南シナ海もうひとつの火薬庫「東沙諸島」

絶海の孤島・東沙諸島を訪ねる

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片倉 佳史 【Profile】

南シナ海に浮かぶ島、東沙(プラタス)島。ここは南沙(スプラトリー)諸島や西沙(パラセル)諸島と同様、周辺諸国の領有権問題を抱えたアジアの火薬庫であり、要衝の地。穏やかで美しい大海原に囲まれた小さな環礁が連なる東沙島を訪れた経験を持つジャーナリストが、その知られざる姿を紹介する。

アジアの火薬庫として知られる海域

現在も東沙島は南沙諸島の太平島(日本統治時代の呼称は長島)と共に、中華民国政府の実効統治下にある。中華民国に組み込まれた当初は広東省、後に海南特別行政区に編入されたが、国民党政府が台湾に国体を移した1949年以降は高雄市の管轄となった。現在は高雄市旗津区中興里に属している。

東沙海域は台湾以外にも中国やベトナムが領有権を主張しており、台湾にとっては不法漁民との葛藤は悩みの種だ。現在のところ、武力衝突は起こっていないが、全域が管制区域となっているため、一般市民が渡航することはできない。

なお、終戦まで日本領だったのは、東沙島のみならず、新南群島(現・南沙諸島)、そして、平田末治(ひらだすえじ)が開発した平田(ひらだ)諸島(現・西沙諸島)も含まれる。

現在、西沙諸島は中国の実効統治下にある。そして、南沙諸島は中国、台湾、ベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイが領有を主張している。現状としては、中国と台湾、フィリピンとベトナムが分割実効統治を行なっており、群島内最大の面積を誇り、唯一の真水が出る島である太平島は前述のように台湾が統治している。

ラグーン(潟湖)。かつては鳥糞(グアノ)と燐鉱石の採掘が基幹産業だった。当初、島は西澤吉治の私有財産であり、「企業島」だった
ラグーン(潟湖)。かつては鳥糞(グアノ)と燐鉱石の採掘が基幹産業だった。当初、島は西澤吉治の私有財産であり、「企業島」だった

現在の東沙島を訪ねる

東沙島は北緯20度42分3秒、東経116度42分14秒の位置にあり、典型的な熱帯性気候でほぼ毎日スコールに見舞われるが、降雨は夏場に偏っている。台風の襲来も多く、日本統治時代の記録によれば、島全体が波に洗われるようなこともあったという。

気候区分としては、台湾南部と同じく熱帯性気候に属するが、風が常に吹き抜けており、思いのほか過ごしやすい。年間平均気温は約26度で、夏場の平均気温は28.5度、冬場でも17度ある。

筆者が最初に東沙島を訪れたのは2008年7月23日のことだった。これは中華民国行政院新聞局(当時)の計らいで、各国のメディア関係者と共に東沙島の土を踏んだ。これは外国人として、最初の訪問団とされている。

当時は折しも東沙周辺の生態系破壊が大きな話題となり、時の陳水扁政権は2007年1月17日、東沙全域を国家公園(国立公園)に指定していた。約8万ヘクタールに及ぶ広大な珊瑚礁は、世界でも稀少なもので、その生態系を護ることが目的とされた。現在は生態環境を研究するための施設が整えられ、研究員が常駐している。

美しい砂浜。しかし、付近は暗礁が多く、「魔の海域」として知られる。現在、環礁の外辺に10カ所、近海を合わせると28の沈没船が確認されている
美しい砂浜。しかし、付近は暗礁が多く、「魔の海域」として知られる。現在、環礁の外辺に10カ所、近海を合わせると28の沈没船が確認されている

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中国 台湾 南シナ海 人民解放軍 日本 東沙諸島 西澤吉治

片倉 佳史KATAKURA Yoshifumi経歴・執筆一覧を見る

台湾在住作家、武蔵野大学客員教授。1969年神奈川県生まれ。早稲田大学教育学部在学中に初めて台湾を旅行する。大学卒業後は福武書店(現ベネッセ)に就職。1997年より本格的に台湾で生活。以来、台湾の文化や日本との関わりについての執筆や写真撮影を続けている。分野は、地理、歴史、言語、交通、温泉、トレンドなど多岐にわたるが、特に日本時代の遺構や鉄道への造詣が深い。主な著書に、『古写真が語る 台湾 日本統治時代の50年 1895―1945』、『台湾に生きている「日本」』(祥伝社)、『台湾に残る日本鉄道遺産―今も息づく日本統治時代の遺構』(交通新聞社)、『台北・歴史建築探訪~日本が遺した建築遺産を歩く』(ウェッジ)、『台湾旅人地図帳』(ウェッジ)、『台湾のトリセツ~地図で読み解く初耳秘話』(昭文社)等。オフィシャルサイト:台湾特捜百貨店~片倉佳史の台湾体験

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