指揮権発動の黒幕:戦後初期、内閣が倒れた二つの疑獄事件(8・最終回)
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事件の“真相”を書いた犬養元法相
疑獄事件の“真相”について、最初に書いたのは当事者だった。作家だから、いつかは執筆するだろうと言われていた元法相の犬養健(たける)本人が、指揮権発動から6年後の1960年、月刊文藝春秋に手記を発表した。
「当時、検察庁に対して大きな勢力を持っていた某政治家が、法務大臣たる私や検事総長を差し置いて、庁内のある有力者を吉田首相の身内に近づかせ、『自分の推薦する者を検事総長に任命すれば指揮権発動ぐらいのことは、必ず断行させてみせる』と豪語し、首相の周囲に指揮権発動を入れ知恵した」
「その一方、検察庁内のある上級幹部にも働きかけて、会議で『断固、佐藤栄作を起訴すべし』と全く正反対の強硬論を吐かせた」
「そのねらいは、指揮権発動の実現で、法務大臣、次官はもとより、検事総長ら検察庁の主な責任者を引責辞職させる。代って彼の意中の男を検事総長に据え、法務大臣の後任には首相の身内と最も親しい衆議院議員を持って来る遠大な筋書きだ」
そのうちに吉田首相がひそかに検察の上級幹部と面会したといううわさがたった。また、犬養は自分の法相辞任について話していた緒方竹虎副総理の口から、偶然にも、首相官邸の裏門に止まっていた自動車の正体を突き止めたことなどが記されている。
この手記には特定の検察幹部の名前は出てないが、事件当時の最高検の次長検事、岸本義広氏が「自分を指している」として、犬養を名誉毀損(きそん)で東京地検に告訴した。間もなく犬養が亡くなったため、真相は解明されなかった。岸本は東京高検検事長で退官し、自民党に入って衆選議員となる。しかし、大きな選挙違反事件を起こし、検察に逮捕されて議員を辞職、次の選挙でも落選した。
検察幹部と会っていた緒方副総理
首相の吉田茂は、緒方副総理の進言で犬養法相に指揮権発動を命じたことを、回想録で明らかにしている。黒幕に関し、緒方が鍵を握っているようだ。緒方は朝日新聞社副社長、戦中期や終戦直後に国務大臣(情報局総裁など)を務めた。52年に衆院議員となり、当選1回で第4次吉田内閣の内閣官房長官、副総理に。造船疑獄事件の当時も副総理として、高齢の吉田に代わり、実質的に第5次内閣を仕切っていた。
直木賞作家の三好徹が書いた『評伝緒方竹虎』(岩波現代文庫)によると、緒方の日記には驚くべきことが記されている。事件捜査のさなかに緒方と検察幹部が、何度も会っていたのだ。最初の頃は、吉田首相に検察が直接、捜査報告していた。
事件捜査は1954年正月明けから始まったが、1月30日の緒方日記にはこう書かれている。「馬場検事正(東京地検)よりの申出にて佐藤検事総長、吉田総理会見の希望あり。事件思わざる発展のため、あらかじめ判断を求めたしとのことの如(ごと)し。午後六時半、官邸訪問、検事総長同席、大体の見通しを聞く」
そして、緒方は2月に、馬場義続(よしつぐ)検事正(後に検事総長)と夜に面会。3月3日には、緒方は法務省の次官、刑事局長とほとんど徹夜で、捜査について話している。緒方日記の3月13日には、人を介しての伝言として「Bよりの連絡、漸(ようや)く問題終局に近く」とある。Bは馬場検事正を指しているのかもしれない。しかし、この仲介人から情報は間違いで、事件はさらに拡大していく。
法相のクビで事態を収める
指揮権についての知識を得た緒方は、嫌がる犬養にその発動を命じた。犬養は指揮権発動の直後、法相として辞表を提出して、翌日、辞任する。緒方は発動当日、4月21日の日記にこう記した。
「検察庁法第十四条発動、相当のショックを与えたるようなり。検察側も大体事なきようなるも、犬養法務大臣の退官を条件とするが如し。急に検察庁に圧迫を加えたるに対しての不満のようなり」
緒方としては、検察幹部と根回しをしたつもりだったが、検察は初の指揮権が発動されると、予想外に反発した。検察は佐藤栄作・自由党幹事長の逮捕をあきらめ、汚職事件の捜査を途中で終えるが、その交換条件として法相の首を求めた。吉田内閣は当初、犬養法相を辞めさせない予定だったが、法相辞任を認めて、検察も納得できる形で事態を収めたのだ。副総理に検察の反応をすぐに伝え、大胆な落としどころも進言できた検察幹部は、緒方と面識がある者に限られる。
緒方日記でもう一つ、検察と政界の異様な近さを感じさせる記載がある。指揮権発動から半月たった5月9日の日曜日、「終日在宅静養。夜、河井検事と会見」。事件の主任検事で、佐藤幹事長ら政治家を取り調べた河井信太郎氏とも自宅で会っていたのだ。
著者の三好氏は、「何のために両者が会ったのかは解釈に苦しむところである」と書いている。本の最後に、三好本人が新聞記者時代からの付き合いがあり、河井検事の下でこの事件を捜査した伊藤栄樹氏に、緒方・河井会談について、どう思うか聞いたことが記されている。三好も、黒幕が誰か知りたかったのだ。
この本の原著刊行当時(1988年3月)、検事総長を退官したばかりの伊藤氏は、「(2人が)会っていたなんて夢にも想わなかった。信じられない気分だ。自分にいえるのは、河井信太郎という人は法律家ではなかったということだ」とだけ述べたという。
筆者は三好氏と東京地検の特捜部長室で偶然、会ったことがある。緒方評伝を発表する数年前の1984年ごろで、三好氏の実弟の河上和雄氏が特捜部長だったからだ。三好氏は検察に人脈を持った作家だった。
「問題は検察ではなく政権欲の政治家」
黒幕について、検察出身者では藤永幸治氏(河上氏の前任の特捜部長で、後に東京高検検事長)が興味深い発表をしている。元検事総長5人を含む十数人の検察関係者を取材して、ついに特定したという。「推理していた通り、検察部内の人であったことが悲しかった」と自著で述べている。犬養元法相を訴えた前述の岸本・元次長検事ではない、別の検察の人だとしているが、実名の公表は避けている。
やはり、当時の検察内部に政界と通じる人物がいたのだろう。この連載の前回に述べたように、当時の証拠では有罪に持ち込むのは難しかった。そこで、捜査段階で打ち切りにするため、検察側から妥協策として、指揮権発動を入れ知恵したという説もある。
一方、吉田首相は回想録で「私の政治生活」と題する章の最後にこう書いた。
「もっとも私が遺憾とする点は、検察当局との応酬にあるのではない。真に問題とすべきは、いたずらに政権欲に駆られ、ひたすら私を政治的に傷つけようとする野心から、恐らくすべての事情を承知の上で、誇張歪曲してこれを利用した一部政治家の態度である」
吉田は、この事件が自分を退陣させ、政権奪取を狙った政治家が仕掛けたものと最後まで信じていた。
検事総長はすぐに辞めるべきだった
ところで、指揮権発動を受け、法相と意見が対立した時、検事総長はどのような対応を取るべきだったのか。当時の佐藤藤佐(とうすけ)検事総長は「検察庁法に指揮権の規定があり、その発動は違法とは考えていない」と法相の指揮に従った理由を、判事出身者らしく説明した。
これに対し、自身がこの事件捜査に関わった上述の伊藤氏は後に、「佐藤検事総長は必要最小限の指図をしたら、パッとお辞めになるべきだった」と反論している。検察庁法を解説した自著(1963年)で伊藤氏は、法相の指揮権発動に対し検事総長は、(1)従う(2)従わない(3)辞任する―の3つ対応があると説いている。
検事総長が辞任すべきだった理由は、「よしと信じたことが法務大臣に拒否された以上、これに従うと否とを問わず、職を辞して国民の批判を仰ぐべきと考えたからである」と伊藤氏は述べた。
伊藤氏が示した3つの対応は国会で取り上げられ、「法相の指揮に検事総長が従わないのは問題だ」と、秦野章・元法相(旧内務省・警察庁出身、警視総監を務めた後に政界入り)が著書で批判したことがあった。これらを受け、伊藤氏は検事総長在任中に刊行された検察庁法解説の新版(1986年)で、「検察権を代表する検事総長は、法相の指揮が違法でないかぎり盲従するという態度をとることは許されないものとしなければならない」と記述した。
「従わない」の文字は消えたが、指揮権発動に検事総長が黙って従うことはない、「ミスター検察」と呼ばれた伊藤氏の強い決意が感じられる。すなわち検察と内閣、政界との関係には、一定の緊張感が必要ということだ。それは、今日も変わってはいない。
この連載での参考、引用文献:『佐藤栄作日記 第一巻』(朝日新聞社)、『検察讀本』(河井信太郎著、商事法務研究会)、『秋霜烈日』(伊藤栄樹著、朝日新聞社)、『新版検察庁法逐条解説』(伊藤栄樹著、良書普及会)、『特捜検察の事件簿』(藤永幸治著、講談社現代新書)、『“指揮権発動”を書かざるの記』(犬養健著、文藝春秋1960年5月号)、『指揮権発動』(渡辺文幸著、信山社)、『恐慌と疑獄 東京地検特捜部』(山本祐司著、潮出版社)、『評伝緒方竹虎』(三好徹著、岩波現代文庫)、『回想十年 新版』(吉田茂著、毎日ワンズ)、『特捜検察』(魚住昭著、岩波新書)
バナー写真:吉田茂首相との会談を終え、記者団に囲まれる緒方竹虎副総理(中央