戦後初期、内閣が倒れた二つの疑獄事件

検察を止められない法相に怒る政権党:戦後初期、内閣が倒れた二つの疑獄事件(4)

歴史 社会 政治・外交

造船疑獄を捜査する東京地検特捜部は、官僚、国会議員を次々と逮捕していった。捜査の最終ターゲットは、長期政権を支える自由党(自民党の前身)のトップ2人に絞られる。当時の第5次吉田茂内閣は衆院議席の過半数に満たない少数与党政権で、もし2人が逮捕されれば内閣が倒れるのは確実だ。「昭電疑獄」で倒れた先の芦田内閣の轍を踏むなと、党内からは「検察捜査を止められない法相は辞めろ」の強硬論が出てくる。

国会議員の逮捕始まる

1954年の正月明けから始まった捜査で、船舶会社が外航船舶の建造を発注すると、造船会社から建造代金の1%程度がリベートとして船舶会社に戻される慣例が業界にあることが分かった。これを裏金にして、政治家らへのヤミ献金などが横行していたのだ。

特捜部は政官界への工作を記した「社長日記」の海運会社社長らを、同年1月15日に逮捕。続いて、海運、造船会社社長から、計画造船の割り当てに便宜を図るよう頼まれ、料亭などで現金を受け取っていた運輸省官房長を同25日に逮捕した。

この疑獄事件の主役の一人となる佐藤栄作・自由党幹事長(後に首相)は、1月26日の日記にこう書いた。(朝日新聞社刊「佐藤栄作日記 第一巻」から)

「(党の総務会終了後)池田(勇人・自由党政調会長、後に首相)君等と近時の造船問題の報告交換を為す。仲々の難問題にして之が取り扱いは誠にむつかしい。政界の為、国際信用、内政の面からしても、心から発展しない事を祈念する」(一部修整、以下同じ)

東京地検の依頼で日立造船大阪本社を家宅捜索する大阪地検係官=1954年2月8日、大阪市北区中之島(共同)
東京地検の依頼で日立造船大阪本社を家宅捜索する大阪地検係官=1954年2月8日、大阪市北区中之島(共同)

佐藤の願いに反し、事件捜査は大きく発展していく。検察は2月16日、自由党の副幹事長に対して、国会開会中のため、所属していた衆議院に逮捕許諾請求をし、同24日に逮捕。政治家逮捕の第1号となった。

2月15日の佐藤日記。「(逮捕される副幹事長の)身辺危うしとの事。犬養(法相)、緒方(竹虎副総理)氏等と対策を協議するも、犬養頼りにならず」。この頃から、検察の捜査を止められない犬養法相に対し、佐藤はいら立ち、強い不信感を抱く。日記には犬養に対し、遠慮のない厳しい言葉が続出する。

料亭懇談の出席者メモ「発表すれば内閣つぶれる」

同月19日の衆院決算委員会で、この疑獄事件摘発のきっかけを作った高利貸しが参考人として、「造船融資について、現職大臣を含む政財界の要人が料亭で懇談した。その出席者のメモを決算委員長に提出した」と爆弾証言。このメモを見た委員長が、「これを発表すれば、今日にも吉田内閣はつぶれる」と叫び、この事件は広く国民に注目されることになる。

3月には、海運・造船業界の実力者だった俣野健輔・飯野海運社長が逮捕された。俣野社長は、疑獄の核心である「外航船舶建造融資利子補給法」(大型船建造で船会社が負担すべき融資の利子が、この法律で半減された)成立のため、政界工作で動いた中心人物だ。

取り調べでつかんだ点を、河井信太郎・主任検事はこう書き残している。

「船会社が自由党幹事長のS氏の所に依頼に行ったら、『よろしい、(船会社の利子が半減される)法律案を党でまとめてやろう。その代わり、この前の総選挙で党に2000万円(現在の貨幣価値で約4億円)の借金が残っているから、その2000万円を持って来い』と(S氏が)要求した」

「船会社の集まりである船主協会が、いくら金利負担が軽くなるか計算。2000万円は安いものだとして、S幹事長に現金で差し出すと、『じゃ、やってやろう』ということになった。そんな勝手な話はない。私は、S氏を逮捕すべきと言った」

佐藤は3月10日の日記にこう書いている。「(捜査をしている地検に任意出頭した議員に経過を聞いた後、同席していた犬養法相に)小生の件は此の際なら政界に与える影響大なるにつき、今暫らく時を貸せられ度しと申し入れするも、犬養君の意向は誠に頼りなき感なり」

佐藤は前日の新聞に、自分が検察の捜査目標になっていると報道されたこともあり、自分への捜査を待ってほしいと犬養法相に頼んだが、検察を止める自信のない法相が明言を避けたようだ。犬養はそれまでの検察の捜査方針を認めており、事件の拡大を望まない党・内閣と、捜査を進めたい検察との板ばさみになって苦しんでいく。

自由党の金庫番逮捕に怒る吉田首相

4月に入ると、検察と政界の動きは一層あわただしくなる。同2日、特捜部は5回目の一斉捜索を行い、造船工業会の副会長で、石川島重工の土光敏夫社長らを逮捕。自由党の国会議員3人も相次いで逮捕された。

4月5日の佐藤日記。「犬養法相、(衆院議員2名の)逮捕許諾請求の件を連絡し来る。小生大いに不満の意を伝える。犬養君あわてたる如きも手の施す術なく――」。少数与党の政権党を預かる幹事長としてか、佐藤は自党議員の逮捕を止めない法相に怒りをぶつけた。

特捜部は同10日、自由党の本体に切り込む。党本部の会計責任者、つまり金庫番を収賄幇助(ほうじょ=手助け)の疑いで逮捕したのだ。一向に手を緩めず、本丸に向かってきた検察に対し、吉田首相も怒った。

同11日の佐藤日記。「党情を詳細報告して首相の断を求む。(党会計責任者)逮捕の件につきては、首相も重大決意をせるものの如く、犬養を叱咤するの言あり」。こうして犬養法相の進退は党内問題となった。

いよいよ捜査の最終目標は、海運会社の社長が書いた暗号メモ「S二〇〇」「I三〇〇」の二人、政権党の佐藤幹事長と池田政調会長に絞られた。海運会社数社から金をもらったという池田は、2月末から特捜部の事情聴取を受けていた。ただ、金銭授受の時期が訪米直前で、餞別だとの見方もあるため、池田への捜査は後回しとなった。

佐藤は4月12日、河井主任検事から翌日の任意出頭を命じられた。この情報は報道陣に漏れ、佐藤は囲まれて、指定された検事正官舎には行けず、事情聴取は1日遅れで、14日昼過ぎから翌朝まで、徹夜で行われた。

佐藤日記、4月14日。「河井検事の取調べを受く。海運助成法案(外航船舶建造融資利子補給法などのこと)制定当時の模様、俣野(飯野海運社長)、横田(山下汽船社長)、土光(石川島重工社長)等との関係。次に此等の諸君との金銭授受」

「特に俣野君から貰った昨年秋の二〇〇万円の受領当時の模様につきては、俣野君から政治資金に困るだろう、此処に二〇〇万円あるので御使い下さいと云うので、謝礼をのべてもち帰った。また党寄附の船主協会並に造船工業会のものは単純な政治資金寄附で法案とは関係なしと明記さる」

すべて合法な政治献金だとする佐藤の供述は、特捜検事を納得させるものではなかった。このためか、佐藤は17日、東京地検の馬場義続検事正に再度の取り調べを望む上申書を送り、その日の夜、2回目の河井検事による事情聴取を受けた。佐藤はその前に国会内で緒方副総理や池田政調会長らと会い、自分が逮捕要求された時の内閣改造問題について話し合った。

佐藤日記では、「この際、犬養(法相)を整理して法曹界から大臣を登用し――」とあり、佐藤はついに犬養更迭を提案した。だが、佐藤が最も恐れる内閣総辞職論も出たので、結論は持ち越しになった。佐藤は、取り調べの前に、主任弁護人となる松阪広政弁護士と会う。戦中期に検事総長を務め、続いて小磯国昭内閣、鈴木貫太郎内閣で司法大臣を務めた法曹界の大物だ。

「私はできない」と犬養法相が辞意表明

犬養は翌18日、緒方副総理に辞意を表明した。直近で緒方から命じられたことに対して、「私はできないので法相を辞める」という犬養の意思表示で、まだ正式の辞任ではない。この頃の吉田首相は病気がちで、神奈川県・大磯の私邸にいることが多く、内閣は副総理の緒方が実質的に仕切っていた。

緒方竹虎=1955年撮影(時事)
緒方竹虎=1955年撮影(時事)

緒方が犬養に命じたことこそ、検察による佐藤幹事長の逮捕を認めず、先延ばしするよう、検事総長に指示することだ。検察庁法第14条但(ただ)し書き「法務大臣は、個々の事件の取調又は処分については、検事総長のみを指揮することができる」に基づく「指揮権の発動」である。だが、法相が抵抗している限り、それはできない。

一方、検察側は佐藤藤佐(とうすけ)検事総長を中心に、東京高検検事長、地検検事正、主任検事、法務省幹部らが出席した「検察首脳会議」を17、19、20日と続けて開いた。馬場検事正、河井主任検事は「まず佐藤を逮捕すべき。その後に池田を逮捕。証拠は完全にそろっている」と強気に主張。そして、運命の日、4月21日を迎える。

(この連載での参考文献は、最終回にまとめて掲載します)

バナー写真:1954年4月21日、造船疑獄事件で指揮権を発動した犬養健法相(中央)。検察庁法に基づく介入で、法相は責任を取って辞表を提出した(共同)

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