幼子の厄災――広島原爆関連施設を見学して
暮らし 旅 歴史- English
- 日本語
- 简体字
- 繁體字
- Français
- Español
- العربية
- Русский
ヒロシマを知らなかった
10月中旬の広島は爽やかな秋晴れに恵まれ、空は透き通るように碧く、雲も真綿みたいな純白な色をしていた。僅かながら夏の尾も引いており、秋にしては眩し過ぎる陽射しが惜しみなく降り注ぎ、昼間は半袖一枚で物足りる。汗をかくほど暑くはなく、上着が欲しくなるほど寒くもない。これくらい観光に向いている天気は他にないと思えるほどである。
これまで広島を訪れたことのない私は当然、この地について何も知らなかった。かつては軍事都市だったとか、6本の川に囲まれる水の都だとか、路面電車が走っているとか、世界遺産の嚴島神社があるとか、それらは全て旅の下調べをしているうちに知っていったことだった。それまでの私が広島について知っていた唯一のことと言えば、原爆を投下された都市であるという、それだけだった。その原爆についてもかなりうろ覚えで、長崎とどちらが先かとか、地理的な位置関係がどうなっているかとか、訊かれたら正しく答えられた自信はない。思い出した時に調べたこともあったかもしれないが、目下の生活と関係があるわけではないのですぐ記憶から薄れていった気がする。つまり広島について、私はほとんど無知だったのだ。
「原爆ドーム」という言葉だけは知っていた。よく考えたら、東京ドームや台北ドームみたいな響きを持つこの呼称自体が奇妙なもので、何も知らない人からすれば、ドーム球場みたいな立派な建物をイメージしてもおかしくないだろう。事実、私がそうだった。原爆関連資料を展示するドーム状の立派な建物だから原爆ドームと言うのだと勘違いしていた。何たる無知よ。
敢えて申し開きをするならば、そもそも原爆ドームという言葉を知ったのは高校時代に通っていた日本語学校の授業でだった。当時、私がツアー旅行で九州北部に行ってきたことを知った先生が、どこに行ったの?と訊き、私が片言の日本語で、ゲンバク、と答えると、原爆ドーム?と先生がフォローしたのが、この言葉との最初の出会いだった。つまりあの先生も長崎の原爆資料館と広島の原爆ドームを混同していて、私もそれに影響され、十数年間、自分が訪ねた長崎原爆資料館が原爆ドームだと勘違いしたままだったのだ。言葉というのはきっかけがなければどれくらい経っても勘違いに気付けないものなんだなと考えると、なんだか空恐ろしくなる。実際、長崎原爆資料館にはドーム状の屋根があった。
長崎原爆資料館で何を見たかは、今やほとんど覚えていない。印象に残ったものと言えば平和祈念像とあちこちに飾られていた千羽鶴くらいである。今から十数年以上も前のことだし、慌ただしいツアー旅行でゆっくり見る時間もなかっただろうし、あの時の私の日本語力では解説も満足に読み解けなかったに違いない。写真を漁ってみたところ、資料館内の展示を写したものが一枚もないので、当時館内は撮影禁止だったのかもしれない(ルールはちゃんと守るいい子だった)。だからこそ広島はまっさらな気持ちで訪ねたし、それ故にインパクトが強かった。
ヒロシマについて語るのは、とても難しい。人類史上で初めて原爆を投下された都市として、これまでも多くの被爆者、そしてその家族、遺族、または子孫が、被爆体験について語り継いできた。被爆者でもなければ戦争を経験したこともない、たまたま通りかかった一人の旅人に過ぎない私がヒロシマについて何を語っても、関係者の目にはただおこがましく映り、また陳腐に思われるだけかもしれない。しかし、原爆資料館で展示されている惨たらしい資料の数々を目にした時、何も感じない人の方が少数ではないだろうか。あいにく作家というのは、感じたことを言葉にしてみないと気が済まない、とても厄介な生き物なのだ。原爆について書くのは今回限りになると思うので、どうか許してほしい。
原爆ドームを目前にしてはじめて、それは「原爆関連資料を展示するドーム状の立派な建物」ではないと、私はようやく悟った。それは元々、広島県産業奨励館という名の施設で、原爆が投下された時、爆心地に近いにもかかわらず全壊を免れ、建物中央のドーム状の骨組みとその周りの壁だけが残った。戦後の復興期において、焼け野原に聳えるその骨組みがとても目立つので、いつしか市民から原爆ドームと呼ばれるようになった。つまり原爆ドームは、原爆に破壊された建物の残骸なのだ。
快晴の日に投下された原爆
その残骸が立っている辺り一帯は、今や平和記念公園として整備されており、樹々が陽射しを浴びながら鬱蒼と茂っている。川沿いには遊歩道や休憩用の石のベンチが設置されており、ジョギングしたり散歩したりしている市民が散見される。時おり社会科見学をしていると思われる小学生の群れがわちゃわちゃ騒ぎながら通り過ぎる。
右手を額にかざして影を作りながら、私は空を見上げた。快晴と言うほかないすっきりした空模様がそこにあり、風も静かで、雲が気だるげにゆっくり流れている。戦禍や厄災とは対極にあるかと思えるような和やかな日常の空気が漂い、75年前の夏にまさしく同じこの場所を覆い尽くしていたであろう死臭が少しも感じられない。しかし――現在に残っている写真や映像のほとんどが解像度の低いモノクロのものだから忘れられがちなのだが――原爆の日もまた、空はこんなふうに晴れ渡っていたのだ。眩い死の閃光が降りかかるその瞬間まで、この街を流れていたのはまさしくこのような長閑な時間だったのではないだろうか。何しろ、原爆の威力が視認できるよう、米軍はわざわざ快晴の日を選んだというのだ。破壊効果を劇的なものにするために、事前の警告もなしに。
私はあの日を想像してみた。いつもと変わらない、よく晴れた夏の朝。雲が少ない分、体感気温が普段より若干高い。お昼の弁当を持って、家を出かける。盛暑の陽射しが暑く、すぐ汗だくになる。仕事場へ急ぐ道中、何度も袖で汗を拭く。通りかかった商店街は相変わらず人がいっぱいで、とても賑わっている。顔見知りとすれ違う度に挨拶を交わす。たまに仲のいい人を見かけると、いつもみたいに二言三言無駄口を叩く。ふと上の方がぴかっと光ったなと思って、空を見上げようとする。
そして、死んだ。
14万人も(※1)。
これほど理不尽な死は、他にあるだろうか。
これほど不条理に閉じられた生は、何を以て贖(あがな)えというのだろうか。
原爆ドームから150メートル離れたところに、爆心地があった。当時は島病院という名の病院で、その後は島外科になり、私が訪ねた時にはもう島内科になっていた。今も営業している島内科、その上空600メートルのところが、75年前、「リトル・ボーイ」が炸裂した場所だったという。
(※1) ^ 実際には当時の始業時刻が8時だったので、原爆投下の8時15分にはほとんどの人が仕事をしていたらしい。また、広島原爆による死亡者数は諸説あるが、本稿では原爆資料館内の展示に従い、14万人とする。
リトル・ボーイと禎子
リトル・ボーイ。大量殺人兵器につけられたこの類のコードネームは、私には悪趣味にしか思えない。小さな男の子、または、幼子とでも訳そうか。他にも、長崎に投下された原爆は「ファット・マン」、太った男。太った男がいれば当然、痩せ男、「シン・マン」もあった(こちらは開発されただけで投下はされなかった)。ともかく人類の歴史において、人を大量に殺せるのは、そして実際に殺してしまったのは、例外なくみな男だった。そこに女はいなかった。
広島をヒロシマにしてしまった幼子は、放射線と熱線と衝撃波で、多くの幼子の命を奪った。佐々木禎子がその一人だった。原爆のとき禎子は2歳で、被爆したにもかかわらず身体の不調を訴えることなく元気に成長し、運動が得意で、小学校ではリレーの選手としても活躍した。ところが小6のとき突如白血病が発症し、1年後に亡くなった。享年12歳だった。彼女の死後、同級生たちが「禎子のために何かしないと」という想いから、「原爆の子の像」の建立運動を始めた。2年半後に完成したその銅像は禎子をモデルとしており、今でも平和記念公園内に立っている。像の下の石碑には、「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」という文字が刻まれている。
原爆資料館で紹介されている禎子と「原爆の子の像」の美談めいた物語を見た時、私は得も言われぬ、ささやかな違和感を覚えた。当然ながら、禎子と同じ無念の死を遂げた子供が他にも大勢いただろう。また、子供であるかどうかにかかわらず、このような未曽有の厄災で命を失ってしまうのはいずれにしても嘆かわしいことで、言うまでもないが、その命に軽重などあるはずがない。しかし、大人になることなく夭折した子供の物語は、ことさら人間の同情心を刺激するようだ。そして大きな厄災を覚えておくために、人々は子供の死に――多くは可憐なる少女の死に――象徴的な意味を求める。ホロコーストにおいて、それは『アンネの日記』を書いた少女アンネ。そしてヒロシマにおいて、それは佐々木禎子。こうして厄災の忘却への抵抗、そして平和への祈願の象徴として祭り上げられた少女たちは、もはや彼女たちが実際に生きた生とはかけ離れ、ただのシンボルになってしまったように、私には感じられてならない。
選ばれてしまった14万人
原爆資料館では夥しい数の実物、映像、写真、絵画資料が展示されており、原爆の悲惨さを生々しく訴えている。原爆前の広島の街と人々の生活、原爆の日の朝の光景、原爆直前に人々が過ごしていた日常、原爆直後の惨状、市民や警察・軍の動向、交わされる書簡、その後も長く尾を引いた放射線や黒い雨の被害などが、とても細かく、丁寧に伝えられている。それらの展示を眺めながら、私はどことなく、ある種の既視感を覚えた。そして思い出した。2001年のアメリカ同時多発テロ事件の追悼施設、ニューヨークにある911メモリアルミュージアムを訪れた時の感覚と、とても似ているのだ。
ふとした思いで、私はスマートフォンを取り出して調べてみた。人類史上最悪のテロ攻撃として知られ、後にアフガニスタン戦争やイラク戦争の発端にもなったあの事件の犠牲者数は、2977人だった。対してヒロシマは、14万人。
人命に軽重などなく、決して数字で測るべきではないと理性では分かっていながらも、その差にはやはり思わず愕然とした。14万という数字の大きさが、改めてのしかかった。もちろん、かたや戦時中、かたや平常時。かたや戦闘行為、かたやテロ攻撃。両者を安易に比較するのは、恐らく軽率の謗りを免れることが難しいだろう。しかし、突如命を奪われた一般市民にとって、両者は本質的に一体どう違うのか、私には分からない。
原爆の目標について、アメリカは「市街地を持つ都市であること」「爆風で効果的に損害を与えられること」などの基準に基づき、「目標選定委員会」なる極秘会議で選定を行った。会議では京都、小倉、新潟なども候補に上がり、最終的には政治的そして軍事的な思惑で広島に決定したという。
資料館でこのあたりの説明を読んだ時、私の脳裏にはある光景が浮かんだ。薄暗い会議室の中で、髭を生やした男たちが紙の束をめくりながら、興奮気味に議論を交わしている。殺すならこの14万人はどうだ。いやこの14万人ではまずい、代わりにあの14万人に死んでもらおう。しかしそれだとここが困る、やはりこの14万人で。小説家が小説の中で、人を一人殺すだけでもかなり大変な作業になる。にもかかわらず彼らは会議室の中で、現実世界の14万人の生き死にを決めた。選定する側はペーパーワークをこなしているだけかもしれないが、選ばれる側はたまったものではない。選ばれた土地にたまたま居合わせただけで、人生が様変わりしてしまう。国籍はこの際、関係ない。これも忘れられがちなことだが、広島と長崎で被爆したのは、何も日本人だけではない。朝鮮や中国から徴兵・徴用された人々、東南アジアからの留学生、ドイツ人の神職者や、捕虜となったアメリカ軍兵士もまた、等しくこの厄災に見舞われた。当然、当時日本の植民地だった台湾の出身者も、多くの被爆者が出た。
2021年発効予定の核兵器禁止条約に日本が参加しないと決めたことを知ったのは、広島を訪れた2週間後のことだった。唯一の被爆国として、この対応はいかにも不可解に映ったが、調べていくとちゃんと理由があった。要するに、核兵器が実際に存在している現状において、アメリカの核の傘によって守られている日本が条約に加入すると自家撞着に陥り、米国をはじめ国際社会の不信を買ってしまいかねない、とのことらしい。かつて米ソ両国を軍拡競争に走らせ、何度か人類滅亡の危機を招いた核抑止理論は、今なお健在ということだ。そう考えると、今自分が送っている生活も、立っている大地も、とても脆いものに思えてくる。
ガイドブックに書いてある原爆資料館の見学目安時間は1時間だが、3時間半もいてしまった。この滞在時間は、観光客としては長過ぎたが、あの悲惨な歴史とちゃんと向き合うには短過ぎる。資料館を出た頃、青かった空は心なしか雲の量が増えていて、西の方はもう夕陽に赤く染まりかけていた。そよ吹く風に当たりながらの散歩は、今しがた仕入れたばかりの膨大な情報を消化するのにちょうどいいから、相生橋まで歩いていくことにした。この地について無知だった3時間半前と違い、平和記念公園の草花も、うねり曲がりながら流れる川も、市街地のビル群も、みなあの厄災から立ち直ったものだと考えると、全ての景色が愛おしく思えてくる。
少しずつ関わりのある土地を増やしていく、それが私にとっての旅の意味かもしれない。たとえそれが誰にも言い表せない、極めて内省的な、個人的な関わりだとしても。
バナー写真=原爆死没者慰霊碑。トンネル状の空洞を通して原爆ドームが望めるように設計されている(筆者撮影)