占領期最大の恐怖「公職追放」:町内会長まで排除した地方パージの嵐(3)
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初の統一地方選の前の荒療治
GHQは46年4月の総選挙を前にした第1次公職追放指令で、前議員の大半を追い出して新人議員82%の衆院を誕生させ、さらに鳩山一郎自由党総裁ら当選議員の大物も次々と追放した。これで中央政界からは一応、好ましくない旧指導者らを排除したとGHQは判断。しかし、地方では戦前・戦中のまま古い指導者が多数残っていた。
そこで、GHQは総選挙が終わった頃から、第2弾となる地方パージに動き始めた。初の統一地方選が近く行われるので、その前に荒療治を急ぐ必要があった。GHQは同8月、日本政府にパージ計画の原案作りを命じた。内務省が担当したが、GHQはたびたび干渉し、追放者の拡大をめぐる攻防戦が展開された。
追放拡大をめぐるGHQと日本との攻防
日本政府の原案では、①追放該当者で現在、都道府県市区町村の議会の議員または市区町村長、助役、収入役は退職②追放該当者は都道府県市区町村の公職に就けない―などとされた。
これに対しGHQは、①日本案が追放令適用の公職の範囲を都道府県市区町村の職員までとしたが、これに「市町村の監査委員、区長、町内会長、部落会長、漁業組合長、農業会長」などを追加②(日中戦争の発端とされる盧溝橋事件が起こった)1937年7月から45年9月(終戦後の降伏文書調印式)の間の市町村長、町会長、部落会長は公職から追放され、今回の選挙から立候補できなくなり、10年間、あらゆる地位から排除される――と厳しい要求を突き付けた。
戦時中の市町村長だけでなく町内会長らも追放というGHQの強硬論に、日本側は「戦時中の地方は政府の命令に従っただけだ。町内会長は区域内の日常生活の世話をする仕事で、公職ではない。際限のない、実質とかけ離れ過ぎた追放令の拡張は、国民に深刻な影響を与える」と反論。
しかし、GHQは日本の主張を退けただけでなく、新たに、「追放者の三親等以内(法律上の親族)の者は10年間、追放対象の公職に就けない」という規定を入れるよう要求した。本人だけでなく親族にまで累が及ぶというGHQ案に対し、当時の吉田茂首相はマッカーサーに書簡を送り、「殺人者の親族でも自由にしている」と述べ、時代遅れの考えであり「現在の公正観念に反する」と強く再考を求めた。
戦勝国側の主張が通る
だが、マッカーサーは「もし親族から“身代わり”が出て権力を継げば、追放者の影響力が持続されるのは明らか。連合国の関心は、日本に汚れていない指導者を出すことだ」と主張して、日本側の見直し要求を拒否した。
公職追放について詳しく、著書も多い増田弘・立正大学名誉教授はこう解説する。「追放に関して当初から日本政府とGHQとの認識の違いがあった。マッカーサーは追放を『民主主義日本の建設』のための技術的手段と理解していた。しかし、日本側は追放をあくまでも戦争責任者に対する懲罰だと理解。形式的に軍国主義体制に関与していても、実質的に何ら責任のない地方の有力者らを追放するのは不当だと訴えた。結局は戦争の勝者と敗者という絶対的関係ですべてが決着した」
GHQに最も抵抗した内務省
GHQは米軍35万人を中心とした最大43万人の連合国軍を背景に占領政策を進めたが、日本の省庁の中で最も抵抗したのは、当時、最有力官庁だった内務省だった。特に追放を担当する地方局(後に自治省)の役人たちが、強い反骨精神を見せた。
その一人、小林與三次(よそじ)事務官の当時について、評論家の草柳大蔵は著書「内務省対占領軍」でこう書いている。
〈毎日のように、堀端にあるGHQに通った。イガグリ頭の上に戦闘帽をかぶり、頭陀袋を肩からかけて、まるで引揚者か敗残兵のような恰好をしていた。(略)「軍人による戦争には敗けたが、歴史と伝統を保持する日本は潰れてはいないぞ」という気概が、彼に“復員スタイル”をとらせていたともいえる。そんな格好の小林が大理石づくめのGHQに入ってゆくと、米兵たちはびっくりしたような顔でながめたが、夜になって彼らの宿舎になった大蔵省の前を小林が通ると、米兵たちはおもしろがって戦闘帽の上からポンポンたたいた。〉
無理難題をふっかけてくるGHQと闘っていた小林は、地方職員がパージ該当者かどうかの資格審査も行っていた。説明のつく限りは一人でも多く追放非該当にし、GHQに指摘されても弁明出来る限りは、すべて追放除外にしていた。
増田名誉教授によると、小林はGHQに最初は同調するような素振りを見せ、最後は反対したことから、「イエス・バット(yes, but)マン」と呼ばれた。GHQ担当官を何度も激怒させ、嫌われた小林は、後に自治次官となり、日本テレビ、読売新聞社の社長となる。
社会党委員長を首班とした片山内閣誕生
地方パージが進んでいた47年4月に、統一地方選と戦後2回目の総選挙が行われた。衆院議席は社会党143、自由党131、民主党(保守系の旧進歩党に、自由党からの脱党者らが合流)121、国民協同党(中道)29など。第1党に躍り出た社会党の片山哲委員長を首班とする片山内閣が、自由党抜きの3党連立で同6月に成立した。日本国憲法施行の翌月のことだ。
日本の変革を望んでいたGHQは、新内閣を歓迎した。マッカーサーは片山との初会見で新首相がクリスチャンなのを喜び、「日本はこれから東洋のスイスたれ」と語った。
武道振興団体もパージ
だが、この政権交代期にGHQはさらに難題を突き付ける。柔道や剣道など武道の振興のための団体「大日本武徳会」をパージせよと指示してきたのだ。追放該当項目のあいまい規定G項(軍国主義者や極端な国家主義者)がまた適用された。日本側は「大日本武徳会はスポーツ団体であり、右翼の政治団体ではない」と再考を求めたが、「軍国主義の手先」と思い込んだGHQは聞き入れなかった。
戦時中に東条首相が同会を改組した1942年3月から45年9月までの1000人を超える主な役職者が追放該当となり、同会は強制的に解散。さらに武道禁止令まで出て、日本武道は一時、廃止の危機に追い込まれた。
武徳会パージの背景を、増田名誉教授はこう解説する。「GHQは最有力官庁の内務省の解体を目論み、上級職の追放を進めたかったが、従来の基準ではなかなか大量追放できなかった。そこで、各県などにも支部があり、支部長を内務省上級職の警察部長(本部長)らが兼務している大日本武徳会を狙い撃ちした」
追放の拡大に不満を示した昭和天皇
追放の範囲が拡大されたことで、昭和天皇の苦悩は深まり、公職追放のことをしばしば話題にされるようになった。第2次公職追放令が出てから半月後(47年1月20日)、マッカーサー会見の際に通訳を務める寺崎英成・宮内省御用掛との面会で、昭和天皇は「米国に恩赦・特赦を期待する」ことなどを話した。
昭和天皇はその後も寺崎と面会した際、終戦に導いた鈴木貫太郎元首相(海軍大将)が前年に追放対象となったことを引き合いに出して、「鈴木は平和主義者であったのに」と不満を示した。耐え忍んだ昭和天皇が、「公職追放の緩和が日米双方の国益に最も好ましい影響を与える」との天皇メッセージを米国政府側に伝えるのは、3年後(1950年)のことである。
(この連載での参考文献は、最終回にまとめて掲載します)
バナー写真:GHQ本部を出るマッカーサー元帥=1946年1月8日(共同)