周恩来の宿願をかなえた伝説の男(上)
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急務だった食料増産
振り返れば、事の発端は1975年1月、第4期全人代での総理周恩来の「政府活動報告」だったのではないか。そこで周は「(国防、農業、工業、科学技術の)四つの近代化」を提唱した。当時はまだ文化大革命の渦中で、権力はなお毛沢東主席と江青ら四人組の手中にあった。
だが大躍進政策の失敗がもたらした国民経済の疲弊、とりわけ農村の荒廃は、極点に達していた。周恩来は末期がんで病床にあったが、最後の力を振り絞り、毛沢東との政治調整に奔走し、「四つの近代化」と鄧小平の復権を認めさせた。中国国内では一部に深刻な飢餓状態を来し、食料増産を促す農業再建が急務だった。
周恩来の傍らには元農墾部長(農水大臣)で副総理の王震がいた。王震には49年の革命政府樹立直後から、直属の八路軍(現・人民解放軍)部隊を率いて、黒竜江省三江(さんこう)平原に入植した経歴がある。開墾事業は成果を上げていなかったが、部下だった兵士の多くは、そのまま国営農場の農民となって土着していた。
周恩来は「四つの近代化」を宣言した1年後に他界したが、続く毛沢東の死で文革派を打倒し、実権を握った鄧小平が78年、「改革・開放」路線を敷いた。周恩来の打った布石で、国家経済再興に向けた外資導入や外国技術の採用など、革新の流れが生じ、「三江平原農業開発計画」は具体化へと緩やかに動いていった。
地図にない湖水地から田園地帯へ
これより先、1971年に周恩来は新潟県の亀田郷(かめだごう)土地改良区が制作した記録映画『湛水(たんすい)地帯の記録』を鑑賞している。フィルムには首まで泥田に浸かった農民の作業姿が映し出される。春の田植えも秋の刈り取りも、小舟を傍らに背中で田んぼ内の水を押し分けるように、背進しながらの農作業。映画は続いて、この地が緑なす田園へと生まれ変わった光景を映し出す。
それは50年代初め、亀田郷で撮影された映像だった。かつて「地図にない湖」と呼ばれたほどの大湿地帯であった亀田郷は、東洋一とうたわれた栗の木排水機場が48年から本格稼働し、用水路・排水路工事や圃場(ほじょう)整備事業の末に、湛水地から乾田へと大変貌を遂げた。この記録映画は、亀田郷土地改良区の理事長佐野藤三郎から、社会党衆院議員八百板正が団長を務めた日中農業・農民交流訪中団に託され、周恩来の元に手渡された。
仲介したのは社会党委員長の佐々木更三と農民組合出身の衆院議員松沢俊昭(旧新潟2区)だった。佐々木と松沢はそれ以前より、周恩来から直々に「日本のかんがい排水の技術を中国も学びたい。どうか、そのための手助けを頼みたい」と要請されていた。周のその思いに打たれ、松沢は佐野に亀田郷の記録映画のフィルム提供を依頼したのだ。
松沢は友人の佐野に言った。
「毛沢東のスローガンでは、“農業は大寨(だいさい)に学べ”(山西省の小さな農村大寨の人民公社が自力更生で開拓した精神が評価されて生まれた標語)となっているが、大湿原の開墾は人海戦術の『大寨方式』では歯が立たず、近代的な農業技術や大型農業機械の導入しかない」
それに対して佐野は「亀田郷の経験が中国農業の役に立つのなら、喜んで協力しますよ」と快く応じた。
実は、さらにさかのぼって57年秋、周恩来は当時の農墾部長王震を団長に、26人の中国農業技術者による視察団を日本へ派遣していた。視察団は日中両国で相互に派遣し、水稲技術の調査を主眼にした。中国側視察団の事務局長を務めたのが、廖承志の後に中日友好協会会長となる孫平化で、20年後、佐野に三江平原への支援要請を行うことになるその人である。長い時間をかけ、周恩来は要所に人を配して、機が熟すのをじっと待っていた。
三江平原の過酷な気象条件
三江平原はアムール川(黒竜江)と松花江(しょうかこう)、ウスリー川の三つの大河が生み出した広大な堆積平野である。総面積は約1500万ヘクタール。夏には気温が30度に達し、冬にはマイナス30度まで冷え込む苛酷な気象条件である。それゆえ頻繁に冷害に見舞われ、大洪水では開拓地が壊滅する目に遭った。
革命後は、人民解放軍がほぼ部隊編成そのままに開拓団として開墾事業に投入され、開拓した村を国営農場(現在は国有農場)に編成した。そうした国営農場を管理するのが黒竜江省農墾総局で、そのまま北京政府農業部に直属する。また国営農場とは別に、農民らの集団所有による民営農場もある。
黒竜江省農墾総局の9分局の下に100を超える国営農場がある。主要作物はコメ、大豆、トウモロコシ、小麦など穀物類だが、主力はコメだ。2010年統計では、水稲作付面積が270万ヘクタールを超えており、日本全体の水田面積にほぼ匹敵する。米収穫量は1844万トン(日本は824万トン)だ。
三江平原だけでも54の国営農場があり、分局の一つが宝清県の「建三江分局」で、15の国営農場が傘下にある。その国営農場の田畑総面積は53万ヘクタールで、約80%が水田という。三江平原のうち、建三江分局の管轄地(宝清県)を日中農業協力のモデル地区として、「三江平原農業開発計画」を作成した。
黒竜江省の主力農産品はジャポニカ米
現在、黒竜江省は中国最大の食料生産基地に成長した。主力農産品がジャポニカ米の水稲だ。黒竜江省全体の水田面積が1980年に22万ヘクタールだったのが、90年代後半から急増し、2000年を過ぎる頃には7倍に拡大、畑を水田に転換する動きも見せた。背景には、三江平原計画によって用排水路網の整備が拡大されるとの見通しが出たことがあった。
また、三江平原計画より先に、岩手県の篤農家藤原長作と北海道の育苗技師原正市がそれぞれ黒竜江省の農村に長期間入り、冷害に強い水稲栽培法を中国農民に指導してきた功績が大きい。藤原、原の貢献は、黒竜江省産ジャポニカ米の品質を向上させ、10アール当たり収量を増やしたことにある。
一方、佐野の功績はかんがい排水事業の施工で、黒竜江省の水田面積を飛躍的に増大させたことだ。両方の貢献が相まって、中国最大のコメ生産基地が実現した。
佐野が初めて訪中したのは1974年11月、友好商社の国際貿易促進協会(会長藤山愛一郎)が主催した北京での「日本農林水産技術展」だった。展示会場には黒竜江省代表も来場して、亀田郷の記録フィルムや立体模型でのかんがい排水事業を見学した。佐野は副総理李先念や農林部長(大臣)沙風、中日友好協会長廖承志らと会談したものの、三江平原について特別な話はしなかった。
しかし、この技術展を契機に、佐野の発案で亀田郷と中国の農民の交流会が2年おきに実施されることになった。「中国の農村と農民の現実を知って、(亀田郷の人たちが)薄れかけた亀田郷の苦闘の歴史を思い起こすこと」が狙いだった。
中国からの三江平原計画への協力要請
1978年2月には、その第2次農民交流訪中団の団長として佐野が参加したが、そのとき中日友好協会の孫平化から正式に三江平原計画への協力要請を受け、あらましの構想を聞いた。三江平原の大湿原が亀田郷の1000倍もあること、開墾計画の目標が日本の農地全体(当時で450万ヘクタール)よりもはるかに大きいこと、などを初めて知った。
孫平化との会談と前後して、副総理王震の意を受けた中国帰国者友好会会長の林弥一郎とも会った。林は旧日本陸軍の将校で、敗戦後は国共内戦で八路軍に参戦した。八路軍の将軍だった王震とは古い友人という。
さまざまなルートから「三江平原計画」についての中国政府筋の期待を伝えられ、佐野は身が引き締まる思いだった。壮大な計画を知るにつれて、普通はたじろぐが、かえって闘志をたぎらすのが佐野の性分だった。
戦後の武装革命論を標榜(ひょうぼう)した時代の日本共産党に入党したが、理論に偏重した話にはほとんど心が動かない。何事も腹を割って話し合う。一種のおとこ気で、困っている人を見ては放っておけないタイプだった。中国の要人が口にした「農業が国の基幹産業だ」という言葉を耳にしたとき、佐野の腹は決まったといえる。
それまで日本の生産調整(減反)に腹わたが煮えくり返る思いを抱いてきた。帰国してすぐに「農業は日本の根幹なり」と題した直訴状を首相三木武夫に送った。「コメが余るなら、石油代替エネルギーなど、コメの用途を拡大する方策を研究して、地球の将来的な食糧不足に備えるべきだ」と書いた。
日中間の調整に奮闘
佐野は北京での会談を終えると王震の要請もあって、ハルビン、長春、瀋陽を訪問した。これには土壌専門家の新潟大学教授や中国帰国者友好会事務局長の金丸千寿らが同行し、黒竜江省政府や農林科学院、農学会、土壌研究所の人達と会い、三江平原の事業は日中両政府の技術協力での政府開発援助(ODA)でやる合意を得た。
そこで、まず中国政府から日本政府へ「要請書」を出す手はずを決めた。ところが、帰国後数カ月が経過しても要請書が出てこない。佐野はたまりかねて東京の中国大使館に出向き、担当公使に直談判した。
そこで、①日本の外務省と国会議員の中に、中国を海外技術援助の対象国とすることに異論があること②中国政府側にも日本政府に要請書を出すことに抵抗感があること――などが分かった。
問題点が明確になってからの佐野の行動は迅速だった。「白紙のまま政府や官僚に丸投げしても、何も動かないことが分かった。だから、まず亀田郷土地改良区主導で調査団を派遣して計画概要を作り、それから国際協力事業団(現・国際協力機構、JICA)の事業化調査につなげる形しかない」と決意した。
早速、79年夏、団長の佐野以下12人の基本建設考察団を編成した。メンバーには亀田郷土地改良区の技術者のほか、農林省(当時)、新潟県および民間の技術者や大型機械メーカーなど、佐野が声を掛けて多彩な人材を集めた。約1カ月間の黒竜江省での現地調査に併行して、省幹部と協議を行い、宝清県をモデル地区とし、そこに竜頭橋ダムを建設し、かんがい排水網を整備するという計画骨子を固めた。
外相伊東正義の取り計らい
考察団の手で概要が固まってからが、佐野の本当の出番となる。JICAのODAを実際に担うのは農林省や建設省や水資源開発公団(現・水資源機構)などだが、その首脳陣は多くが土地改良区の仕事で長年の付き合いがある人々だ。
JICAの事前調査団を派遣するために、どのようにすればいいのか、知恵を借りる必要があった。そうした数々の面談を佐野は決して人任せにせず、自身が出向いて、礼を尽くして頭を下げた。
だが、佐野にも弱点があった。外務省である。土地改良区の仕事には、外務省とのパイプがなかった。早い段階で出向いて担当の柳井俊二(後に事務次官、駐米大使)と面談したが、取り付く島がなかった。柳井は中国への支援協力を安請け合いする政治家や民間人が後を絶たないことに手を焼いていた。そのため、佐野の話もそうした与太話の一つとみなされてしまった。
このときの外相は佐野の古い友人の伊東正義(後に副首相)だった。しかし、あえて外相の扉をたたかずに、下から話を盛り上げようと考えたが、失敗だった。その失敗談を農水省構造改善局建設部長の浅原辰夫が佐野から聞いて、今度は浅原が伊東に直訴した。
伊東は「あの亀田郷の佐野くんか。よく知っているよ」と早速動いてくれて、JICAの第1次事前調査団を派遣する手はずを整えてくれた。
佐野はたとえ古い友人であっても、政治家への直訴には極めて慎重だった。だから、浅原が伊東の農水省農地局長時代の親しい部下だったと知り、彼を代役にと思いついて話をした。一本気な浅原は、その後の第2次事前調査団では、団長になって三江平原を訪れている。多くの引き出しを持ち、自在に人材を動かす“人たらし”たる佐野の面目躍如であった。(敬称略)
バナー写真:黒竜江省の三江平原にある紅衛農場の田んぼで稲の収穫作業を行う自動運転コンバイン(2020/10/15)新華社/共同通信イメージズ
以下、周恩来の宿願をかなえた伝説の男(下)に続く。