占領期最大の恐怖「公職追放」

占領期最大の恐怖「公職追放」:GHQ内の対立と、米国政府のパージ政策転換(4)

政治・外交 社会 国際

GHQの追放政策は拡大を続けたが、その内部では将来の米ソ対立に備えて日本の政治家、財界人、軍人など旧指導層を出来るだけ温存すべきだという声も高まってきた。そして米国政府は米ソ冷戦が本格化する1948年から、日本の弱体化方針を転換。米政府は、日本が「反共防波堤」となり、経済的に自立した同盟国となるよう再構築を目指し、パージ終結に向けて動き出す。

ニューディーラーと職業軍人

一枚岩に見えたGHQ内部には、占領初期から二大勢力による根強い対立があった。その一つは、日本を民主国家に再生させようとする、社会民主主義的な思想を持った「ニューディーラー」たちで、その中心人物は占領政策を担当した民政局(GS)次長のケーディス大佐。民間人出身者が多く、日本の変革を求めた。

GHQ民政局次長のケーディス大佐=共同
GHQ民政局次長のケーディス大佐=共同

もう一つは職業軍人たちのグループで、日本の旧指導層を温存しようとした現実主義的な勢力。その中心は、諜報活動や検閲を担当した参謀第2部(G2)部長のウィロビー少将で、日本の安定を求めてパージの拡大に抵抗していた。

公職追放を担当したのは民政局内の人員20余名の小さな課だが、ケーディス局次長の強い指導力で、日本側を追い込んでいった。しかし、米ソの潜在的対立を重視する職業軍人グループは、民政局の徹底した非軍事化・民主化策が日本を弱体化させ、ソ連が介入してくると警鐘を鳴らし続けた。拡大化された地方パージについても、民政局の強硬方針に反対し、対立を深めていった。

次期大統領候補のマッカーサー

一方で、東京(GHQ)とワシントン(米政府)との対立が始まる。公職追放研究の第一人者、増田弘・立正大学名誉教授によると、対立の起点はマッカーサー元帥が第2次公職追放の開始から2か月半を経た1947年3月、外国人記者団との会見で語った「今や日本と講和すべき時が来た」との発言にあった。ワシントンとの事前協議もない突発的なもので、その後にGHQが講和に向けて動き出すことはなかったが、この発言は翌年の大統領選と無関係ではなかった。

「マッカーサーは、共和党候補に選ばれ次期大統領に当選することを思い描いていた。その場合、日本占領の輝かしい成果こそが彼の最大の武器であり、講和会議を成功裏に終幕させれば、自分の存在感を米国民にいっそうアピールできる。マッカーサーはそこに標準を合わせていた。しかし、現職のトルーマン大統領が再選を目指しており、東京でのマッカーサー発言が本国政府との対立の始まりとなった」と増田名誉教授は説明する。

マッカーサーが提唱した早期対日講和論は、国務省極東局で検討された。同年8月にまとめられた講和草案(対日平和条約案)は、対日厳罰方針を示していた。日本に厳しい賠償を求め、講和後25年間にわたって非軍事化の監視を続け、非軍事化政策の違反を摘発する監視委員会を置くといった内容だったのだ。

対ソ封じ込め戦略のケナン登場

この草案に対し、「現実的ではなく、極めて危険である」と待ったをかけたのが、同じ国務省の政策企画室長、ジョージ・ケナンである。後にケナンは、冷戦期の対ソ封じ込め戦略の立案者となり、米国の対外政策の形成に大きな役割を果たしたことで知られる。

対ソ封じ込め戦略の立案者となった米国務省のジョージ・ケナン=共同
対ソ封じ込め戦略の立案者となった米国務省のジョージ・ケナン=共同

そのケナンは当時の日本を、米ソ関係で地理的かつ戦略的の重要な地位を占め、国際政治面や、極東の軍事・工業の両面でも潜在的大国であり、共産化された中国と比較にならないほど米国にとって重要な国家だと見ていた。このため、米政府はGHQへの指令を日本の経済的自立のためになるよう変更すべきで、パージ政策などは日本の安定に反するから即時中止すべきだと強調した。

「ケナンは、日本の経済復興に対する強い関心から、日本の共産化を防げる政財界の指導者の追放を心配した。国際冷戦の観点からも、日本の保守勢力が指導力を回復することを重視した」と増田名誉教授は述べる。

日本の改革よりも安定を重視して、日本経済の復興を推進するケナンの提言が国務・陸軍省で承認されると、パージ政策の見直しが国務省極東局で検討された。数々の[SECRET]と書かれた秘密資料を米国立公文書館で調べた増田名誉教授によると、バターウォース極東局長から48年1月、占領地域担当の国務次官補に出された機密文書「日本のパージ規定の修正」は公職追放の現状を批判し、追放政策の終結を提起していた。

主な内容は、

  1. 日本の降伏後2年以上が経過した今日でさえ、多くの日本人が毎週追放されている。彼らが軍国主義体制を積極的に支持したか否かは無関係に、追放が実施されている
  2. パージ計画の根底には、日本の旧指導者すべてに一定の過失があり、除去されなければならないとの論理があった。この論理が長期に実施されると、戦前に親米的で反共的であった日本人が追放されて、必ず占領政策や米国に悪意を抱くようになり、敵に回してしまう
  3. 経済パージが徹底すぎて、経済回復に害を及ぼすほどになっている
  4. 私(局長)はパージが明らかに行き過ぎであると思う。国務省内でパージ計画の見直しや緩和が直ちに検討されるべきだ――。

マッカーサー説得にケナン来日

マッカーサー説得のため、ケナンが同3月に来日。米陸軍からもドレイパー次官が来日して3者会談が行われ、マッカーサーは、パージの予定もだいたい終了したので、間もなく終わらせる方針を漏らした。

帰国したケナンは長大な対日政策報告書を書き上げ、その中で、国際冷戦の視点と論理を日本の国内問題に適用するよう主張した。「パージにより重要な地位から退けられた日本の指導者たちは、改革後の新制度に対する不満分子になっており、そこに共産主義がつけ込む危険がある。したがって、対ソ封じ込め対策を積極的に占領政策に適用すべきであり、それゆえ追放計画の終結をケナンは訴えた」と増田名誉教授は解説する。

経済界出身のドレイパー陸軍次官も、インフレが猛威を振るい、パージで人材不足となった日本経済の崩壊しつつある状況を視察して帰国後、対日占領政策転換の文書をまとめた。追放についての序文に、「これ以上のパージの拡大は意図されておらず」と入れ、追放者の資格回復、再審査などの新たな措置を盛り込んだ内容になっている。国務省と陸軍省の足並みがそろってきたことで、パージ終結が近付いてきた。

「ニューズウィーク」がマッカーサー批判

米政府の対日占領政策転換に関し、もう一つ注目すべき動きが裏舞台であった。地方や経済界に広がった第2次公職追放令が出た47年1月、米誌「ニューズウィーク」が、「日本での占領政策は失敗に次ぐ失敗であった」「活動的で有能であり、共産主義の脅威に対して米国と共に戦う意思を持つ日本人実業家3万人が、新しい公職追放令で仕事から外されようとしている」とマッカーサー批判の記事を掲載した(実際に経済パージされたのは約2000人)。その後も、GHQのパージを批判する記事が続いた。

それまでの米国の報道はマッカーサーの占領政策を評価していたので、異色の記事だった。問題視した読者が米上院議員に書簡を送り、さらに同議員が国防総省に回答を求めるなどして、政界に波紋が広がった。威信を傷つけられたマッカーサーは、大統領選出馬を邪魔する陰謀だと怒ったが、パージ問題がワシントンと東京の問題へと発展した。

キャンペーンの“黒幕”は、ハーバード大学出身で「ニューズウィーク」誌外信部長の肩書を持つハリー・カーンだ。盟友であり、日本生まれで日本語もうまく、日本に人脈を持つパケナムを終戦の翌年(1946年)に東京支局長として送り、GHQ占領政策の問題点を取材させて反マッカーサーの一大論争を巻き起こした。

カーンは、日米開戦時の駐日大使で開戦回避や終戦交渉に尽力したグルーらと共に48年6月、本国で対日ロビー活動を行う圧力団体「アメリカ対日協議会」を結成。ワシントンの対日占領政策転換に影響を及ぼすことになる。

「カーンの狙いはあくまでも反マッカーサー運動の強化で、日本のためにというものではなかった。しかし、ジャパン・ロビーを組織して反GHQ・反マッカーサー運動を推進し、国務省と陸軍省間を取り持って、パージをはじめ対日占領政策を転換させた一人として、カーンの存在は見逃せない」と増田名誉教授。カーンはその後、日米間の疑獄「ダグラス・グラマン事件」などでその名が登場する。

パージは終結に向かって進むが、最終段階の「追放解除」にまた時間がかかった。立ちはだかったのはマッカーサーだった。
(この連載での参考文献は、最終回にまとめて掲載します)

バナー写真:ホワイトハウス(CNP/DPA/共同)

冷戦 トルーマン GHQ マッカーサー元帥 公職追放 ジョージケナン