李琴峰の扶桑逍遥遊(ふそうしょうようゆう)

幼子の厄災――広島原爆関連施設を見学して

暮らし 歴史

李 琴峰 【Profile】

人類史上で初めて原爆を投下された都市として、太平洋戦争での日本の敗戦を決定づけた出来事として、日本人は子どもの頃から何度となく「ヒロシマ」という言葉を耳にする。日本語で創作活動を行う台湾人作家であり、「被爆者でもなければ戦争を経験したこともない、たまたま通りかかった一人の旅人に過ぎない」という李琴峰が初めて訪れた広島、初めて見たヒロシマをつづる。

快晴の日に投下された原爆

その残骸が立っている辺り一帯は、今や平和記念公園として整備されており、樹々が陽射しを浴びながら鬱蒼と茂っている。川沿いには遊歩道や休憩用の石のベンチが設置されており、ジョギングしたり散歩したりしている市民が散見される。時おり社会科見学をしていると思われる小学生の群れがわちゃわちゃ騒ぎながら通り過ぎる。

元安川と原爆ドーム。原爆直後は被爆者が水を求めて入水したため、死体で埋め尽くされていたとのこと(筆者撮影)
元安川と原爆ドーム。原爆直後は被爆者が水を求めて入水したため、死体で埋め尽くされていたとのこと(筆者撮影)

右手を額にかざして影を作りながら、私は空を見上げた。快晴と言うほかないすっきりした空模様がそこにあり、風も静かで、雲が気だるげにゆっくり流れている。戦禍や厄災とは対極にあるかと思えるような和やかな日常の空気が漂い、75年前の夏にまさしく同じこの場所を覆い尽くしていたであろう死臭が少しも感じられない。しかし――現在に残っている写真や映像のほとんどが解像度の低いモノクロのものだから忘れられがちなのだが――原爆の日もまた、空はこんなふうに晴れ渡っていたのだ。眩い死の閃光が降りかかるその瞬間まで、この街を流れていたのはまさしくこのような長閑な時間だったのではないだろうか。何しろ、原爆の威力が視認できるよう、米軍はわざわざ快晴の日を選んだというのだ。破壊効果を劇的なものにするために、事前の警告もなしに。

私はあの日を想像してみた。いつもと変わらない、よく晴れた夏の朝。雲が少ない分、体感気温が普段より若干高い。お昼の弁当を持って、家を出かける。盛暑の陽射しが暑く、すぐ汗だくになる。仕事場へ急ぐ道中、何度も袖で汗を拭く。通りかかった商店街は相変わらず人がいっぱいで、とても賑わっている。顔見知りとすれ違う度に挨拶を交わす。たまに仲のいい人を見かけると、いつもみたいに二言三言無駄口を叩く。ふと上の方がぴかっと光ったなと思って、空を見上げようとする。

そして、死んだ。
14万人も(※1)
これほど理不尽な死は、他にあるだろうか。
これほど不条理に閉じられた生は、何を以て贖(あがな)えというのだろうか。

原爆ドームから150メートル離れたところに、爆心地があった。当時は島病院という名の病院で、その後は島外科になり、私が訪ねた時にはもう島内科になっていた。今も営業している島内科、その上空600メートルのところが、75年前、「リトル・ボーイ」が炸裂した場所だったという。

爆心地の直下にある島内科。外科から内科になったのは近年のこと(筆者撮影)
爆心地の直下にある島内科。外科から内科になったのは近年のこと(筆者撮影)

(※1) ^ 実際には当時の始業時刻が8時だったので、原爆投下の8時15分にはほとんどの人が仕事をしていたらしい。また、広島原爆による死亡者数は諸説あるが、本稿では原爆資料館内の展示に従い、14万人とする。

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日中二言語作家、翻訳家。1989年台湾生まれ。2013年来日。2017年、初めて日本語で書いた小説『独り舞』で群像新人文学賞優秀作を受賞し、作家デビュー。2019年、『五つ数えれば三日月が』で芥川龍之介賞と野間文芸新人賞のダブル候補となる。2021年、『ポラリスが降り注ぐ夜』で芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。『彼岸花が咲く島』が芥川賞を受賞。他の著書に『星月夜(ほしつきよる)』『生を祝う』、訳書『向日性植物』。
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