李琴峰の扶桑逍遥遊(ふそうしょうようゆう)

始まりの場所――下関紀行

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李 琴峰 【Profile】

「下関は私にとって訪れなけばならない場所の一つだった」――と聞くと、多くの日本人は、ぜいたくなふぐ三昧ツアーを楽しむ姿を想像するかもしれない。李琴峰にとって、その地は東アジアのパワーバランスを変えた歴史の舞台であり、現在につながる「始まりの場所」なのだという。その出来事がなければ、李琴峰という作家が日本で暮らし、日本語で創作活動をすることもなかったのかもしれない。その地に立つことで、無味乾燥に思える歴史の教科書の中の出来事が、今につながっていることを実感する。

阿片戦争後の清国の改革

中高時代に勉強した、阿片戦争以降の清末の歴史を思い返すと、実に敗戦、賠償金、領土喪失の繰り返しばかりで、かつての天翔ける龍の信じられない弱体ぶりしか印象に残らなかった。しかし、歴史教科書の平板な記述よりも、本物の歴史は往々にしてもっと複雑だった。列強の侵攻に直面した清国の政治家は、何も無策にただ手を拱(こまね)いていたというわけではない。1840年の阿片戦争に続き、1860年のアロー戦争でも敗戦を喫した清国は、「洋務運動」(または「自強運動」)と呼ばれる一連の改革に踏み切った。外交や軍備から教育、通信にいたるまで、幅広い改革が行われた。国際法に基づいて、外交事務を行う役所「総理各国事務衙門」を設置し、欧米諸国と対等に渡り合った。軍隊を近代化し、軍艦を購入し、アジア最大規模の海軍「北洋艦隊」を創設した。電報を導入し、西洋の書籍を翻訳し、留学生も派遣した。明治維新よりも迅速で、かつ大規模なこれらの改革は確かに功を奏し、「同治中興」と呼ばれる繁栄期を切り拓いた。この時期、欧米列強も清国の復興ぶりには一目置かざるを得なかった。

洋務運動の主な推進者として、曽国藩や李鴻章などの高級官僚ばかりが強調されてきたが、実は当時、政権を握っていたのは一人の女性、西太后・慈禧(じき)だった。「同治中興」はまさに彼女が主導した改革がもたらした成果なのだ。にもかかわらず、彼女の功績は従来の歴史教育ではほとんど言及されていない。それどころか、彼女はしばしば亡国を招いた腐敗した保守派として描かれる。

あの男尊女卑の時代において、女性の身でありながら慈禧が権力を握ることができたのは、歴史上何度も繰り返されてきたように、皇帝がまだ幼かったからだ。しかし幼い皇帝でもやがては成人する。時の皇帝・光緒帝が十七歳になり、結婚すると、慈禧は政権を返還しなければならなかった。1889年のことだった。

伝統的な儒教思想を信奉し、近代化に反感を抱いていた光緒帝が政権を握ると、それまでの改革はほとんど中止された。軍艦購入計画や鉄道建設計画が取りやめになり、欧米に留学した経験を持つ官僚も重用されなかった。一度は近代化し、強くなりかけた中国は、こうして再び深い眠りに沈んだ。一方、明治維新を経て着実に国力を伸ばしていった日本は、やがて軍事的な実力で中国に勝るようになった。にもかかわらず、光緒帝や朝廷の官僚は全く危機感を抱いていなかった。北洋艦隊を任された李鴻章は日本の実力をよく分かっていたが、下手に悪い情報を皇帝に伝えると首が飛びかねないので、自国が劣勢であるとの報告は控えていた。

そこで、日清戦争での惨敗なのだ。

眠れる獅子が極東の小さな島国に敗れた

中国が日本に敗れたことは、数千年来の東アジアの国際秩序を覆す大きな出来事だった。清国の官僚や権力者のみならず、欧米列強もまた仰天していた。それまでは「同治中興」の時期もあって、欧米列強は軍事的な実力を頼りに様々な面で中国に譲歩を迫っていたが、外交においては「眠れる獅子」として、基本的に敬意は払っていた。眠れる獅子といえど百獣の王に変わりはなく、いつか目覚めるだろうとみんな思っていた。ところが、かつての東アジアの雄は、極東の小さな島国にすら負けてしまったのだ。アメリカがキューバにぼろ負けするくらいのインパクトではないだろうか。ともかく、列強が中国を軽蔑し、恣(ほしいまま)に搾取するようになるまで、そんなに時間はかからなかった。

日清戦争で敗北した清国は、下関条約の締結を余儀なくされた。講和会議では、日本側の代表は伊藤博文で、清国は李鴻章だった。

今の「日清講和記念館」は春帆楼の敷地内の目立たない一角で潜むように建っている小さな建物で、入り口が樹に隠れていて、見つけるまで少し時間がかかった。無料見学となっている館内では、日清戦争の起因や経緯、下関条約の内容の解説、伊藤博文や李鴻章の写真と書道などが展示されていたが、目玉の展示物は部屋の中央に堂々と鎮座し、ガラス張りの壁で周りと隔てられる、講和会議場の再現だった。中学校の教科書の写真にも載っていた古風で格式高い部屋が実際に眼前に現れた時、私は思わず見入ってしまった。「ここが、すべての始まりだった――」当時の感動を漫画の煽り文句風に表現したら、こんな感じになるのだろう。

講和会議場の再現(筆者撮影)
講和会議場の再現(筆者撮影)

実際、下関条約の締結は、一つの新しい時代の幕開けを意味した。下関条約で日本側は銀錠2億両の賠償金を獲得し、三国干渉による遼東半島の返還に伴って更に3千万両を手にした。2億3千両というのは当時の日本の歳入の4倍(自分の年収の4倍に当たる数字の金額が突然ドカンと入ってくるインパクトを想像してほしい)に相当する膨大な数字で、その多くは軍備拡張に使われた。後に日本がアジアを席巻するほどの実力を手に入れられたのは、下関条約の賠償金が大きかった。当然、これを支払わなければならない清国は、列強の侵攻もあって、衰退の一途を辿(たど)ることになった。

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李 琴峰LI Kotomi経歴・執筆一覧を見る

日中二言語作家、翻訳家。1989年台湾生まれ。2013年来日。2017年、初めて日本語で書いた小説『独り舞』で群像新人文学賞優秀作を受賞し、作家デビュー。2019年、『五つ数えれば三日月が』で芥川龍之介賞と野間文芸新人賞のダブル候補となる。2021年、『ポラリスが降り注ぐ夜』で芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。『彼岸花が咲く島』が芥川賞を受賞。他の著書に『星月夜(ほしつきよる)』『生を祝う』、訳書『向日性植物』。
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