占領期最大の恐怖「公職追放」

占領期最大の恐怖「公職追放」:最初の女性追放者となった市川房枝(7)

政治・外交 社会 歴史

戦前から女性参政権運動の指導者として活動し、戦後は「金のかからない選挙・政治」を実行した市川房枝。亡くなる1年前には、87歳で参院選全国区に無所属で立候補し、当時最高の278万票でトップ当選した。多くの人に愛された市川だが、1947年に女性として最初の公職追放となり、「戦争協力者」とされて3年7カ月間、自殺を考えるほどの苦悩の日々を過ごしたことは、あまり知られていない。

戦争拡大の中で迫られた選択

婦人運動家であり、平和主義者でもあった市川房枝が、戦争に反対していたことは言うまでもない。では、なぜ市川が占領期にGHQによって「好ましからざる人物」と判断され、パージされたのか。財団法人「市川房枝記念会」刊行の「市川房枝の言説と活動 年表で検証する公職追放1937~1950」や、市川の自伝をもとに見ていく。

市川房江の追放についてまとめた本「市川房江の言説と活動」(市川房江記念会編、2008年)
市川房枝の追放についてまとめた本「市川房枝の言説と活動 年表で検証する公職追放」(市川房枝記念会編、2008年)

市川は1937年(昭和12年)、日中戦争の契機となる盧溝橋事件が起きるまでは、可能な限り戦争反対の意思を明らかにし、軍部の攻撃も行ってきた。しかし、戦争が拡大していく中、婦選運動(女性参政権運動)をどう続けていくかで、3つの選択肢に苦しんだ。「正面から戦争に反対して監獄へ行くか、運動から全く退却するか、現状を一応肯定してある程度協力するか」の選択だ。

市川は、婦人運動の目的は女性の生活を守ることだが、それは女性自身が国家社会に貢献できる可能性を示すことでもあるという主張を持っていた。戦争が始まってしまった以上は、運動を放り出すことをせず、政府にも「ある程度協力」して女性や子どもたちを守るのが、これまで婦人運動をやってきた自分の責務と決断したのだ。

1941年に日米開戦となり、歴史の歯車が急転回していく。全階層の女性を国家総力戦に動員することをめざした「大日本婦人会」の発会式が翌42年、東京・九段の軍人会館で行われた。

この前後の市川の主な活動は4つあった。①国民統制組織と言われた「大政翼賛会」で二つの調査委員会の紅一点の委員となった、②大日本婦人会の審議員の一人となった、③東条内閣のもとで42年に行われた総選挙に際し、「翼賛選挙貫徹婦人同盟」を結成し、自宅を事務所として翼賛選挙運動の一翼を担った、④言論人の団体「大日本言論報国会」の紅一点の理事に就任した――というものだ。当時は大日本婦人会や大日本言論報国会に依頼された講演、講師の謝礼なしに生活、活動が出来なかったという。

終戦後の民主化で「時代の寵児」に

本土決戦を覚悟して婦人義勇隊の組織化に努めていた市川は、45年8月、昭和天皇の放送を聞いて、敗戦の悔しさに涙した。しかし、これで日本が民主化され、男女平等の社会となることも感じていた。

市川は戦前からの婦選運動家としての業績が評価され、公的な委員をいくつも務め、マスメディアでも大活躍。終戦から3カ月間に大手新聞3紙で6回の論説を書き、女性が参画した新生日本の政治を主張した。全国講演も毎月10~20回行い、「時代の寵児(ちょうじ)」となった。46年9月には、公職追放者に該当するかどうかの「公職適否審査」を経て、NHKの理事に就任した。

53歳で参院選出馬直前の追放

翌47年4月の初の参議院議員選挙で全国区から立候補することを決め、事前に同2月、「公職適否審査」を申請した。その1カ月前に、地方、経済、言論界を対象にした大規模な「第2次公職追放令」が出されたばかりだった。

なかなか許可の連絡が来なかったが、申請から1カ月後の同3月24日、市川は遊説中の秋田県で公職追放の指定を受けたことを知った。53歳の時だ。追放の理由は、先に述べた戦時中に「大日本言論報国会」の理事を務めていたことだった。

大日本言論報国会は、戦争遂行のため言論統制を担当していた内閣の情報局の指導で42年に設立され、戦時下で実質的に唯一の言論人・評論家の団体。戦争に協力的とされた評論家たちの中から会員が選ばれたとも言われる。会長はジャーナリストだった徳富蘇峰(文化勲章を受賞し、後に返上)。市川はこの会の理事37人中、唯一の女性だった。

GHQはこの団体の理事以上の役員全員を、公職追放項目「C項 超国家主義的・暴力主義的団体の有力分子」に該当すると判断したのだ。この会には女性会員もいたが、市川以外は追放を免れた。

「死を考えたことも…」

市川は前年の審査を通っているだけに、「全く予期しなかったので、少なからず衝撃を受けた」と語っている。公職追放後は、戦後初の婦人団体「新日本婦人同盟」の会長を辞任して一切の公職から離れ、疎開先の川口村(現東京・八王子市)に引っ込み、農作業などをしていた。

その年の秋には、小屋のような自宅が東京・代々木の婦選会館の前に完成したので移転。英米の雑誌から女性問題の記事を翻訳して「日本婦人新聞」のコラムに寄稿する仕事をしながら、アヒルやウサギを飼い、周りの空地で野菜を作って暮らした。後に市川は追放当時を振り返り、「絶望のふちに追いやられ、死を考えたこともあった」と回想している。

追放中、婦選会館向かいの自宅わきの空地でウサギやアヒルを飼い、野菜を作って生活をしていた市川房江(1948年、55歳)
追放中、婦選会館向かいの自宅わきの空地でウサギやアヒルを飼い、野菜を作って生活をしていた市川房枝(1948年、55歳)=市川房枝記念会提供

追放解除を求める17万人の署名と、片山哲首相への請願書

「市川房枝追放」のニュースは多くの日本人を驚かせ、直ちに婦人団体が追放解除を求める運動を始めた。街頭運動も展開され、2カ月足らずで約17万人の署名が集まり、GHQと、追放について日本側で審査する「中央公職適否審査会」に提出された。

市川本人は追放から3カ月後の同年6月、当時の片山哲首相(社会党委員長)に追放指定解除の請願書を提出した。市川は片山から戦前の総選挙(1937年)に際して、応援演説の依頼を受けている。知人で、総理大臣となったばかりの片山に、市川は「私が、大日本言論報国会の有力な理事という理由は違っており、『日本国民をだまして誘導し、世界征服に駆り立てた』覚えは絶対ない」と訴え、追放理由を強く否定した。

請願書の中で市川は、「大日本言論報国会は明確な社会主義者と共産主義者のみを排除して、約1200名の言論家と作家より成る職能団体だった。国粋主義団体でも暴力を訴える組織でもない」と追放に該当する団体でないことを強調した。

また、「私は婦人を代表して理事に含まれたのであり、理事会で発言することはほとんどなかった。私が理事を辞任すると、婦人の役員がいなくなると恐れて留まった」と述べ、有力理事ではなかったと述べた。

さらに、「私は女性解放のために努力し、満州事変から日中戦争まで堂々と戦争とファシズムに反対した。しかし、戦争の激化に伴い、ある程度国民に要求されていることには協力した。それは婦人の力を政府に認識させ、女性の自由と権利を獲得するためで、太平洋戦争中も同じ態度を保持した。私は真の自由主義者であり、民主主義者であり、(公職追放の対象になる)日本の民主化にとって好ましくない人物ではないと信じている」と個人的な立場を説明。

大政翼賛会については「調査委員会の委員を1年間務めただけ。翼賛会主催の協力会議に一度も代議員に任命されることはなく、婦人に関する翼賛会の集まりにもほとんど招かれることはなかった」と、関係が薄かったことを指摘した。

かなり長文の訴えだったが、市川の訴えは実らなかった。日本の首相でも、GHQに市川の追放解除を認めさせることはできなかった。GHQは、市川をはじめ日本の女性運動家たちに理解しがたい論理で、市川の「女性追放者第1号」を決定していた。そのGHQのトップ、マッカーサーの真意や、追放解除までの経過は次回に検証する。

(この連載での参考文献は、最終回にまとめて掲載します)

バナー写真:「国連婦人の10年中間年日本大会」で基調報告する市川房枝(1980年11月)。この3カ月後に87歳で亡くなった(市川房枝記念会提供)

(見出し、本文中の「市川房江」を「市川房枝」に訂正します=ニッポンドットコム編集部)


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