参勤交代の旅費と江戸滞在費は膨大な金額だった!
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参勤途上で旅費が尽きた庄内藩
参勤交代が藩財政に悪影響を及ぼしたエピソードに、庄内藩(現在の山形県鶴岡市を拠点に庄内地方を治めた藩)の例がある。参勤の途上で旅費が尽きてしまったのだ。
庄内藩の藩主は酒井家。名門譜代大名として多くの大老・老中を輩出した。元和8(1622)年に酒井忠勝(さかい・ただかつ)が庄内藩初代藩主として入封して以降、廃藩置県(明治4 / 1871年)まで250 年近くにわたり、一度も転封を経験しなかった数少ない藩だ。ただ、藩主が幕府要職に就くことが多かったため、江戸中期は諸費用がかさんで財政難に悩まされることがあった。
財政悪化は、4代藩主の忠真(ただざね)が享保10(1725)年、将軍の名代として上洛する任に抜擢された辺りから、頭をもたげ始める。バナー写真はその上洛時の大名行列を描いた『泥洹院(ないおんいん)様御上京図』の一部(泥洹院とは忠真のこと)である。
さらに5代藩主・忠寄(ただより)が寛延2(1749)年に老中に起用されると、普請や交際費などに藩費が湯水のごとく使われていった。そこに参勤交代が追い打ちをかけた。
旅費が尽きたエピソードは、忠寄の孫にあたる7代・忠徳(ただあり)の時に起きる。
江戸で生まれ育った忠徳が、数え18歳で初めて入部することになった(国から江戸へ向かうことを参府、江戸から国へ帰ることを入部という)。だが、江戸藩邸では大名行列を率いて旅をする費用を調達する見込みが立たない。にもかかわらず、幹部たちは見切り発車して江戸を出立してしまう。不足分は国が工面して、旅の途中に届ける手はずだった。
ところが、福島まで来て旅費が尽き、しかも国からカネが届かない。万事休すとなった幹部が忠徳に窮状を打ち明けると、忠徳は『(表高)14万石の藩がなんたる不如意(経済的に苦しいこと)』と涙を流したという(『荘内藩主 酒井忠徳の施政資料』國分剛二著・三田史学会)。
結局、忠徳はカネが届くまで福島で足止めをくうことになった。
忠徳は、この苦い経験を糧に、積極的に財政再建に取り組むことになる。
この時の入部費用がどれだけの額だったかは、はっきりしないが、庄内藩の石高は実質には19〜20万石といわれ、決して小藩ではない。それでも、財政がひっ迫しているところに参勤が重なると、その費用の負担が重く、身動きさえできなくなることを示唆している。
加賀藩は片道だけで総額5億5000万円
いったい参勤交代にはどれくらいの費用が必要だったのか?
加賀100万石・前田家に記録が残っている。
10代藩主・前田治脩(まえだ・はるなが)が著したとされる『御道中日記』に、家老の横山政寛(よこやま・まさひろ)が書き留めた「文化五年御帰国の御入用銀」という支出記録がある。文化5(1808)年の「御帰国」、つまり治脩が江戸から金沢へ戻る際の御入用銀(旅費)の詳細である。
それによると、総額で「銀三百三十二貫四百六十六匁(もんめ)余」。約5500両である。
その内、「御供人への被下(くだされ)金」、つまり帰国に随行した藩士の手当が741両余。これが人件費だ。
ざっくりとだが、1両=10万円とすると帰国の総経費が5億5000万円、人件費7410万円という計算になろう。大藩だけに費用も桁違いといっていい。人件費の他は旅籠代(宿代)、川越賃(川渡りの料金)、他藩の領内を通過する際の贈答品、補償金など多岐にわたった。
しかも、この総経費5億5000万円は、帰国の時のみの片道分である。参府(往路)を加えれば、単純に倍となる。
参府には将軍への献上品、幕府要人への土産も持参した。献上品は馬や銀が定番で、馬は他藩を通過する際の贈答品にも使われた。各藩自慢の名産品の初物も多く、領内で一番最初に採れたものをいちはやく将軍に献上することも慣例としていた。
献上品や贈答品には、藩の面子がかかっていた。幕府は献物の高騰を規制しようとはしたが、高値の物をそろえるのに各藩が競争し、その結果、費用はどんどんかさんでいったと考えていい。
最も難題なのは江戸藩邸が使うカネ
次に下表を見てもらいたい。各種の資料から、現在判明している諸藩の1年間の経費のうち、江戸での支出割合を示したものである。江戸での支出とは、主に江戸藩邸での藩主とその家族の生活費、藩邸藩士たちの給金など。
藩の規模(石高)や年代にばらつきはあるものの、江戸での支出が半分から3/4を占めている。大名は参府すると江戸に留め置かれるため、滞在費が金食い虫となるのである。
藩(石高) | 経費 / 年 | 江戸の支出割合(%) |
---|---|---|
弘前(10万) | 4万7024両(文化13 / 1816年) | 63 |
秋田(20万) | 2万7667両(延享2 / 1745年) | 73 |
長岡藩(7万) | 3万4550両(慶応元 /1865年) | 78 |
加賀(102万) | 17万1667両(延享4 / 1747年) | 61 |
備中松山(5万) | 1万8000両(嘉永5 / 1852年) | 78 |
松江(19万) | 4937両(明和5 / 1768年) | 53 |
土佐(24万) | 11万9484両(天保年間 / 1830〜1844年) | 64 |
久留米(21万) | 5万8923両(文化12 / 1815年) | 43 |
前述した加賀藩の「文化五年御帰国の御入用銀」を、表と照合してみよう。
- 延享4(1747)年 江戸での支出 /17万1667両の約61%=10万4717両
- 文化5(1808)年 旅費 / 約5500両×2(参府・入部)=1万1000両
延享4年と文化5年の約60年の違いはあるにせよ、大名行列の往復旅費は江戸での支出の1/10程度に過ぎないのである。
江戸で使うカネこそが、藩財政の足かせだったことが分かるだろう。
参勤交代がなければ藩主・家族・藩士が江戸で暮らす理由はないのだから、これこそが最も厄介な問題だった。
そして、その金策に走り回ったのは国許だった。国家老にとっては、苦労して徴収した年貢の大半が、一方的に江戸藩邸に吸い上げられていくのは、つねに悩みの種だった。その結果、どの藩も江戸藩邸と国許の間に、深刻な確執が生じるのである。
次回(最終回)は、参勤交代が生んだ最大の問題が、じつは中央(江戸藩邸)と国許(地方)の分断であったことを取り上げたい。
バナー写真 : 『泥洹院様御上京図』。泥洹院とは、庄内藩4代藩主・酒井忠真のこと。享保10(1725)年、京都御使(将軍名代)として上洛した際の大名行列を描いている。忠真は駕籠の中におり、御用取次役が脇に控えている。(致道博物館所蔵)