占領期最大の恐怖「公職追放」

占領期最大の恐怖「公職追放」:GHQに最も抵抗した石橋湛山蔵相(11)

政治・外交 経済・ビジネス 歴史

自民党初の総裁選に勝ったが、総理大臣に在任65日で思わぬ病気のため退陣し、その潔い引き際が今も語り継がれる石橋湛山(たんざん)。彼は戦前、軍部とも闘い、言論弾圧を受けた自由主義者で、ジャーナリストである。終戦の翌年に第1次吉田茂内閣の大蔵大臣となったが、1年後にGHQの指令で戦前の言論活動を理由に公職追放された。数多いパージも中でも最大のミステリーとされる「湛山追放」を4回にわたり考証する。

「私は有髪の僧」

石橋湛山は、日蓮宗僧侶の父(後に日蓮宗総本山久遠寺の法主)の郷里、山梨県で育った。中学を卒業するころ、幼名(省三)から湛山と改める。山梨の日蓮宗の寺院には、子弟の名に「湛」を付ける習わしがあったという。

中学の校長が、札幌農学校でクラーク博士の薫陶を受け、熱心なキリスト教徒だったことから、その影響も受けた。石橋は枕元に、いつも日蓮遺文集と聖書を置いていた。石橋は後に回想記で、「私は今でも有髪の僧のつもりであって、職業は別の世界に求めたとはいえ、宗教家たる志は捨てたことはない」と述べている。

深見法主から受けた「ころも」を着た石橋湛山=1957年1月6日(共同)
深見法主から受けた「ころも」を着た石橋湛山=1957年1月6日(共同)

26歳で経済専門の出版社「東洋経済新報社」に入社。史上初の軍縮会議となったワシントン会議(1921年=大正10年)の前に、36歳の石橋は東洋経済新報(週刊)に「一切を棄つるの覚悟」と題する社説を書いた。

「もし政府と国民に、すべてを棄てる覚悟があるならば、必ず我に有利に導けるに相違ない。例えば、満州を棄てる、(中略)朝鮮に、台湾に自由を許す。その結果はどうなるか。英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。彼らは日本にのみこのような自由主義を採られては、世界における道徳的地位を保てなくなるからだ。世界の小弱国は一斉に我が国に向かって信頼の頭を下げるだろう」(要約)

石橋は激動の昭和が来る前から、支配領域を海外に広げる「大日本主義」ではなく、植民地政策をやめて平和な自由貿易を盛んにする「小日本主義」を訴えていたのだ。当時、ここまで日本の進むべき道を示した言論人は石橋だけだったといわれる。

総選挙に落選して大蔵大臣に

その後も同社の中心的執筆者として活躍し、開戦直前の1941年に社長となる。石橋は戦前から政府・軍部への批判的態度を崩さず、戦時中も依然として自由主義を捨てなかった。このため軍部ににらまれて、紙やインクの配給もだいぶ減らされたが、疎開先の秋田県横手で発行を続け、45年8月、終戦を迎えた。

その翌月、石橋はGHQの経済科学局長、クレーマー大佐に招かれた。東洋経済が日本に関心を持つ欧米人向けに発行していた英文月刊誌「オリエント・エコノミスト」の読者だったからで、局長から「ロンドンの『エコノミスト』に次ぐ経済雑誌だ」とほめられた。

石橋は46年4月の戦後初の総選挙に立候補した。同1月のGHQからの公職追放指令で戦前戦中の多くの政治家が出馬できなくなり、各党とも候補者が不足していた。終戦後の国難の状況に、「筆や口で論じているだけでは間に合わない。自ら政界に出て、自分の主張を取り入れてもらう必要がある」と思い立ったのだ。社会党などからも誘いを受けたが、戦時中から接触があった鳩山一郎総裁が率いる自由党を選んだ。

しかし、言論界の大物とはいえ、世間での知名度はまだ高くなかったので落選した。だが、石橋にはその後も予期せぬことが続く。総選挙で自由党が第一党となり、鳩山が総理大臣となる直前に、GHQの指令で公職追放となった。前内閣の吉田茂外相が首相となるが、石橋は第1次吉田内閣の蔵相に抜擢(ばってき)された。選挙に落選して重要閣僚になるという、政界史に残る珍事となった。

蔵相時代の石橋湛山=1946年10月1日(共同)
蔵相時代の石橋湛山=1946年10月1日(共同)

吉田が石橋を蔵相に決めたのは、戦前から自由主義的な「東洋経済新報」の主宰者である石橋の見識を聞き知っており、鳩山側から石橋の推薦があったのを受け入れたことにある。GHQの経済科学局長が石橋を評価していたことも見逃せない。

緊縮財政より「積極財政」

当時、戦争が終わると必ずインフレが起きるので、緊縮財政政策を望む意見が強かった。これに対し、石橋は以前から、「戦後の日本経済で恐るべきはインフレではなく、(戦時の)生産が止まり、多量の失業者が発生するデフレ的傾向だ」と主張して、速やかに平時生産に切り替え、生産活動を活気づける「積極財政」を訴えた。

未曾有の敗戦による混乱の中で組み上がった予算案は、歳出560億円、歳入305億円。赤字255億円(現在の貨幣価値だと百数十倍)ではあるが、日本の復興を目指し、生産再開のための積極政策を取り入れたものだった。しかし、「石橋財政」は物価が毎日のように高くなっていく中で、「インフレ財政」だと各方面で批判された。やがて、GHQ内部でも石橋蔵相を危険視する動きが出てくる。

石橋とGHQとの対立が深刻化するのは、「戦時補償打ち切り問題」だ。戦時中、日本政府・軍部は軍需会社や民間企業に命令、または契約の形で支払いを約束して生産などを命じ、企業の損害を補償していた。戦後の日本政府が未払い金や、徴用されて撃沈された船舶などへの補償金を出すと、GHQはインフレ激化の要因になると考え、「戦時補償100パーセント課税案」を示して、実質的に打ち切るよう日本側に指示した。

だが石橋は、この補償を打ち切れば損害をそのまま銀行に及ぼし、ひいては銀行が預金者の預金を支払い停止にする恐れもあると考えた。そして、「預金者に不安を与え、銀行を困難に陥れたら、日本の経済復興を難しくする」と反対し、4カ月もの議論を続けた。

占領下で対等な交渉が許されない中で、石橋は「一経済学者として見ると、司令部(GHQ)案はなっていない」とGHQ側に言い放つこともあった。かつて石橋を評価した経済科学局長はすでに帰国して交代しており、石橋はGHQから占領行政の抵抗者と見なされるようになる。最終的に日本側は押し切られるが、石橋は国会の全員懇談会でGHQとの交渉過程を報告して涙を流し、参加者を感動させた。

GHQに駐留費を削減させた「心臓大臣」

石橋は46年秋から翌春にかけ、GHQに202億円と国家予算の36%を占めていた「終戦処理費」(占領軍の日本駐留経費)の削減を要望した。日本側は初め、終戦処理費を賠償に等しい敗戦国の義務としていたが、石橋は戦後の日本にインフレを起こすのは賠償だと指摘した。

大蔵省の調査で、「進駐軍の工事は監督が行き届かず、工費が不当に高い。地方の占領軍では勝手に工事が進められ、不当の利益をむさぼっている者もある」と判明。石橋は国会で、「終戦処理費が日本経済を破綻に瀕せしめようとしている」と説明し、京都府近のゴルフコースに2億円、軍居住区域の造園費に総計10億円などを要求されたと実例を報告した。そして、日本政府はGHQに注意してほしい点を列挙して提出し、その内容がGHQで大問題となった。

「司令部(GHQ)も日本政府の出した案を慎重に検討し、ことごとく入れてくれた。のみならず、地方で進行中の工事でも、不急不要と認められるものを中止した。我々の予期以上に、経費減少に努めてくれた」と石橋は回想記に記している。

占領軍に一歩も引かない石橋は、強心臓の持ち主ということで「心臓大臣」と呼ばれるようになり、石橋人気がどんどん高まっていった。しかし、石橋の知らない所で、追放の動きが本格化していく。

公職追放に詳しく、石橋に関する著作もある増田弘・立正大学名誉教授はこう解説する。

「終戦処理費はGHQや占領軍にとって、いわば戦勝国側の特権であり、本来なら敗戦国側は口出しが許されない“聖域”に等しかった。湛山がその聖域を侵したことで、石橋蔵相への反発はGHQならびに地方軍政部に拡大し、湛山は反占領軍の中心的人物とみなされることになる。石橋人気がさらにGHQの石橋脅威感をあおることになった。こうしてGHQ内部で湛山追放計画が実行段階に入る」

一方、日本政界にも石橋人気を警戒する動きが出始めていた。

(この連載での参考文献は、最終回にまとめて掲載します)

バナー写真:自民党総裁選の決選投票で岸信介に勝利した石橋湛山(左)、4年間の追放生活を経て72歳で総理大臣となった(共同)

経済政策 GHQ 公職追放 鳩山一郎 石橋湛山 自由主義者