李琴峰の扶桑逍遥遊(ふそうしょうようゆう)

幼子の厄災――広島原爆関連施設を見学して

暮らし 歴史

李 琴峰 【Profile】

人類史上で初めて原爆を投下された都市として、太平洋戦争での日本の敗戦を決定づけた出来事として、日本人は子どもの頃から何度となく「ヒロシマ」という言葉を耳にする。日本語で創作活動を行う台湾人作家であり、「被爆者でもなければ戦争を経験したこともない、たまたま通りかかった一人の旅人に過ぎない」という李琴峰が初めて訪れた広島、初めて見たヒロシマをつづる。

選ばれてしまった14万人

原爆資料館では夥しい数の実物、映像、写真、絵画資料が展示されており、原爆の悲惨さを生々しく訴えている。原爆前の広島の街と人々の生活、原爆の日の朝の光景、原爆直前に人々が過ごしていた日常、原爆直後の惨状、市民や警察・軍の動向、交わされる書簡、その後も長く尾を引いた放射線や黒い雨の被害などが、とても細かく、丁寧に伝えられている。それらの展示を眺めながら、私はどことなく、ある種の既視感を覚えた。そして思い出した。2001年のアメリカ同時多発テロ事件の追悼施設、ニューヨークにある911メモリアルミュージアムを訪れた時の感覚と、とても似ているのだ。

原爆資料館から眺めた平和記念公園(筆者撮影)
原爆資料館から眺めた平和記念公園(筆者撮影)

ふとした思いで、私はスマートフォンを取り出して調べてみた。人類史上最悪のテロ攻撃として知られ、後にアフガニスタン戦争やイラク戦争の発端にもなったあの事件の犠牲者数は、2977人だった。対してヒロシマは、14万人。

人命に軽重などなく、決して数字で測るべきではないと理性では分かっていながらも、その差にはやはり思わず愕然とした。14万という数字の大きさが、改めてのしかかった。もちろん、かたや戦時中、かたや平常時。かたや戦闘行為、かたやテロ攻撃。両者を安易に比較するのは、恐らく軽率の謗りを免れることが難しいだろう。しかし、突如命を奪われた一般市民にとって、両者は本質的に一体どう違うのか、私には分からない。

原爆の目標について、アメリカは「市街地を持つ都市であること」「爆風で効果的に損害を与えられること」などの基準に基づき、「目標選定委員会」なる極秘会議で選定を行った。会議では京都、小倉、新潟なども候補に上がり、最終的には政治的そして軍事的な思惑で広島に決定したという。

原爆時、爆撃の目標となった相生橋。Tという特殊な形をしているため、目標とされたという(筆者撮影)
原爆時、爆撃の目標となった相生橋。Tという特殊な形をしているため、目標とされたという(筆者撮影)

資料館でこのあたりの説明を読んだ時、私の脳裏にはある光景が浮かんだ。薄暗い会議室の中で、髭を生やした男たちが紙の束をめくりながら、興奮気味に議論を交わしている。殺すならこの14万人はどうだ。いやこの14万人ではまずい、代わりにあの14万人に死んでもらおう。しかしそれだとここが困る、やはりこの14万人で。小説家が小説の中で、人を一人殺すだけでもかなり大変な作業になる。にもかかわらず彼らは会議室の中で、現実世界の14万人の生き死にを決めた。選定する側はペーパーワークをこなしているだけかもしれないが、選ばれる側はたまったものではない。選ばれた土地にたまたま居合わせただけで、人生が様変わりしてしまう。国籍はこの際、関係ない。これも忘れられがちなことだが、広島と長崎で被爆したのは、何も日本人だけではない。朝鮮や中国から徴兵・徴用された人々、東南アジアからの留学生、ドイツ人の神職者や、捕虜となったアメリカ軍兵士もまた、等しくこの厄災に見舞われた。当然、当時日本の植民地だった台湾の出身者も、多くの被爆者が出た。

原爆死没者追悼平和祈念館のモニュメント。時計は被爆時刻の8時15分になっており、周りは原爆で破壊された瓦礫が配されている(筆者撮影)
原爆死没者追悼平和祈念館のモニュメント。時計は被爆時刻の8時15分になっており、周りは原爆で破壊された瓦礫が配されている(筆者撮影)

2021年発効予定の核兵器禁止条約に日本が参加しないと決めたことを知ったのは、広島を訪れた2週間後のことだった。唯一の被爆国として、この対応はいかにも不可解に映ったが、調べていくとちゃんと理由があった。要するに、核兵器が実際に存在している現状において、アメリカの核の傘によって守られている日本が条約に加入すると自家撞着に陥り、米国をはじめ国際社会の不信を買ってしまいかねない、とのことらしい。かつて米ソ両国を軍拡競争に走らせ、何度か人類滅亡の危機を招いた核抑止理論は、今なお健在ということだ。そう考えると、今自分が送っている生活も、立っている大地も、とても脆いものに思えてくる。

ガイドブックに書いてある原爆資料館の見学目安時間は1時間だが、3時間半もいてしまった。この滞在時間は、観光客としては長過ぎたが、あの悲惨な歴史とちゃんと向き合うには短過ぎる。資料館を出た頃、青かった空は心なしか雲の量が増えていて、西の方はもう夕陽に赤く染まりかけていた。そよ吹く風に当たりながらの散歩は、今しがた仕入れたばかりの膨大な情報を消化するのにちょうどいいから、相生橋まで歩いていくことにした。この地について無知だった3時間半前と違い、平和記念公園の草花も、うねり曲がりながら流れる川も、市街地のビル群も、みなあの厄災から立ち直ったものだと考えると、全ての景色が愛おしく思えてくる。

少しずつ関わりのある土地を増やしていく、それが私にとっての旅の意味かもしれない。たとえそれが誰にも言い表せない、極めて内省的な、個人的な関わりだとしても。

バナー写真=原爆死没者慰霊碑。トンネル状の空洞を通して原爆ドームが望めるように設計されている(筆者撮影)

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李 琴峰LI Kotomi経歴・執筆一覧を見る

日中二言語作家、翻訳家。1989年台湾生まれ。2013年来日。2017年、初めて日本語で書いた小説『独り舞』で群像新人文学賞優秀作を受賞し、作家デビュー。2019年、『五つ数えれば三日月が』で芥川龍之介賞と野間文芸新人賞のダブル候補となる。2021年、『ポラリスが降り注ぐ夜』で芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。『彼岸花が咲く島』が芥川賞を受賞。他の著書に『星月夜(ほしつきよる)』『生を祝う』、訳書『向日性植物』。
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