李琴峰の扶桑逍遥遊(ふそうしょうようゆう)

精一杯の秘境・祖谷——初めての四国・その一

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李 琴峰 【Profile】

コロナ禍で最初の緊急事態宣言が出てからの半年間、外出先と言えばドラッグストアやドン・キホーテやスーパーくらい、打ち合わせも取材も講演もほとんどオンラインだったという。自粛生活から解放された李琴峰が向かった先は、日本三大秘境の1つである祖谷(いや)エリア。バスが通り、土産物屋や食事処が軒を連ねる場所が果たして秘境なのか? という疑問はさておき、新鮮でひんやりとした空気、深い緑色の川の流れが、旅への渇望感を満たしてくれる。

哀愁漂う琵琶の滝

橋から歩いて数分のところに、琵琶の滝という名の滝があった。何故かは分からないが、私はどうやら滝に惹かれる性質を持っているらしく、旅先で滝があると分かるといつも訪れてみたくなる。真っ白な絹のような水流がしぶきを飛ばし、音を轟かせながらすごい勢いで落ちてくるのを眺めると、何故か楽しい。言ってみれば川が地形の高低差で落下するだけの現象に過ぎないのに、一体どこが楽しいのだろう。しかし見入っているのは私だけではなく、他にも数人の観光客が楽しげに滝を眺めたり、写真を撮ったりしていた。

昔、李白が廬山の滝を見て「飛流直下三千尺、疑ふらくは是れ銀河の九天より落つるかと」という名句を書いた。ここ琵琶の滝は銀河が落ちてくると思わせるような壮観な景色とは程遠いが、ちょっとした伝説がある。源平の戦いで敗れた平家の人が祖谷に逃げ込んでこの地に住み着き、かつて都での華やかな暮らしを偲びながら滝の下で琵琶を奏でて互いの無聊(ぶりょう)を慰め合ったことから、琵琶の滝と呼ばれるようになったという。もちろんこれは史実ではなく単なる伝説なのだが、知ると幾許(いくばく)か哀愁の念が増す。近くの木造家屋の売店から、みたらし団子の香りが漂ってくる。

琵琶の滝
琵琶の滝

それにしても、かつては交通が不便で外界と隔絶されるが故に秘境とされていた場所でも、道路が整備され、バスが通り、観光客が気軽に立ち寄れる土産物屋や食事処までできた今となっては、まだ秘境と言えるのだろうか。しかし、本当の秘境なら私なんかが立ち入る術がない。車の運転もできないし、サバイバルの心得も皆無なのはもちろん、このコロナ禍において海外へ出ることも叶わない。そんな私でも、今、手を伸ばせば届くような精一杯の秘境がここ、徳島の祖谷かもしれない。

祖谷のかずら橋の下の河原
祖谷のかずら橋の下の河原

自分宛てにポストカードを出したくなった。旅先でいつもしていることだ。ちょっと探すとポストはあった。カードは土産物屋で買ってある。しかし切手がない。コンビニは言うまでもなく、切手を売っていそうな店もない。徳島市に戻ってから出すという手もあるが、祖谷の消印が欲しいのだ。仕方なく、道端でしゃがんで乱筆で書いたポストカードを、切手なしの状態で投函してみた。後日ちゃんと届いた。送料の63円は郵便局の窓口できちんと支払った。

歩き疲れた足を引きずりながら徳島駅に戻った時はもう夜だった。相変わらず曇っている夜空には、銀色の月が見えた。徳島到着の日より少し欠けている。旅はまだ終わらない。

写真は全て筆者撮影
バナー写真=眉山から撮影した徳島市の市街地

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日中二言語作家、翻訳家。1989年台湾生まれ。2013年来日。2017年、初めて日本語で書いた小説『独り舞』で群像新人文学賞優秀作を受賞し、作家デビュー。2019年、『五つ数えれば三日月が』で芥川龍之介賞と野間文芸新人賞のダブル候補となる。2021年、『ポラリスが降り注ぐ夜』で芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。『彼岸花が咲く島』が芥川賞を受賞。他の著書に『星月夜(ほしつきよる)』『生を祝う』、訳書『向日性植物』。
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