占領期最大の恐怖「公職追放」:鳩山一郎と吉田茂の大げんか(10)
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すぐパージ解除になると思った鳩山の誤算
突然の鳩山追放で、次期首相を誰にするかが問題となった。何人かが候補になったが、最後に鳩山一郎自らが吉田茂外相を口説き落とした。当時の吉田は鳩山が総裁を務めていた自由党の党員にもなっておらず、固辞したが、3つの条件を鳩山に出して、引き受けた。その条件とは、「金はないし、金づくりもしない」「閣僚の選定(人事)には口出ししない」「いやになったら、いつでも投げ出す」。
鳩山が5歳上の吉田を選んだのは、鳩山が内閣書記官長(官房長官)を務めた昭和初期の田中義一内閣で、吉田が外務次官だったので知っていたこともある。だが、最も大きな理由は、吉田から総理・総裁のイスをいつでも返してもらえると思い込んだからだろう。
鳩山はこう書き残している。「吉田君は『政党の総裁の座を長く温めることは出来ないから、君のパージが解けさえすれば、すぐにやめる』と言っていた。私としても、別に戦争に加担したわけではないから、パージなどすぐ解けると思っていた」
「欧米行脚を書いた『世界の顔』という本が、戦後、パージの理由となろうとは。本の中でヒトラーの労働政策をほめたのがケシカランというのだ。私の外遊当時、ヒトラーの行政は非常に成功を収めており、アウトバーンのような立派な道路が出来ていた。この本の別の個所で、政治は議会主義でなければだめだと説いており、GHQは私が議会主義者であることも分かり切っているのにパージした」。鳩山は言い掛かりによる追放だったと強調していた。
農作業もした追放生活
追放生活に入った鳩山家の前では、警察官が鳩山の行動を監視し、来客の名前も書き留めていた。検事局に呼ばれ、「パージの身で政治に口を出すのはけしからん」と取り調べを受けることもあった。当時はひどい食糧難で、鳩山は軽井沢で農作業もした。政界から離れ、鳥の声を聞き、四季の面白さを知った。
「パージは精神的、肉体的に非常に苦痛だったが、後から振り返ってみると、逆に生涯を通じて一番楽しかった時代であるような気さえする」と述べている。
鳩山は後事を託した吉田を、最初からクールに見ていたようだ。自身の追放から半月後、ようやく吉田内閣(第1次)が成立した46年5月20日の鳩山日記にはこうある。
「昨夜来、流産の噂高かりし吉田内閣も夜に至り親任式済む。吉田の評判殊の外(ことのほか)悪く、内閣の寿命は短からん」
鳩山の“予言”は的中し、1年後には総選挙で第1党に躍り出た社会党の片山哲委員長を首班とする内閣が、自由党抜きの3党連立で成立した。だが、日本の変革を求めるGHQに歓迎された片山内閣が党内対立で退陣し、その後の中道の芦田均内閣も疑獄「昭和電工事件」で副総理が逮捕され総辞職。こうして48年10月、吉田は首相に返り咲き、第2次吉田内閣が成立する。
翌49年1月の衆院選で、吉田が率いる民主自由党(自由党に保守系の民主党の一部が合流)が単独過半数を超えて大勝した。池田勇人(後に首相)ら多くの有力新人を当選させて、「鳩山党」のイメージを一掃し、この第3次内閣で吉田体制を確立させた。
「憲兵隊による監禁」で追放を免れた吉田
こうして第5次吉田内閣まで続く長期政権ができるが、吉田のライバルになり得た鳩山など、多くの政治家がパージされていたことがその背景にある。
GHQが吉田についても公職追放の対象になるか徹底的に調べていたことは、この連載の6回でも触れた。日本生まれで、日本語が得意な語学将校としてGHQでパージを担当し、米国内で初めて日本の公職追放に関する本格的な研究をしたハンス・ベアワルド元カルフォルニア大学政治学部教授は、著書でこう指摘している。
「吉田は対中強硬策をとった田中義一内閣の外務次官であり、吉田が日本の侵略計画に重要な役割を演じたか、(GHQ内で)かなり議論の対象となった。吉田が追放を免れたのは、彼が1945年春の『戦争終結の密謀』に参加したため憲兵隊によって一時監禁された事実によってである。吉田が官僚であり、鳩山が政党人だった違いを除けば、両者の経歴のめぼしい違いはこれだけだった」
紙一重の差で助かった吉田がワンマン宰相として権勢を思いのままに振るっている間、鳩山は長い浪人生活を強いられた。1950年に朝鮮戦争が始まり、GHQはパージ政策を大きく転換し、旧軍人らの追放解除が始まっていたのに、鳩山には朗報が届かなかった。
「私の追放解除を邪魔している吉田君だ」
そして追放から5年が過ぎた51年6月、鳩山は突然、脳いっ血で倒れた。病気の原因は吉田だったことを、鳩山は後に日経新聞の「私の履歴書」(58年5月連載)の中で、「ひさしを貸して母屋をとられた」と怒りを込めて書いている。
「(追放解除が延び延びになっているので)おかしいと思っていると、私のパージ解除については、吉田君が邪魔していると詳細に聞いた。信じられないことだが、本当なら、全くひどいことをするやつだと思った。しかし残念ながら、その通りであった。マッカーサーの幕僚も私の所を訪問して、妻と私の前で証言したのだから間違いない。マッカーサーとしては、私を早々に解除するつもりなのだが、どうも吉田が賛成しないので仕方ないと言っていた。さすがに私も激怒した」
「吉田君とけんかするより仕方がないと思っていた矢先、私は脳いっ血で倒れてしまった。怒るということは健康に一番悪いことだと身にしみて感じたのだった。今でも私は吉田君を善良な人だとは思っていない。パージ問題以後、私は彼と友だちではないことにしている」
「病身の鳩山君に総理総裁の重責は耐えられるのか」
一方の吉田は回想録で、マッカーサーから鳩山の追放解除を認めないとの厳命があったと述べている。鳩山追放は、(「反共宣言」に反発した)ソ連の提議に基づくものだとも記している。
「鳩山君の依頼を受けて自由党総裁になったが、(中略)契約書を取り交わしたこともない。また鳩山君より『総裁を返せ』という要求を受けたこともない。政党の総裁は公器で、私有物ではないから、これを両人の間において授受の約をすべきでない」
「鳩山君の追放は意外に長く続いた。鳩山君に対する情誼(じょうぎ=交遊の真心)からして追放解除について、私は常に気にかけておったが、総司令部(GHQ)の承認が(51年)8月に至って、やっと得ることができた」
「しかるにその以前の6月に鳩山君が病気で倒れたことを聞いて驚いた。9月、サンフランシスコ条約ができて日本の独立回復の目途がついたが、鳩山君の病躯(びょうく=病身)が独立再建の国務に堪え得るか、重責に堪えゆるの明らかならざる限り、私として党総裁および総理大臣の重任に鳩山君を推挙するのは、総理大臣として無責任であると感じ、躊躇(ちゅうちょ)せざるを得なかった。私は鳩山君を推挙せざりしことを、今なお妥当であったと信ずる」
追放解除組の党内かき回し
鳩山は首相目前の追放、解除直前の病気と不運が続いたので、世間の同情を集めた。鳩山と同様に、追放解除となった政治家が続々と政界に復帰し、その中の保守系政治家の多くが鳩山のもとに結集。そして、吉田と鳩山の激闘が展開されていく。吉田はその模様を、回想録にこう書いた。
「自由党内の情勢も、鳩山君の病気が一応軽快になるにつれて、同君を中心とする追放解除組の動きは、次第に党内攪乱(かくらん)の気配を濃くし、国会の運営は自由党内の問題としても困難な事態を示してきた。(中略)党内一部の、私に対する公然の非難が露骨をきわめ、選挙運動も非常に困難であったし、選挙後に至っても、種々面倒なことが続いた」
鳩山派は一時、吉田自由党を離党して分党派自由党を結党したり、復党したりして、第5次吉田内閣を打倒する機会をうかがっていた。佐藤栄作・自由党幹事長(後に首相)の逮捕が法相による指揮権発動で捜査打ち切りとなる「造船疑獄」などで、反吉田の気運が高まる中、鳩山は54年11月、岸信介(後に首相)、三木武吉(党総務会長)ら反吉田勢力を結集して「日本民主党」を結成。
翌月、民主、左右社会党の3党共同で内閣不信任案を提出し、ついに内閣総辞職に追い込み、6年(通算7年)の吉田政権が終わった。そして、鳩山はあの追放から実に8年余遅れて、71歳で念願の首相の座に着く。鳩山内閣では追放経験者の閣僚が約3分の2を占め、この点でも吉田内閣との違いを見せた。
翌55年、民主、自由両党の保守合同で自由民主党が誕生し、鳩山は56年に初代自民党総裁に就任した。吉田は新党には参加せず、吉田が佐藤栄作と共に自民党に入党するのは、鳩山が総理総裁を退いた57年だった。
公職追放に詳しい増田弘・立正大学名誉教授は、「鳩山の後も、石橋湛山、岸信介と公職追放者の首相が続く。1950年代の日本政治史は、追放から解放された政治家たちの恩怨(おんえん=情けとうらみ)がこもった政治に彩られたともいえる」と述べている。
(この連載での参考文献は、最終回にまとめて掲載します)
バナー写真:会談する吉田茂首相(左)と鳩山一郎氏(右)、1952年10月23日(共同)