李琴峰の扶桑逍遥遊(ふそうしょうようゆう)

私は古里を持たない──鹿児島市を歩く

文化 歴史

明治維新の実現に貢献した「維新三傑」のうち、西郷隆盛と大久保利通の2人を育んだ薩摩。鹿児島にとって、明治維新の歴史は誇りであり、アイデンティティであり、一大観光資源でもある。その鹿児島の地を歩いて、李琴峰が感じるのは、エモさでも、感動でもなく、「寂しさ」だったという。誇るべき古里を持たない、集団への帰属感がないというアイデンティティに向き合う旅。

幕末の志士を育んだ薩摩の風土

甲突川(こうつきがわ)の畔(ほとり)から海の方を眺めると、桜島の火口から立ち上る煙は暗雲と落ち合い、濛々と空を覆っていた。

甲突川から眺める桜島 ©李琴峰
甲突川から眺める桜島 ©李琴峰

明治維新で大活躍した旧薩摩藩だけのことあって、鹿児島市の市街地にはあちこち維新志士関連のスポットが鏤(ちりば)められている。銅像はもちろん、生誕の地、終焉の地、記念碑、モニュメントなどが建てられ、鹿児島中央駅前広場には「若き薩摩の群像」と呼ばれる銅像群が目立つ。市内を流れる主要河川の甲突川に沿って「歴史ロード」なる散歩道が整備され、島津忠良による「いろは歌」47首の石柱や、薩摩の歴史と風土を紹介する解説板が置かれている。歴史ロードの一角に、薩摩藩と明治維新の歴史を展示する「維新ふるさと館」がある。

西郷隆盛の生誕の地(左)と自刃したとされる終焉の地©李琴峰
西郷隆盛の生誕の地(左)と自刃したとされる終焉の地©李琴峰

鹿児島(薩摩藩)は日本本土の最南端にあり、海を介して外国の文化、思想、知識と技術に触れる機会に恵まれていたから、明治維新を牽引することができた。実際、ザビエルの来訪や、種子島の鉄砲伝来、琉球支配など、海外に関係する歴史的な出来事が多く、蘭学をはじめとする西洋の学問に関心を抱く薩摩藩藩主も何人もいた。

1853年の黒船来航、1854年の日米和親条約により江戸幕府は開国を強いられ、日本に激震が走った。1858年に不平等条約である日米修好通商条約が結ばれることで批判が噴出し、開国に反対する尊王攘夷運動が勃発した。尊王攘夷派の一部は大老井伊直弼によって安政の大獄で弾圧されたが、井伊自身も桜田門外の変で暗殺された。それからは戦争と同盟、謀略と暗殺、血を血で洗う歴史が繰り広げられることになった。

薩摩藩は元々攘夷を唱えていたが、1862年、藩士がイギリス人を殺傷する生麦事件が起こり、翌年にイギリスと戦争する羽目になる(薩英戦争)。これにより薩摩は西洋列強の強さを思い知り、攘夷を諦めて討幕一筋になった。それどころか、雨降って地固まるという言葉に相応しく、イギリスとは仲良くなった。イギリスの協力の下で鎖国の禁を破り、藩費留学生を派遣した(後に初代文部大臣となった森有礼や、東京大学の前身である東京開成学校の初代学校長となった畠山義成もその中にいた)。1866年薩長同盟の後、幕府による第二次長州征伐の際に長州藩が勝利できたのも、イギリスの援助によるところが大きかった。この敗戦により、幕府の威信は失墜した。

激流に翻ろうされた西郷隆盛と大久保利通

薩摩出身の維新志士と言えば、西郷隆盛と大久保利通より有名な人物はないだろう。二人とも幼少期は加治屋町に住み、「郷中(ごじゅう)教育」制度の中で竹馬の友となった。西郷は薩摩藩で何度も遠島(島流し)になったが、その都度大久保が藩に働きかけて西郷のために許しを乞うた。二人は幕末で共に新政府の樹立を目指し、1867年王政復古の後も明治新政府の要人として活躍した。

大久保利通銅像 ©李琴峰
大久保利通銅像 ©李琴峰

ところが、1871年の遣欧使節団(岩倉使節団)に大久保は参加し、西郷は日本に残って留守番をした。それが二人の友情に亀裂が入る遠因となった。1873年、朝鮮出兵問題を巡り、二人の意見は対立した。欧米の近代文明を目の当たりにした大久保は、まず内治を優先すべきだと主張したが、それに対し、西郷は派兵すべきだと訴える。結局西郷は1874年に政府を去って鹿児島に戻り、郷里で私学校を作る。その3年後、1877年、新政府を恨む鹿児島の士族に担ぎ上げられた形で、西郷は西南戦争を発動し、8か月後に敗れて自刃した。偶然にもその翌年、大久保もまた東京で暗殺されて世を去った。幼い頃の親友同士が激動の時代に押し流され、やがて殺し合わざるを得なくなる二人の人生があまりにもエモーショナルだったため、度々歴史小説やテレビドラマの題材になった。

肯定的に語られなけばならない維新

しかし鹿児島市内をそぞろ歩き、史跡を訪ねて回っているうちに、私が感じたのはエモさや感動より、寧ろ寂しさだった。明治維新の歴史が、この地ではあまりにもポジティブに語られているように感じたからだ。

観覧車から見下ろす鹿児島市と桜島 ©李琴峰
観覧車から見下ろす鹿児島市と桜島 ©李琴峰

例えば、西郷や大久保はもちろん、村田新八、東郷平八郎、山本権兵衛など、幕末の薩摩が数々の偉人要人を輩出できた要因の一つとして、「郷中教育」が行われていたことが紹介されている。これは薩摩藩独特な青少年教育で、教師はおらず、同じ地域内(「郷中」という)に住む先輩(年長者)が後輩(年少者)を指導する仕組みである。青少年たちは(およそ)6歳から15歳の「稚児(ちご)」、15歳から25歳の「二才(にせ)」、そして25歳以上の「長老(おせ)」に分けられ、それぞれ異なる役割を与えられる。

「議を言うな」「長老衆に従え」といった言葉があるように、上下関係が厳しく、先輩の言うことは絶対で、反論は許されないとされていた。現代風に言うと「体育会系」ということだろう。いじめやパワハラ、根性論や精神論など、現代の体育会系的な組織に観察されるような問題もなかったはずがない。そもそも教育にアクセスできたのは男子に限られていた。しかしそうした問題点に対する批判的な視線が全く感じられず、「郷中教育」はここでは一貫して「日本近代化への原動力」を作り出した制度として肯定的に紹介されている。また、蝦夷地(北海道)開拓についても、開拓側の労苦と功績が強調されても、アイヌ人が受けた影響には全く触れられていなかった。

これは当然と言えば当然だろう。明治維新の歴史は鹿児島の誇りであり、アイデンティティであり、そして一大観光資源なのだから、肯定的に語られて然るべきだ。

保守化する開拓者

それでも、この事実は私に質の異なるいくつかの種類の寂しさをもたらした。

まず、歴史は常に勝者、強者側の視点で語られているということ、そして偶然に偶然を重ねた結果論に過ぎないことを思い出さされた。私たちが信じている現代的な正しさなど、歴史の濁流の中で無力なだけでなく、歴史が語られる時にさえ無力なのだ。

次に、外国の文明をいち早く導入し、幕府の統治に抗い、近代化を牽引した薩摩は確かにあの時代では歴史を切り拓いた進歩的な存在だったのかもしれない。しかし、時代を動かし、「近代日本の夜明け」を生み出した鹿児島の地は、今は寧ろ変化を拒み、進歩的な価値観をはねつける保守王国となっている(それは選挙の結果からも分かる)。先進的な価値観を取り入れて新しい時代を切り拓いた個人や集団が、時代が移り変わるとついていけず、保守になっていくのは、どうやら歴史の宿命らしい。

最後に、これは極めて個人的なことなのだが、自分はやはり故郷を持たない人間であることを突き付けられた。維新志士を多く輩出したことで自らの郷里に誇りを抱く鹿児島の人々みたいに、「自分と同じ出身地の人間が何か大業を成し遂げたことで、自分のことのように誇りに思う」というような感覚を、私は抱いたことがない。明治維新もそうだが、創世神話、建国の偉人など、様々な物語を共有することで、世の中の多くの人たちは所属する集団に対する帰属感を抱き、そこから地元愛や愛校精神、愛社精神、ひいては愛国心を培い、それがアイデンティティに繋がっているのだろうが、私はいつも、その輪の外側に自分がいるように感じている。

時の流れの中を孤独に放浪する

しかし――と私は考えた。私を作家にしたのは、ひょっとしたらそうした寂しさ、そうした疎外感なのかもしれない。どこかに所属することができなかったからこそ、私は個人として世界と対峙することを選んだのかもしれない。

軍服を着ているがたいのいい西郷隆盛銅像から歩いて数分のところに、「かごしま近代文学館」があり、鹿児島ゆかりの作家の展示が行われている。中には二人の女性作家、林芙美子と向田邦子がいた。二人とも鹿児島生まれではないが、幼少期にこの地に住んだことがあるという。林芙美子は47歳で心臓麻痺で急逝し、向田邦子は飛行機事故で不慮の死を迎えた。

西郷隆盛銅像 ©李琴峰
西郷隆盛銅像 ©李琴峰

維新の偉業を遂げ、歴史の主人公として語り継がれる男たちよりも、私はこの二人の女性作家の方にシンパシーを覚える。

林芙美子は代表作『放浪記』の冒頭で、こう書いている。

「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない」

この感覚は私ととても似ている。私も故郷を持たない、いや持てない人間である。西郷と大久保みたいに幼き日からの親友なんて一人もいないし、私が頼ってきたのはいつも、どこまでも儚くて壊れやすい縁だった。

文学館を離れ、近くにある城山に登る。ここには西南戦争の中で絶体絶命の危機に遭った西郷が5日間立て籠もった洞窟があるが、更に登っていくと、市街地を一望できる展望台に辿り着く。空を覆う暗雲と、聳え立つ桜島。自然の景色は150年前とは大して変わらないだろうが、人間の営みは大きく変わっている。

結局人はみな、時の流れの中で放浪している孤独な存在に過ぎないのかもしれない。それでも、この広い天と地の間で、たとえ故郷でなくとも安心して帰れるような小さな居場所があれば、人は生きていける。そして、生かしてくれるようなそんな居場所なら、もはや故郷と言って差し支えない。

そのように私は信じたい。

薩摩英国留学生を記念する「若き薩摩の群像」 ©李琴峰
薩摩英国留学生を記念する「若き薩摩の群像」 ©李琴峰

バナー写真 : 桜島©李琴峰

鹿児島 桜島 幕末 李琴峰