大名行列が通った道 : 五街道と脇往還
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五街道は軍用道として整備された
日本の道を代表する幹線道路・東海道は、「徳川家康が造った」と思われがちだが、律令時代(7〜10世紀)から東西交通の要として存在しており、家康が行ったのは拡充・整備である。
征夷大将軍に就き、武家の棟梁となったのが慶長8(1603)年。家康は東海道の整備をその2年ほど前から、開始した。
家康の当初の狙いは、謀反を起こした大名に討伐軍を派遣するための軍用道路を、江戸を起点に複数整備することだった。東海道はその手始めだった。
他の街道も併行して整備を急いだ。中山道の御嶽宿(みたけじゅく / 岐阜県可児郡)は慶長7年、家康の朱印状によって宿駅として定められているので、ほぼ同時に整備されていたことが分かる。また、甲州街道も同年に整備を開始した。
バナーに使った画像は、上から「中山道」「甲州街道」「東海道」を並列して描いた絵図である。東海道の小田原〜箱根〜伊豆、甲州街道の上野原〜勝沼〜甲府、中山道の高崎〜坂本〜碓氷峠が1枚の絵図に描かれている。
いずれも江戸にほど近く、幕府にとっては重要な拠点であり、そこを通る街道が軍用道路だったことを彷彿とさせる絵図である。
実際、甲州街道の勝沼(絵図の富士山の頂上右上の辺り)は幕末、新選組の近藤勇が結成した甲陽鎮撫(こうようちんぶ)隊が、江戸入城を計画する板垣退助率いる新政府軍と、死闘を繰り広げた場所だ。
一方、日光街道は慶長7年に宇都宮宿が成立し、家康没後に宇都宮から日光東照宮までの参拝ルートが整備された。また、宇都宮から枝分かれし、白河まで行く奥州街道も整備された。家康の計画を継ぎ、幕府は矢継ぎ早に街道を拡充していった。
これによって「五街道」が完成し、さらにすべての起点を江戸に置くことで、江戸が日本の中心であることを強く印象付けた。
ちなみに街道という呼称は明治以降に定着したといわれ、当時は甲州・日光・奥州はそれぞれ「甲州道中」「日光道中」「奥州道中」と呼ばれていた。後述する伊勢街道も江戸時代は「伊勢路」などと呼ばれていたが、ここでは現在広く使われている「街道」で統一する。
五街道の概要
街道名(宿場数) | 距離(Km) | 概要 |
---|---|---|
東海道(53) | 492 | 江戸・日本橋〜京都三条大橋。箱根と新居に関所、大井川越えなどの難所あり |
中山道(69) | 526 | 江戸〜京都の別ルートだが、山越えや峠越えが多く東海道より長い |
甲州街道(45) | 209 | 甲府まで行き、下諏訪で中山道と合流。慶長7年から整備が開始された |
日光街道(21) | 147 | 宇都宮から家康を祀る日光東照宮への参拝道としての役割を持ち、五街道の中でも異色 |
奥州街道(27) | 192 | 日本橋〜宇都宮から分岐し白河へ。陸奥国や蝦夷の産物を江戸に運んだ |
大名行列は監視体制の厳しい道を使わざるを得なかった
五街道の道幅は四間(一間=1.8mとして7.2m)から、所によっては七〜八間(12.6〜14.4m)と、かなり広かったという。軍用道として活用することを計画したゆえ、道幅が広いのも当然だった。
万治2(1659)年には、街道を管理する道中奉行も任命した。道中奉行は大目付(おおめつけ)という、大名の監視・監察を担う職制の者が兼任し、かつ大目付は老中直轄だった。街道は、幕府の厳重な監視下に置かれたわけである。元禄11(1698)年には、道中奉行に勘定奉行を加えた二人管理体制に移行する。
参勤交代が義務化されると、大名行列は基本的には諸藩の軍事パレードだから(第1回参照)、必然的に道幅が広い五街道を行き来せざるを得なかった。同時に謀反などを起こさせないよう、幕府によってつねに管理・監視される。午後8時〜午前4時までは、原則通行も禁止だった。参勤に遅れが生じても、夜に通ることはできなかったのである。大名たちは、次第に牙を抜かれていった。
脇往還の整備で日本全国がつながる
五街道によって西は京都、北は奥州の白河までカバーできたが、それだけでは地方の大名は国と江戸を簡単には往復できなかった。
そこで、「脇往還」といわれる、今でいうバイパスが全国に整備される。これによって参勤交代がより効率的に行えることになった。代表的な脇往還を下表に記しておこう。
代表的な脇往還の概要
街道名(宿場数) | 距離(km) | 概要 |
---|---|---|
仙台松前道(約86) | 530 | 白河より北の仙台~盛岡~青森を経て三厩(津軽最北端)まで |
水戸街道(20) | 116 | 現在の国道6号。江戸の千住〜水戸まで。五街道に準ずる道の一つ |
三国街道(35) | 198 | 中山道の高崎から分岐し日本海側の越後・寺泊に出る |
北国脇往還(19) | 130 | 中山道の追分〜北陸道の直江津(または高田)。別名・善光寺道 |
北陸道(約50) | 480 | 北陸の直江津〜近江の鳥居本まで。中山道に合流して京都まで行けた |
伊勢街道(7~9) | 74 | 東海道の日永の追分で分岐し伊勢まで。庶民が伊勢参りをする際に利用 |
山陽道(50) | 550 | 京都〜下関。西国街道ともいう。瀬戸内海沿いを通り交通量は多かった |
山陰道(約31) | 610 | 京都〜下関の日本海側ルート。丹波・石見を通り周防国へと至る |
注 : 脇往還の宿場数は諸説あり、はっきり分からないものについては「約」をつけた。また、距離は概数である
伊勢街道を例にとると、これは御三家の紀州藩が元禄13(1700)年まで参勤に利用した道だ。紀州(和歌山)から伊勢(三重)を通り、東海道に入るルートはいくつかあったが、紀州藩はその一つ、伊勢街道から日永の追分(追分=街道の分岐点)を使って東海道に出て、東に向かったという。
また、『伊勢参宮名所図会』には、東海道の関宿を通過する大名行列の姿がある。東海道には関宿から支道に入って伊勢街道へ至るルートもあり、それを利用した参勤だろう。説明が付されていないので紀州藩とは特定できないが、どこかの藩が伊勢街道へ向かったことを、リアルに伝えている。『東海道細見図』(江戸〜京都三条大橋までの城下町と宿場町を記した図)にも、亀山城下の隣に関宿があり、そこから伊勢へと南下する道がある。
北陸道や山陽道などは、五街道に匹敵する規模と交通量があった。
京都が日本の中心であったなら、北陸道は京都〜金沢〜越後、山陽道は京都〜西国を結ぶ主要街道として、五街道に名を連ねるべき道だった。
だが、幕府が江戸を起点とした街道をことさら重視したため、定義上は脇往還に追いやられてしまったといえる。
こうした脇往還を大名行列が往来するにつれ、全国の街道の交通量が飛躍的に増大し、物資の運搬により商業が活性化され、庶民の往来も頻繁になる。
軍事上の目的から建設された道路が、参勤交代を通じて広く知れ渡り、軍事の道から「商業」「産業」「旅」の道へと変わっていった。
参勤交代は、街道の役割に大きな変化を及ぼしていったのである。
では、宿泊施設はどうだったか?
次回は旅の拠点となった宿場町と本陣・旅籠などの施設について触れたい。
【お詫び : 公開当初、一間のメートル換算を「1.81」とすべきところ、誤って「1.18」と表示していました。3月6日付で修正しました。ご指摘いただきました読者の皆さまに感謝します】
バナー : 『従江戸伏見迄木曽路中山道東海道絵図』 / 上から中山道、甲州街道、東海道の3つの街道を並べ、見比べることができる絵図(絵のタイトルにはないが甲州街道も描かれている)。絵師不明、寛文8(1668)年作成。街道沿いの城郭などを俯瞰で描き、ある程度の軍事機密がつかめることから、幕府の指示で作成されたと推測することもできるが、詳細な成り立ちは分かっていない / 国立国会図書館所蔵