大名行列は藩の見栄の張り合い!
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サクラのバイトを動員し行列の人数を水増し
大勢の武士たちが、整然と隊列を組んで厳かに行進する。
従者が「下に〜下に!」と掛け声を発すると、道行く庶民は路傍に土下座し、一行が過ぎ去るまで頭を上げてはならない——。参勤交代の大名行列の光景は、時代劇でこのように描かれた。
だが、これはウソである。
第一に、大名行列は街道を行く際、隊列を整えていなかった。
一糸乱れぬ行列で豪華さと華麗さを見せつけるのは、宿場町に入る直前だけ。山道や農村を通過する時は、藩士たちはそれぞれ気の合う者同士でグループを作り、気ままに歩いた。
「宿場町の入り口に夕刻までに集合すること」
藩の重役からこのようなお達しが出ると、集合時間までは自由行動だったのだ。
刻限になり藩士が揃うと、行列を整えて悠然と宿場町に入る。多くの人の目に触れる場所でだけ大勢の武士たちが、いかにも規則正しく振る舞っていたのである。
第二に、大名行列は臨時で人を雇い、いかにも人数が多く見えるように水増ししていた。サクラのアルバイトを雇っていたのである。
例えば文政10(1872)年の加賀藩の大名行列は、総勢1969人のうち臨時雇用が686人。じつに1/3が藩士ではなかったという記録がある。彼らは荷物などを運ぶ人足要員で、行列の重要な位置を占めていたわけではないが、686人を水増しした行列はいかにも「映え」ただろう。
バイトたちは「通日雇」(とおしひやとい)と呼ばれた。通日雇は非侍身分の者であり、通称「六組飛脚問屋」というあっせん業者が派遣していた。
江戸時代初期の参勤交代では各宿場町に人足がおり、彼らを現地で雇い、次の宿場まで荷物を運ばせた。さらに次の宿場でまた人足を雇い、また次の宿場まで——臨時雇用をいわばリレー方式でつないでいた。
だが、リレー方式では各宿場ごとに人を雇うため、賃金だけで膨大なコストがかさむ。そこで、国許から江戸まで一貫して随行できる人材を派遣する業者が誕生した。それが「六組飛脚問屋」であり、派遣された者たちが「通日雇」だった。
参勤交代を義務化した時点で従者削減は悩みの種だった
第三に、江戸に入る時は、さらに人数を水増しした。
江戸入府は最も多くの人の目に触れる参勤交代のハイライトだから、より多くの人員を必要としたのである。そこで、今度は「渡り者」と呼ばれたバイトも雇う。渡り者は、品川宿など江戸の入り口にある宿場に屯(たむろ)していた連中だったらしく、身なりも「映え」なかったろうから、最低限の衣装を着せ、マナーも教えて江戸に入府する。
すると、「あの藩はすげぇ人数でやって来たぜ」と、噂好きの江戸っ子たちが口にする。その声が他藩の重役の耳に入ると、恥をかくわけにはいかないとばかりに、「ウチはもっと人数を揃えろ」——となる。
こうして、際限のない見栄の張り合いが始まる。
半面、幕府は参勤交代の出費を抑制するため、諸藩に従者の人数制限を申し渡していた。記録に残る最初の抑制策は寛永11(1634)年、熊本藩初代藩主・細川忠利(ほそかわ・ただとし)が、改革案を提出したことが契機だった。
忠利は供の者の人数を削減したいと書状で申し出た。
書状には、「供の者多く召し連れ候故、国の草臥(くたびれ)となり申し候」とある。
出費が多く国が疲弊しているから、人数を減らしてコスト削減したいというわけだ。
この提案は受け入れられ、翌寛永12年の「武家諸法度」には、従者を減らし、人民の負担にならないようにせよと、3代将軍家光の指示が記された。
連載第1回で述べたように、寛永12年の「武家諸法度」は参勤交代の義務化を初めて明文化した法規である。幕府は義務化最初の時点で、すでに人数抑制を指示していたのである。にも関わらず、その後も減るどころか増える一方だった。
「従者は減らしてもすぐ増える」と吉宗は言った
さらに時代は進み享保6(1721)年、8代将軍吉宗は人数規定を明確に定め、削減策を一歩推し進めた。
吉宗が石高に応じて馬・足軽・人足などの人数を細かく指示したのが下表だ。
享保6年に吉宗が定めた参勤交代の人数規定
藩の石高 | 馬上 | 足軽 | 中間人足 |
---|---|---|---|
1万石 | 3~4(騎) | 20(人) | 30(人) |
5万石 | 7 | 60 | 100 |
10万石 | 10 | 80 | 140~150 |
20万石以上 | 15~20 | 120~130 | 250~300 |
吉宗が『御触書寛保集成』で指示した人数規定。石高に応じて従者の数を定めている点に特徴がある。江戸東京博物館『参勤交代 : 巨大都市江戸のなりたち』を基に作成
だが、享保の改革案には裏話がある。
従者削減を提言したのは、吉宗のブレーンである儒学者の室鳩巣(むろ・きゅうそう)だった。鳩巣著『兼山麗澤秘策』(けんざんれいたくひさく)には、提言に対して吉宗がこう言ったとある。
意訳すると、「おまえ(鳩巣)は武家を分かっていない。厳重に命じたとしても、なかなか減るものではない。ワシは紀州(和歌山)にいた頃、すでに参勤の従者を減らす政策をとったが、1年もすると人手が必要となり、結局元の人数くらいに戻ってしまった。どの諸侯も同じだろう」
削減策は命じるが、どうせすぐ増える——。
吉宗は発言は、武家の体面を暗に指摘していたと考えられる。どこかの藩が優美な大名行列を整え、ぜいたくな江戸暮らしをしていれば、他藩も必要に応じて真似せざるを得ないではないか。それには人が増やさねばならない——それが武家のプライドだ…と。
つまらないプライドと笑えない。
このような見栄・体面は、現代ニッポンにも生きている。
バナー写真 : 長州藩第13代藩主・毛利敬親(もうり・たかちか)の参勤交代行列が江戸に入府し、高輪付近を通る様子を描いた錦絵。総勢1000人といわれ、行列先頭に華々しい武士たちの姿がある。だが、後方の末端の者までは確認できない。後方には「通日雇」や「渡り者」もいたはずであり、豪華絢爛な部分だけを誇張している可能性がある。『温故東の花第四篇旧諸侯参勤御入府之図』(国立国会図書館蔵)