参勤交代のウソ・ホント

船団を率いて渡海した「海の参勤交代」

歴史 伝統

参勤交代は大名行列が街道を行くというイメージが定着しているが、九州や四国の藩が船団を率いて海を渡ったケースもある。瀬戸内海の海路を使って近畿まで行った「海の参勤交代」である。

参勤の中継地として栄えた港町・鶴崎

「海の参勤交代」をしていた藩の一つは細川氏の熊本藩である。バナー写真の『熊本藩主細川氏御座船鶴崎入港図』は、江戸から帰国した熊本藩主の船が豊後国鶴崎(現在の大分県大分市)の港に入港する様子を描いたものだ。

ひときわ絢爛豪華(けんらんごうか)な船が、藩主が乗った波奈之丸(なみなしまる)。細川氏の家紋「細川九曜」が見える。こうした大型の船は、船体に屋形を乗せたことから御座船(ござぶね )と呼ばれていた。

熊本藩の船団は最大で67艘、水夫だけで1000人にのぼったという(諸説あり)。出港・入港の時は鉦(かね)や太鼓に合せて舟歌を歌ったという伝承もあり、さぞかし大掛かりで賑やかだったろう。

ルートは、江戸へ参府する場合は、まず熊本から豊後街道(肥後街道ともいう)を東北に向かい、豊後の鶴崎に出る。鶴崎は熊本藩の飛地(藩庁のある領地とは別に遠隔地に分散して領有していた地)であり、宝永年間(1704〜)には細川氏の藩船が置かれ、京都や大阪との交易地としても繁栄した。

船団は鶴崎を出港すると、豊後水道を抜けて瀬戸内海に入る。瀬戸内海では、『西国筋海上道法絵図』(江戸前期に作成された航路図)などに従って、おそらく太線のルートを東に向かい、大坂に到着した。

江戸初期に作成された『西国筋海上道法絵図』(写)。太線は熊本藩が使った海路(推定)。国立国会図書館所蔵
江戸初期に作成された『西国筋海上道法絵図』(写)。太線は熊本藩が使った海路(推定)。国立国会図書館所蔵

豊後街道が約122キロメートル、鶴崎から大坂まで海路で約490キロメートル、大坂から江戸まで東海道を入れて約535キロメートル。合計約1147キロメートルを27〜55日で移動した。

27〜55日とはアバウトな数字だが、海路を使用した場合は悪天候の影響を受けやすいため、所用日数に開きが生じるのである。

これでは予定が立てづらく、また遅参も起きやすい。江戸後期にかけて海の参勤交代は次第に姿を消していくのだが、それには日程がくるいやすいという理由があった。

海賊の系譜を継ぐ水軍の存在

一方、江戸時代を通じて必ず渡海しなければならなかったのが四国の諸藩だ。ここでは徳島藩と高松藩のケースを取りあげよう。

徳島藩の藩主は蜂須賀(はちすか)氏。初代藩主の至鎮(よししげ)は関ヶ原の戦いで東軍に、大坂の陣でも徳川に付き、戦後旧領の阿波に加えて淡路を加増された。このため、参勤交代は徳島を船で出た後に淡路を経由し、大坂に至るルートが多用された。

下の地図は文政年間(1818〜1830)、12代藩主・斉昌(なりまさ)が使ったルートだ。徳島を出発して淡路島南東にある由良(ゆら / 現在の兵庫県洲本市)に停泊して1泊し、翌日には大坂に到着。そこからは陸路だった。江戸までの所用日数は約20日。

徳島藩が本州に渡る際は、領地の淡路で1泊することが多かった。渡海は1泊2日で済んだので、悪天候等の影響は比較的少なかった。
徳島藩が本州に渡る際は、領地の淡路で1泊することが多かった。渡海は1泊2日で済んだので、悪天候等の影響は比較的少なかった。

船団の詳細は不明だが、4代藩主・綱通(つなみち)の時代に56艘という記録があり、また蓮花寺(徳島市)所蔵の『参勤交代渡海図屏風』(19世紀制作)には大小70艘もの船が描かれている。

徳島藩の渡海には、戦国期以来「海の豪族」として名を馳せた森氏の存在が役立ったと、複数の研究者が指摘している。

森氏は阿波水軍の長(おさ)として秀吉・家康に重きを置かれた一族で、蜂須賀氏はこの森氏を取り込み、徳島藩の水軍として編成していた。森氏は城下の安宅と呼ばれた地(現在の徳島市福島など)に基地を置き造船・修理などを担い、船大工や船頭・水夫たちもここに集められていたという。

高松藩のシンボル的存在の御座船・飛龍丸

高松藩も、水軍の知恵と経験を活かしていたと考えられる。

藩庁である高松城は天正18(1590)年、水軍の運用も考慮して築城された日本初の海城とされている。寛永19(1642)年、新たに入封した譜代の高松松平氏はこの城郭のメリットをそのまま活用し、多くの船を擁して瀬戸内海の警護の任に就いていた。

『全流船軍聞書』と題された文献には「讃岐高松、松平氏。造船法の大要を述ぶ。全流とは海賊諸流を綜合大成したとの意」とあり、造船術や海賊(水軍)の諸流(さまざまな流派)を大成していたとある。船の運用に長けた藩であり、その技量が参勤交代にも発揮されていたのである。

高松藩が使用した御座船が飛龍丸である。飛龍丸は初代藩主・松平頼重(御三家の水戸藩初代藩主・徳川頼房の子)の時代の寛文9(1669)年に建造されたもので、後に新たに造られた2代目飛龍丸ともども、長きにわたって参勤交代の際に藩主が乗船した。全長は約20メートル、幅約7メートル。高松藩のシンボルといえる船だった。

『覚書』には「二人掛り四十八挺立(ちょうだて)、水夫九十人」と記されている。二人がかりで漕ぐ櫓が48挺、水夫90人で操縦したわけだ。

復元した模型が、高松市歴史資料館に展示されており、諸藩の御座船の中でも壮麗さは群を抜いていたといわれる姿を、現在に伝えている。

飛龍丸の復元模型。『飛龍丸船明細切絵図』という絵が残っており、その絵をもとに忠実に復元されている。写真提供 / 高松市歴史資料館
飛龍丸の復元模型。『飛龍丸船明細切絵図』という絵が残っており、その絵をもとに忠実に復元されている。写真提供 / 高松市歴史資料館

ルートは3代藩主・頼豊時代の記録『恵公(けいこう)実録』によると、高松から大坂までが海路、大坂から伏見は淀川を上り、伏見から江戸はやはり陸路だったとある。
日程は最短で16泊17日、最長で26泊27日。海路の際、悪天候によって足止めをくい、やはり予定を大きく変更せざるを得ないこともあった。

やがて、海路は牛窓(現在の岡山県瀬戸内市)や室津(現在の兵庫県たつの市)など瀬戸内海沿岸の港までで、以降は西国街道を陸路で東上するケースが増えていった。四国の藩でさえ近距離の本州対岸に上陸することが多くなり、海の参勤交代の規模は次第に縮小していく。引き続き船で近畿まで行く例は、日向国(現在の宮崎県)の諸藩などの数例に見られる程度になる。

なお、蝦夷(現在の北海道)で唯一の藩だった松前藩は蝦夷―津軽間は御座船だったが、離島であることを考慮されて参勤は5年に1回(時代によっては3~6年に1回)という特例扱いだった。同じく離島の対馬藩は3年に1回。西国・四国の諸藩に比べると負担は軽減されていたので、今回はあえて取り上げていない。

バナー : 細川氏の船団を描いた『熊本藩主細川氏御座船鶴崎入港図』大分市歴史資料館所蔵

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