李琴峰の扶桑逍遥遊(ふそうしょうようゆう)

始まりの場所――下関紀行

文化 暮らし 歴史

李 琴峰 【Profile】

「下関は私にとって訪れなけばならない場所の一つだった」――と聞くと、多くの日本人は、ぜいたくなふぐ三昧ツアーを楽しむ姿を想像するかもしれない。李琴峰にとって、その地は東アジアのパワーバランスを変えた歴史の舞台であり、現在につながる「始まりの場所」なのだという。その出来事がなければ、李琴峰という作家が日本で暮らし、日本語で創作活動をすることもなかったのかもしれない。その地に立つことで、無味乾燥に思える歴史の教科書の中の出来事が、今につながっていることを実感する。

日本と台湾の関係も下関条約から

そして台湾、台湾。それまで清国の領土だった台湾は、下関条約の締結によって、日本が手にした初めての植民地となった。植民地支配には当然、光の面も影の面も伴うが、ともかく台湾と日本の切っても切れない関係も、下関条約から始まったと言える。日本の台頭と中国の失墜を印象付け、更に台湾にとっては植民地支配を意味する条約、それが下関条約なのだ。条約締結から125年経った今、台湾とも日本とも縁が深い私はそんな条約が結ばれた場所を訪れている。深い感慨を覚えるのも当然である。

「日清講和記念館」の近くに、「李鴻章道」という名前がついている小さな道がある。1895年に講和会議で日本を訪れた李鴻章だが、会議が長期化する中で講和に反対する一般人にピストルで狙撃されたという事件が起こった。重傷を負ったが、幸い一命を取り留めた。それ以降、会議場へは大通りを避けて山沿いの小道を歩いて行くことにした。そのとき李鴻章が歩いていた道が、現地の住民の間で自然と「李鴻章道」と呼び慣らわされるようになったらしい。実際に歩いてみると確かに山沿いの小道で、その周りには民家も点在していた。「李鴻章道」と呼ばれる道の近くに住んでいるというのはどういう感覚なのか、想像せずにはいられない。まあ、実際に住んでみると何も感じないだろうけど。

李鴻章道。本当に山沿いの小道だ(筆者撮影)
李鴻章道。本当に山沿いの小道だ(筆者撮影)

李鴻章道に沿って西の方へ進むと、引接寺(いんじょうじ)という浄土宗の寺院があった。講和会議の時、李鴻章一行がここに泊まっていたとのことだった。外見は何の変哲もない普通の寺院なので、解説板がなければそんなゆかりがあることにはなかなか気づかないだろう。

李鴻章一行が泊まっていたという引接寺(筆者撮影)
李鴻章一行が泊まっていたという引接寺(筆者撮影)

その地に立つことで、歴史の登場人物の「生」を感じる

教科書で歴史を習うと、往々にして生きた人間としての実感を伴わない多くの人名が、ただ極めて単純な論理に従って動いているように見え、場合によっては愚かしくすら映る。しかし史跡を訪ねると、歴史の中にいるのは一人一人の生きた人間であり、それらの人間には信念があり、欲望があり、思惑があり、そしてその行動は所属する集団の力学や駆け引きによって影響される複雑なものだということを、改めて思い出す。

そして私たちが知っている歴史は、既に誰かによって解釈され、単純化されたものだと思い知る。自分が生まれるよりも遥か昔、自分の五感では決して届き得ないような時空には、今この瞬間と寸分違わぬ人間の営みがあったこと、それはとても当たり前で、故にとても不思議なことだ。

下関の黄昏の景色(筆者撮影)
下関の黄昏の景色(筆者撮影)

参考資料:張戎(2014)『慈禧:開啟現代中國的皇太后』(台北、麥田出版)

バナー写真=下関の景色。奥の橋は関門海峡を跨ぐ関門橋。その下には歩いて渡れる海底トンネルがある(筆者撮影)

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李 琴峰LI Kotomi経歴・執筆一覧を見る

日中二言語作家、翻訳家。1989年台湾生まれ。2013年来日。2017年、初めて日本語で書いた小説『独り舞』で群像新人文学賞優秀作を受賞し、作家デビュー。2019年、『五つ数えれば三日月が』で芥川龍之介賞と野間文芸新人賞のダブル候補となる。2021年、『ポラリスが降り注ぐ夜』で芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。『彼岸花が咲く島』が芥川賞を受賞。他の著書に『星月夜(ほしつきよる)』『生を祝う』、訳書『向日性植物』。
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