授与された。しかし、その式典閉会後の深夜、宿泊ホテルの階段下フロアで意識不明の状態でいるところを発見され、病院に救急搬送されたが、翌日、佐野は帰らぬ人となっていたのだ。
新潟では佐野の偉大な業績を讃え、「佐野藤三郎記念食の新潟国際賞」を設立、名前を後世に長く伝えようとしている。(敬称略)
バナー写真:黒竜江省白音諾村にある新潟県との友好碑 撮影:中山輝也氏