占領期最大の恐怖「公職追放」

占領期最大の恐怖「公職追放」:次期首相が確実の鳩山一郎が潰された(9)

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首相になることが決まっていた自由党の鳩山一郎総裁が1946年5月、組閣直前にGHQからの直接指令で公職追放された。この「鳩山追放」は占領初期の最も衝撃的な「見せしめのパージ」であり、多くの国民が敗戦国の悲哀と屈辱を味わった。なぜ総理大臣になるはずだった鳩山は追放されたのか、そして追放解除までなぜ5年余もかかったのかを2回にわたって検証していく。

日本側の「追放しない」決定を覆したGHQ

鳩山は父を継いで、弁護士、衆院議員となり、1927年(昭和2年)、田中義一内閣の内閣書記官長(官房長官)、31年には犬養毅内閣(翌年の五・一五事件以後は斎藤実内閣)の文相に就任。戦時中の42年に行われた総選挙(翼賛選挙)では、東条英機内閣の戦争遂行政策を支持した翼賛政治体制協議会の推薦を受けずに無所属で当選したが、翌年に東条内閣を批判して、軽井沢で隠棲(いんせい)した。

終戦後は直ちに上京し、1945年10月、翼賛政治に批判的だった保守系の議員らを中心に日本自由党を結党し、翌月に初代総裁となった。46年4月10日の戦後初の総選挙では、定数464のうち、自由党140、進歩党94、社会党93、協同党14、共産党5などとなり、単独過半数にはほど遠いが、第1党の自由党、鳩山総裁が後継内閣の首班となることが内定した。

幣原喜重郎首相は5月3日の夕方、天皇に報告し、日本側の手続きに区切りがついたところで、GHQに承認を求めた。この日は、東条元首相ら戦犯を裁く極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷。また2日前の5月1日には戦後初のメーデーが行われ、皇居前広場に約50万人が集まるなど、終戦10カ月目の騒然とした日々が続いていた。

鳩山総裁が閣僚名簿を巻紙に書いて、陛下に呼ばれるのを待ち構えていた同4日午前、外務省から英文書の公職追放の通知が届く。日本側の公職追放に関する委員会の調査では、鳩山は追放に「該当しない」と決定されていたが、GHQが強権発動し、日本の頭越しで行う直接指令の追放者第1号となった。

当時63歳の鳩山は日記に、無念の心中をこう書き記している。
「追放の内容全く意外の事実のみ。一言の説明の機会与へられずして三十余年の議会生活より追放され、組閣の機会を逸す。(午後5時過ぎの代議士会で)党員の泣く顔を見て直に言を発する能はず閉口した」

鳩山は新生日本のリーダーにふさわしいか

ここから、GHQが鳩山をどう追放に追い込んでいったかを見ていく。公職追放研究の第一人者、増田弘・立正大学名誉教授によると、GHQ側が鳩山を注視するようになったのは、終戦から3カ月後の45年11月、鳩山が自由党総裁に就任した段階からだ。GHQは鳩山を呼んで、インタビューを行っている。

日本を民主国家に再生させようと、占領政策を担当する民政局(GS)はインタビューの前後から、鳩山の戦前の政治経歴調査を進め、同12月中旬までに詳細なデータを集めた。それには、鳩山が①内閣書記官長時代に治安維持法成立に関与した②文相時代に学問弾圧の「滝川事件」(刑法学者だった京都大学の滝川幸辰教授が危険思想だと批判され、文部省から休職処分を受けた)の責任者だった③1937年の訪欧時にヒトラーと中国侵略に関連して交渉を行った――などが列記されていた。

滝川事件で京大総長と懇談する鳩山一郎文相(右)(1933年7月10日、日本電報通信社撮影、共同)
滝川事件で京大総長と懇談する鳩山一郎文相(右)(1933年7月10日、日本電報通信社撮影、共同)

GHQは翌46年1月、近く予想される戦後初の総選挙立候補者に標準を定め、追放指令を発出する。GHQ内部では、鳩山が新生日本のリーダーにふさわしいかの検討が始まっていた。

一方の鳩山本人は、東条政権と闘ったことや、国会で1940年に反軍演説した斎藤隆夫に対し衆院議員除名の可否を問う投票で、棄権をして抵抗したことなどから、軍国主義者ではなく、数少ない議会主義者・自由主義者であると自負していた。だから、自分の追放については終始、楽観的だった。日本側の「公職資格審査委員会」が鳩山を「追放非該当」と決定したことで、さらに自信を強め、不用意な言動が問題になる。

鳩山は総選挙を前にした46年2月、勢力を拡大していた共産党を批判して、保守勢力の結集を呼びかける「反共宣言」を行ったのである。当時、戦後に合法政党となった共産党への露骨な攻撃は、各党とも控えていた。まだ冷戦前で、ソ連は米国の同盟国の立場だっただけに、ソ連を怒らせたことに連合国最高司令官のマッカーサーは憂慮した。

「連合国側からすれば、鳩山の反共宣言は敗戦国という立場を忘れ、戦前に見られた日本人の傲慢さの現れと思われてしまった」と増田名誉教授は解説する。鳩山は、国際認識を欠いていることを内外に示してしまったのだ。

総選挙の直前に鳩山をつるし上げた外国人記者団

総選挙の数日前に、在京外国人記者団が鳩山をつるし上げるという出来事があった。鳩山が戦前に訪欧を終えて書いた『世界の顔』の翻訳をGHQの将校からもらった記者たちが、ヒットラーや、イタリアのムッソリーニに好意的な記述を次々と指摘して襲いかかった。鳩山は「おびえきった一老人」と化した。

鳩山を忌避した民政局は、自由党が総選挙で第1党となった後も、鳩山を次期首相だけにはしないよう模索していた。第2党の進歩党(保守系)と第3党の社会党との連立などに期待をかけたが、うまく行かず、自由党が単独で組閣することになった。

「ここに至って、ホィットニーやケーディスらGS首脳は、消去法的に鳩山追放に踏み切らざるを得なくなった。日本政府に鳩山の資格を再審査するよう要請したが、日本側が応じなかったので、強権発動のほかに残された方法はなかった」と増田名誉教授は述べる。

鳩山の不用意な言動が追放の根本原因

だが、公職追放令を鳩山に適用するには、前述した鳩山の戦前の“政治的罪状”ではまだ論拠が薄弱だと、GHQは判断していた。最終的にGHQが鳩山追放を決断する根本原因となったのは、鳩山が「GHQは自分を重要視している」「総理になればパージにならない」と財界にうそぶいたことや、鳩山が総選挙前に提出した公職追放審査に関する調査票に、外国人記者団の追及があった問題の著書を記載しなかったこと、さらに反共発言など、終戦後、鳩山が権力に近付いてからの度重なる不用意な言動だった。

「鳩山の自己過信と、敗戦国のリーダーとは思えない傲慢な態度は、GHQを侮辱したと解釈された。もし鳩山を見逃せば、第二第三の鳩山が現れると、GHQが危惧した」と増田名誉教授。

吉田茂の忠告に耳を貸さず

GHQが鳩山追放の動きがあることを察知した吉田茂外相(当時)は、忠告するため側近の使者を鳩山邸に送った。『鳩山一郎回顧録』にはこう記されている。

「白洲次郎君がやって来て『総理大臣になれば追放される。だから総理大臣をあきらめて幣原内閣に入閣すればパージは免れるだろう』というのである。あれは追放になる三日前のことだったと思う。ちょうど河野一郎君(当時は自由党幹事長。河野太郎・現行政改革担当相の祖父)が来ていたので三人で私の寝室で話した。私は『選挙をやって第一党になったのだから、(中略)追放を免れるために、他の内閣の閣僚に入ることは断じてない。所信を貫いて第一党の党首としての道を進む』と言い切った」

鳩山は吉田の忠告に耳を貸さずに公職追放となり、次期首相は吉田となる。この二人が今後さらに絡み合って、戦後の日本政治史に大きな影響を与えていく。

(この連載での参考文献は、最終回にまとめて掲載します)

バナー写真:追放令を読む鳩山一郎氏(1946年5月4日、共同)

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