李琴峰の扶桑逍遥遊(ふそうしょうようゆう)

精一杯の秘境・祖谷——初めての四国・その一

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李 琴峰 【Profile】

コロナ禍で最初の緊急事態宣言が出てからの半年間、外出先と言えばドラッグストアやドン・キホーテやスーパーくらい、打ち合わせも取材も講演もほとんどオンラインだったという。自粛生活から解放された李琴峰が向かった先は、日本三大秘境の1つである祖谷(いや)エリア。バスが通り、土産物屋や食事処が軒を連ねる場所が果たして秘境なのか? という疑問はさておき、新鮮でひんやりとした空気、深い緑色の川の流れが、旅への渇望感を満たしてくれる。

自粛生活からの解放

それでも、半年以上自宅に籠城し、打ち合わせも取材も講演もほとんどオンラインで完結させてきた身として、旅行できること自体とてもありがたい。半年来ほぼ一人暮らしの部屋に籠もり、外出先と言えばドラッグストアやドン・キホーテやスーパーくらいなので、心身ともに陽射しの香りと、緑の樹々と、茫洋たる海や河川を求めてうずうずしているのだ。政府も税金を投じてGo Toキャンペーンで旅行を後押ししているのだから、使わない手はない。

そんな全身全霊の渇望を満たしてくれたのが、日本三大秘境の1つとされている祖谷(いや)エリアの大歩危(おおぼけ)と小歩危(こぼけ)である。漢字を見なければ大きなボケと小さなボケかと思ってしまう地名だが、渓流に臨む断崖を意味する古語「ほき」が由来らしい(諸説あり)。およそ「三大○○」というのは誰がいつどのように決めたか分からない怪しいものが多いが、この際深く考えないようにしておく。

祖谷の秘境
祖谷の秘境

実際、この秘境は美しい。四国の一級河川・吉野川の堆積作用によって形成された徳島平野は「<」の形をしており、徳島駅のある徳島市は吉野川の河口、つまり「<」の一番開いているところに位置する。そんな徳島駅から電車を乗り継いで西へ、「<」の尖っているところへ向かえば、1時間半程度で大歩危駅に着く。途中で車窓から眺める景色は既に壮観で、田んぼが点在する平地から次第に山の風景に移り変わり、山肌が眼前まで迫ってきたかと思えば突如視界が開け、緑の渓流が見えたりする。人里を離れてどんどん深山へ入っていっているのが分かる。電車を降りるとホームの両側は鬱蒼と茂る山々に挟まれており、それらの山は幾重にも重なり、微かに曇る空の下で遥か彼方まで連なっていく。山の斜面には人家や商店がぽつりぽつりと建っている。周りをぐるりと眺めながら高地特有の新鮮でひんやりとした涼しい空気を胸いっぱいに吸い込むと、心が洗われたように自粛生活で溜まった鬱気がどこかへ消え失せた。

大歩危というのは吉野川流域に位置する渓谷とその周辺地域のことで、渓谷そのものを指す場合は大歩危峡とも言う。この渓谷は吉野川の激流が数千万年の歳月をかけて切り刻んでできたもので、川の両岸は切り立つ絶壁になっており、奇岩怪石がぎっしり並んでいる。百年以上の歴史があるという遊覧船もあるので、乗ってみることにした。

大歩危峡
大歩危峡

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日中二言語作家、翻訳家。1989年台湾生まれ。2013年来日。2017年、初めて日本語で書いた小説『独り舞』で群像新人文学賞優秀作を受賞し、作家デビュー。2019年、『五つ数えれば三日月が』で芥川龍之介賞と野間文芸新人賞のダブル候補となる。2021年、『ポラリスが降り注ぐ夜』で芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。『彼岸花が咲く島』が芥川賞を受賞。他の著書に『星月夜(ほしつきよる)』『生を祝う』、訳書『向日性植物』。
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