占領期最大の恐怖「公職追放」:次期総裁候補の石橋湛山蔵相を警戒した吉田茂首相(12)
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白洲次郎がほめた湛山
吉田茂の側近として活躍し、GHQ要人に「従順ならざる唯一の日本人」と言われたという白洲次郎がこう言っていた。
「あの時分(占領期)一番残念に思ったのは、日本人が東洋人には偉そうなことを言うが、西洋人にはからきし、だらしがないことだ。内閣の閣僚で欧米人に平気でものを言って、一歩も退(ひ)かなかったのは石橋湛山ですよ。だから、いまでも好きです」。口の悪い白洲が、これだけ人もほめるのは珍しい。
終戦後の混乱で食うや食わずの国民を救うため、自己の信念に従ってGHQに抵抗し、駐留費の削減などを実現させた石橋。しかし、吉田首相は一途な石橋に、「日本は敗戦したことを忘れてはならない。進駐軍に協力してくれ」「長いものには巻かれろ」と注意した。
「二人は戦時中、共に『自由主義者の非国民』として軍部に弾圧され、戦後政治の表舞台に議席を持たない素人政治家として登場した。似たところが多い二人だが、GHQに対する両者の基本姿勢の相違が、その後の二人の明暗を分けることになる」。公職追放と石橋湛山に関する著作が多い立正大学名誉教授の増田弘氏はこう述べる。
次期総裁候補と目される
GHQによって突然、追放された鳩山一郎の代わりに首相になった当時の吉田の政治的地盤はまだ弱く、蔵相として急速に頭角を現した石橋は自由党主力の鳩山派要人として、次期総裁候補と目されていった。
こうした動きに対し、吉田は46年秋ごろから、インフレの進行が一向に収まらないこともあり、「石橋積極財政」に不安を持ち始めた。そして、石橋に政治的警戒心も抱き始め、翌年に入ると野党側の要求もあり、蔵相の後釜を考えるようになっていく。
軍国主義者と決めつけたいGHQ
一方、GHQでは47年3月から、ケーディス大佐を中心とした占領政策を担当する民政局(GS)で石橋追放の準備が本格化していた。同2月には、GHQトップのマッカーサーが吉田首相に総選挙を指示。しかし、自由党が勝てばGHQに最も抵抗している石橋が首相となる可能性もあり、GSはそれを恐れていた。
この年1月、地方、経済界、言論界を対象にした大規模な「第2次公職追放令」が公布され、言論パージが進んでいた。GSは日系アメリカ人グループを動員し、石橋が編集主幹兼社長をしていた東洋経済新報社の出版物を調査した。同社が帝国主義的編集方針を続けていたとして、石橋は公職追放規定のG項「言論、著作、行動により好戦的国家主義や侵略の活発な主唱者」に該当すると、同3月中に早々と結論付けた。
このG項は、追放に該当するか否かを判定する時、いかようにも判断できるあいまいな内容で、GHQが追放者の範囲を広げるため考案した。同じ敗戦国でもドイツにはなく、日本だけに適用された独特な規定だった。
その調査報告書には付記として、「インフレを進行させ、一部の産業・業者に利益をもたらした」などとして、石橋財政を批判している。占領行政に抵抗する石橋を速やかに排除したかったのが、GSの本音だ。
GSは追放について審査する日本側の「中央公職適否審査委員会」に、東洋経済新報社の調査を命じた。担当した日本側の委員は「東洋経済には戦争中の10年間にも、追放に該当するような記事が一つもない。よく自由主義を守り抜いたものだ」と驚く。そして結論は、「東洋経済新報は当時における最もリベラルな言論を代表していた。もし同社を、その言論の故をもって追放令に該当するとするなら、当時の出版社、新聞社、雑誌社はすべて同様の扱いになる」。GHQとは全く正反対のものだった。
GSは怒り、日本側委員を「東洋経済を支持するなら、まず君らから追放する」と脅し、調査した小委員会を解散させた。しかし、石橋本人は「東洋経済が追放になれば、日本中の新聞、雑誌は追放になる」と平然としていた。
大きく違う湛山評価で日米が対立
同4月の衆院選で吉田と石橋は初当選したが、社会党に第1党を奪われた。政権はどのような連立内閣となるか未定で、さらに1カ月ほど吉田内閣は続いた。石橋、石井光次郎商工大臣(元朝日新聞社専務、のちに衆院議長)ら3閣僚の追放が噂されるようになる。
日本側の審査委員会が改めて行った審査は、「東洋経済は言論の自由が制限された戦前戦中も毅然として自由主義的な立場を保持した。これは社長の石橋湛山個人の主義を多分に反映させたもの」として、石橋に問題ないと判定した。
だが、GSはまたしても石橋を公職追放すべきとの決定をして、強硬姿勢を崩さなかった。そして、新憲法施行の直後の同5月5日、GSは日本側の審査委員会の事務局長らを呼び出し、同委員会が元朝日新聞の石井商工相を追放該当としているのに、なぜ石橋は追放でないのか、などと迫った。GHQは石橋のこれまでの言論活動について理解しておらず、戦前の言論界はみな軍部に迎合したと思い込んでいたのである。
GSは翌日に日本側審査委員会の決定を却下し、同委員会に再審査を要求した。しかし、日本側はまたも「石橋は追放に該当せず」と決定した。追放をめぐって日本側がこれまで筋を通したケースはなく、占領期でありながら日米が対立することになった。
追放を知った湛山への吉田首相の冷たい態度
この異常事態について、日本側審査委員会は長文の意見書を作り、吉田首相に提出した。首相がGHQと折衝することが期待されたが、吉田は動かなかった。そして、ホイットニーGS局長が同8日朝、吉田を訪問し、石橋の公職追放執行命令書を手渡した。
石橋はこの日昼、外務省から入手した追放の書面を見た。石橋はこの時の思いを、後日こう書き残している。
「まさかと思っていただけに、驚きも大きかった。驚きはすぐに怒りにかわっていった。戦勝国の一方的な立場で、自分の意に従わぬ政治家を、“追放”という凶器で葬ってしまう占領政策――ナンダ、民主政治を説いたって。私は、激しい憤りを、それこそ全身に感じた」
「(戦争に)敗れたりといえども、こんな無茶な話を、黙っているわけにはいかない。私も一国の大蔵大臣である」。石橋は首相官邸に車を走らせた。
「総理、私の追放が決まったそうです」と告げたが、吉田は格別、驚いた表情を見せない。追放決定の書面を見せると、吉田の顔がさっと変わった。外務省から入手した書類であることを伝えると、吉田は追放関係の役人に電話して、「なぜあの書類を石橋君に渡した」などとしかり始めた。
「聞いている私(石橋)は、ア然とした。追放決定で色をなしている当人に、一言の激励やら、善後策もいわないで、なぜ当人に教えたんだと、役人をしかりつけている。吉田さん一流の“常識”なので、別に他意はないだろうが、これが同じ仲間に示す態度だろうか。こんな吉田さんを相手では、ロクな善後策も得られっこない。私は見切りをつけて、早々に引き揚げた」
吉田首相はなぜ動かなかったのか
なぜ首相である吉田は、GHQに対して石橋の助命に動かなかったのだろうか。増田名誉教授はこう解説する。
「吉田が①動いても無駄と思った、②吉田のものぐさ、③石橋が追放になっても構わないと考えた――の3つ選択肢が考えられる。吉田は親しい人の追放取消をマッカーサーに文書で要請しているので、②はない。吉田は当時、マッカーサーと個人で会話できる唯一の日本人だったから、選択しうる措置はいくつかあり得たので、①もない。
こうなると、③の可能性が濃厚だ。吉田がGHQ側に働きかけて石橋追放を誘導したのか、それともGHQ側の石橋追放の動きを十分承知しつつ、それを阻止せず、傍観したのか。吉田はGSのとの気まずい関係から推して、追放の働きかけはせず、政治的ライバルになるであろう石橋を見殺しにした可能性が大きい」
多くの日本人は追放指定に泣き寝入りしたが、簡単に引き下がる石橋ではなかった。リベラリスト湛山の長い反抗が始まる。
(この連載での参考文献は、最終回にまとめて掲載します)
バナー写真:石橋湛山氏(左)と吉田茂氏(右)=共同