文化、グルメ、郷愁…日本人が「漢語」ではなく、あえて「台湾華語」を勉強する動機
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北京語とは異なるアクセントの台湾華語
「先生、お疲れさまでした」
授業の最後に、生徒たちが教師に深々と頭を下げるのを見ると、心が温くなる。2013年に中国語を教えるために来日して以来、いつも目にする光景だ。日本人は老若男女を問わず、教えを乞う相手に、常に礼儀正しく接してくれることに、心癒される。
今、中国語の習得が世界的なトレンドとなっているのは周知の通りだが、筆者が東京で教えているのは「台湾華語」である。華語とは、台湾や香港で使われる伝統的な画数の多い文字・繁体字を用いた言語のことであり、中国語を学ぶ外国人に対して、本土で使われる漢語との違いについて説明する語彙(ごい)であるということだ。
「台湾華語」という言葉を聞いたことがない人も多いだろうし、具体的なイメージがなく、中には「台湾語」だと思っている人さえいる。彼らの「中国語」に対する印象と言えば、中国本土で用いられている「簡体字」(1950年代に偏=へんや旁=つくりが簡略化された画数の少ない文字)の「漢語」や「普通語」、あるいはマスコミ報道でよく見かける「北京語」などだ。
日本で台湾華語を勉強する人は、この10年で増え続けており、その人気は中国の漢語に匹敵するほどなのだ。
ではなぜ、台湾華語が人気を集めているのだろうか? その理由については多くの面から分析できるが、ここでは経験豊富とは言えないものの、筆者の教師経験に基づいて、いくつかの側面を探ってみたい。
台湾華語を勉強する人の多くは、台湾を旅行した時に感じた台湾の温かさや、もてなしの心にひかれたことがきっかけになったという。71歳になる筆者の教え子である小林豊さんは、「台湾人と華語で楽しく会話をして、機会があれば感謝の気持ちを伝えたい」というのが最大の動機だと語っている。
小林さんは台湾旅行中、故宮博物院に向かうタクシーの中で財布を落としてしまった。落胆して娘と一緒にホテルに戻ってきたところで、目に飛び込んできたのは、先刻のタクシー運転手だった。長い間待っていた様子だったが、財布を指さして、「ここにあるよ」と声を掛けてくれた。感激した小林さんは、お礼に1千元札を渡そうとしたが、運転手は頑として受け取らなかった。
この経験がきっかけで、小林さんは華語を勉強したいと思ったそうだ。授業では、いつも好きな食べ物や景勝地の事をノートに書いている。次に台湾に行った時には、華語で道を尋ね、レストランで注文きるようになりたいそうだ。コロナ禍にある今は、リスニング力を鍛え、より深く台湾を知るために台湾の映画を観ている。
ファミリーヒストリー
「家族の歴史をたどる」ために台湾華語を学ぼうとする人もいる。
教え子の小川真寿美さんの祖父は戦前、台湾の製糖会社で働いていて、祖母は高雄で「寿食堂」を開き、日本の軍人さんが常連客として数多く訪れていたという。2人の間に生まれた真寿美さんの母親は、台湾生まれの「湾生」だ。
一家は第二次世界大戦後の1946年、日本に引き揚げてきた。真寿美さんの母親は当時10歳で、生まれ育った台湾のことが頭から離れず、ずっと「高雄・岡山区の出身だ」と言っていたという。
2001年、真寿美さんは両親や夫、娘たちを連れて高雄を訪れた。当時65歳だった真寿美さんの母親は、故郷に戻れた嬉しさに涙をこらえられなかったという。
真寿美さんが感動したのは、祖母の「寿食堂」で働いていた台湾人の三郎さん(日本時代の名前)が一家を歓迎してくれたこと。初めて高雄産の果物・蓮霧(レンブ)を味わえたこともうれしかった。その後、三郎さんの家族とは連絡が取れなくなってしまったのだが、真寿美さんは独学で中国語の勉強を始め、何度も台湾を訪れるうちに、すっかり台湾ファンとなり、台湾華語を勉強したいと思うようになった。年に2回以上台湾を訪れ、台湾人と簡単な会話をするようになると、彼らがとても親切であることが分かった。そうすると、ますます真寿美さんは台湾華語の勉強に熱が入り、より台湾の生活に近づくため、注音符号(華語で用いる発音記号)の付いたテキストを使うまでのこだわりを持つようになった。
新型コロナウイルスの流行以降、海外旅行に行くのが難しくなったが、真寿美さんはいつか台湾で華語を使って話したいと願っている。また、日本統治時代の戸籍謄本を申請して、高齢で旅行が困難となった母親のために、生まれた時代の資料を見せたいと考えている。真寿美さんは「退職後には台湾に少しの間住んでみたい」と笑いながら語る。数カ月を掛けて列車で台湾を一周し、華語で話しながら、台湾をより深く知りたいそうだ。
台湾の旅はリラックスのため
台湾好きな日本人が、台湾華語を勉強すると、よりディープな台湾旅行ができるようになる。台湾を旅すると、単なる旅ではなく、故郷に帰ったような温かい気持ちになるという人も少なくない。
教え子の1人である現・産経新聞論説委員兼特別記者の河崎真澄さんは、シンガポールで中国語を学び、10年間にわたって台北支局長、上海支局長を歴任した。赴任先で鍛えられたとあって、かなり流暢な中国語を話すのだが、なぜ彼は勉強を続けることにこだわり、さらに台湾華語を学ぶことにしたのだろうか。
「台湾に来るたびに、家に戻って来たような感覚になる」という河崎さんだが、その理由は当の本人にもよく分からないという。ただ、台湾人の純粋な精神と行動力に、日本人とは異なるエネルギーを感じるのだ。ジャーナリストとしてだけでなく、大学でも教鞭を執るなど多忙を極めていたが、それでも河崎さんは中国語の授業をほとんど休むことはなく、空港の待合室でリモートで授業に参加したこともあった。
「台湾に来ると、いつもMRT(台湾の地下鉄)に乗り換えた瞬間からリラックスした気分になります」
もう一人の教え子、秋本永儷さんは日台のハーフで、小学校5年生までは台北で暮らしていたが、日本に来てからは、中国語をほとんど使わずに育ったため、台湾に住む親戚とスムーズなコミュニケーションができなくなっていた。それで、秋本さんは、もう一度台湾華語を勉強したいと思った。
台湾華語検定に備えた勉強以外にも、休みの日には台湾人の集まりに参加して、華語を話す機会を増やしている。看護師として働く傍ら、モデル業もこなす彼女は、コロナ禍が落ち着いたら、将来は台湾に定住し、日台ハーフのモデルとして活躍したいと希望している。彼らを勉強に駆り立てているのは、ひと味違った「望郷の念」だと筆者は感じている。
「漢語」思考からの脱却
日本では簡体字を用いて中国語(漢語)を学ぶことが今も一般的で、台湾華語を学びたい日本人の多くは、台湾人の先生がいない、適切な華語の教科書がない、教室が近くにないなどの理由で、中国式の漢語教室に通わざるを得ない状況だ。
十数年前までは、台湾華語の教員養成機関が少なく、日本で華語を教えることのできる教師も非常に少なかった。その結果、ある学生は10年以上も簡体字で中国語を勉強していたのだが、最近になって「台湾華語」という選択肢があることを知り、華語の学習に切り替えた、というケースもある。
繫体字は日本人にとってメリットがある?
彼らにとって、台湾華語で用いる繁体字は日本語の漢字に近く、すぐに発音ができなくても、文字から意味を推測することができる。また、華語の語調は柔らかく、特に助詞にあたる部分が日本語とよく似ているため、語気をソフトにできる作用がある。
中国が主催する語学検定である「HSK(漢語水平考試)」も、日本の「中国語検定」も簡体字が中心であり、ビジネスユースで中国語を学ぶのであれば、繁体字はあまり役に立たないかもしれない。しかし、台湾の文化や古今の漢詩が好きな人にとっては、繁体字を用いる台湾華語こそが、生活を豊かにしてくれる言葉なのだ。
今後の教員養成の観点からすれば、日本でより多くの台湾ファンを養成するために、台湾華語の教育の必要性が高まっていると言えるだろう。華語を日台の新たな架け橋にできたことは、語学教育に従事する筆者にとってうれしい驚きであった。また、教え子たちの現在に至るストーリーを聞くことは、筆者にとっても大きな収穫となった。
台湾華語を教える立場としては、彼らが言いたいことを華語に変換するのを手伝うだけなのだが、日本の学生にいかに学習意欲を持たせ、興味を持続させるか、ということが私の目標であり、モチベーションでもある。中国による「孔子学院」のような中国語講座が世界各地で閉鎖・減少している状況の中、華語が日本で新しい市場を開拓し、発展していけるかどうかは非常に重要なことだと考えている。
華語を教えるようになって、日本の多くの都市に移り住んだが、関西の学生の熱意、中部の学生の真剣さ、関東の学生の礼儀正しさに感銘を受けた。筆者はそれぞれの学生の状況に合わせて、彼らにふさわしい教材を用意し、授業を行わなければならない。毎日、教室はほぼ満員だが、日本の学生からの感謝の言葉や感想に触れると、やりがいを感じ、彼らが自分自身と台湾との心の絆を取り結ぶ手助けができたならば、それこそが私の仕事の最大の収穫だと言えるだろう。
バナー写真=ベテラン台湾華語教師の李欣雨氏(右2人目)。日台の民間交流にひと役かっている
※写真はすべて筆者撮影