英王室から届いた親電で昭和天皇ご聖断?:連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信(8)・最終回
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スウェーデン国王が何事かアレンジ
「ソ連参戦で情勢は一変した。帝国政府は、国体護持を最後の目的として外務交渉を開始した。貴官は任地において最善を尽くせ」。
最後の拠り所にしていたソ連が中立条約を破って侵攻するどんでん返しに遭って参謀本部から、小野寺に8月10日付電報が11日来た。
小野寺はスウェーデン国王グスタフ5世の甥のプリンス・カール・ベルナドッテを初めて招いて、日本は降伏の決心をしたが、天皇制存続だけは、国王から英国王にお願いして頂くよう依頼し、プリンス・カールは「明日国王に伺ってお話する」と快諾した。
小野寺は翌12日、プリンス・カールが国王への工作を快諾したと陸軍大臣あてに電報を打つと、「スウェーデン王室を通して工作せよ」。参謀次長と陸軍次官から初めて工作を認める返電が届いた。しかし、この電報は昭和天皇によるポツダム宣言受諾の玉音放送が流れた8月15日付で、届いたのは翌16日。すべては遅すぎた。
プリンス・カールに背中を押された小野寺の打診工作は徒労に終わったのだろうか―。
戦後、米国立公文書館で公開された秘密文書によると、プリンス・カールとともに小野寺工作を国王に仲介したスタンダード石油スウェーデン総代理店支配人、エリック・エリクソンは、米戦略情報局(OSS)のエージェントで、在ストックホルムのジョンソン米公使に工作内容を逐一報告していた。
ジョンソン公使が国務省に45年5月17日伝えた電報では、エリクソンは小野寺からの王室を通じた和平工作についてプリンス・カールの父親で王弟のプリンス・カール・シニアの個人秘書、ローヴェンヒエルムに伝えたが、ローヴェンヒエルムは、スウェーデン赤十字総裁のプリンス・カール・シニアは、政治問題に介入できないため、国王と国王の甥のフォルケ・ベルナドッテ伯爵に相談される意向である、とエリクソンに答えた。
ローヴェンヒエルムによると、プリンス・カール・シニアは長兄である国王に小野寺からの和平工作の件を伝えた。「この問題は今や『我が国の最高位者』つまり国王によってアレンジされている。彼(国王)は、『この旨を小野寺少将に報告せよ』と要請した。『小野寺はこの連絡をさぞ喜び、報告を受けたことを感謝するだろう』と語った」という。
小野寺の和平の依頼を国王グスタフ5世が興味を持ち、日本のために何事かアレンジした。小野寺が聞くと喜び、感謝することを国王が行ったことを個人秘書が指摘している。
このことは英国の歴史家、ルウェリン・ウッドワード卿が1972年上梓した英外務省の公刊史『英国の第二次大戦中の外交政策』の第六章「日本の降伏―戦後の日本の取り扱いについて英国と米国の計画」でも確認できる。
「1945年5月までは日本から和平打診はなかった(中略)。たった1つ、駐ストックホルムの米公使からだけ報告があった。同公使館へ氏名不詳の人物(エリクソン)が訪れ、日本の小野寺武官と国王の弟、プリンス・カール・シニアとの仲介者で、スウェーデン王室より認められている。小野寺は『ソ連が赤軍を満州国境に進めて対日参戦の意図を持っている』と言って、日本は敗戦を認識し、これ以上の破壊は避けたいので、スウェーデンの王室筋に日本と連合国のお取りなしをお願いしたい、と希望している。お取りなしを願う相手は王室のメンバーで、プリンス・カール・シニアを示唆した。ただプリンス・カール・シニアはスウェーデン赤十字社総裁なので、スウェーデン政府とベルナドット伯爵(フォルケ・ベルナドッテ伯爵)に話した。その後、国王グスタフ5世は、この件に興味を持たれ、様々な方法を講じられ、何事かアレンジされた」
さらに英国立公文書館所蔵の英外交電報によると、この小野寺の工作について、サンフランシスコ会議(国連の設立を決めた連合国の会議)途中に米国務省から知らされたハリファックス駐米英国大使が、同月19日に英外務省に緊急電で伝えた。英政府は「日本が初めて降伏の意思を示した」と判断し、同月25日、英自治領省から英連邦の自治領、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ共和国に「最高機密情報」として「日本のストックホルム駐在陸軍武官が『ソ連が対日参戦の意図を持っている』とし、スウェーデン王室筋に日本と連合国のお取りなしをお願いしたい、と希望している。オーソライズされた陸軍武官は天皇の〝代理〟となるので、国王は興味を持たれ、何事かアレンジされた」と1回限りの暗号で打電した。
英国が自治領と情報共有するのは、ヤルタ密約など相当な機密情報に限られる。日本の中枢が無意味なソ連仲介和平に傾く中、北欧の中立国で、小野寺がヤルタでソ連が対日参戦「密約」を交わした〝裏切り〟を見抜き、スウェーデン王室に和平仲介打診した工作を、「最高機密」と判断し、英連邦の主要国である自治領と情報共有したのである。
スウェーデンで小野寺の終戦工作を研究するストックホルムの安保整備政策研究所(ISDP)のバート・エドストーム上級研究員によると、英国が小野寺の国王への打診工作を「初めての降伏意思」と判断したのは、小野寺がドイツ降伏後の45年5月、ストックホルムで、ドイツの親衛隊情報部のヴァルター・シェレンベルク国外諜報局長と和平仲介を模索したフォルケ・ベルナドッテ伯爵らとともに英国の駐スウェーデン公使のビクター・マレット卿と会談していたからだ。
国王グスタフ5世の長男、アドルフ(後のグスタフ6世)が英王室のビクトリア女王の三男の娘マルガレータを夫人とするなど王室は英王室と近しくマレット公使とも親しかった。逃亡先のデンマークで身柄確保されたシェレンベルクはロンドンに送還され、英国の情報機関の尋問を受けた。マレット公使を通じて英国は国王が乗り出した小野寺の終戦工作を的確に把握していた可能性がある。
ポツダムに届いた国体維持と降伏意思
もう一つ意外な成果があった。小野寺の和平工作が「国体護持を条件に日本が初めて降伏の意思を示した」と米国のトルーマン大統領に届いていたのである。
トルーマン大統領は1945年7月中旬、ドイツのポツダムで開催される首脳会談に出席するため、大西洋をアメリカ海軍の重巡洋艦「オーガスタ」で航行していた。その船上でワシントンのジョセフ・グルー国務次官から同行していたジェームズ・バーンズ国務長官にリレーされた機密電報を読んだ。1945年7月6日、駐スウェーデン公使、ジョンソンからバーンズ国務長官に宛てた次の電報だった。
「プリンス・カール・ベルナドットは小野寺少将から夕食の招待を受け、小野寺少将は日本が敗北をすでに承知し、時期が来れば、スウェーデン国王に直接連絡を取り、連合国への接触を要請すると語った。国王は連合国に連絡を取る意向に傾いている。小野寺は天皇の地位が降伏後も保持される条件だけを述べ、他の条件は語らなかった」
この電報でも「国王は連合国に連絡を取る意向に傾いている」と記されている。小野寺からの要請に国王が連合国との仲介に乗り出すことを承諾したことを示唆している。先の電報では「小野寺が喜ぶだろう」とも述べており、国王は連合国つまり英米に日本が戦争を終える(降伏の)意思を伝えたと考えるのが合理的だろう。また終戦にあたり、日本が最後に求めた国体護持(天皇制の存続)を小野寺が米英に伝えたことが示されている。
ベルリン郊外ポツダムのツェツィーリエンホーフ宮殿に米英ソの首脳が集まり、会談2日目の7月18日午後3時、トルーマン大統領は、スターリン首相を訪ねると、スターリン首相は、近衛特使派遣を要請する天皇からの親書を見せた。日本が和平仲介の特使受け入れを求め、「降伏」の意思を得た、と伝え、拒否か曖昧な回答か完全無視か―を尋ねた。
トルーマン大統領は曖昧な回答を支持して反論した。
「日本の降伏意思については、こちらもスウェーデンから情報を得ている」
小野寺の電報を持ちだし、スターリン首相に日本が天皇制を残すことを望んでいることを示した。天皇制を抹殺したい共産主義者のスターリンは「日本の言は信用できない」と一蹴したが、会議では最終的に米国がソ連の反対を押し切り、天皇制の残置を認めさせた。「米英の外交的勝利」の背景の一つに小野寺の和平工作があったと考えていいだろう。
終戦前日、英王室から親電 国体護持
小野寺からの働きかけで国王が日本のために、何をしたのだろうか。
『高松宮日記』にスウェーデン国王が昭和天皇に親愛の情を示す記述がある。第8巻の昭和21年9月10日の欄に国王と小野寺の名前が出てくる。
「午後、スエーデン武官だった小野寺陸軍少将、よし様のお話にて来れリ。トルネル陸軍大将(侍従武官長)から帰る前(21年1月19日)に特に面会を求められて、「戦況不利になってから殊に日本皇室に対して同情を以て見ていたが(老年の)国王から(年若き)天皇に敬意を表するお気持ちを伝えられたい」とのことだったので、私から陛下に申し上げてくれとのことなり」
国王が、戦況不利になって日本皇室に同情したというならば、日本皇室を救う、つまり天皇制存続に何事か行動を取ったのではなかろうか。
さらに日本の天皇制を存続させようとスウェーデン国王から依頼を受けた英王室が米政府に働きかけたことはなかっただろうか。東欧に続きアジアへの共産主義拡大を懸念して、戦争終結を望んだのは米国だった。ソ連参戦前に戦争を終了させようと、非公式に5月から『ザカリアス放送』で皇室保持できるヒントを流した。しかし日本の中枢は「謀略」と受け止め正視しなかった。ただ「天皇中心主義を認める」という米軍の意向が英王室から昭和天皇に伝えられれば、国体護持が確信できる「インテリジェンス」となっただろう。
陸軍士官学校39期の元将校、塚本万次郎(岐阜県支部会副会長)は、旧軍人で組織する社団法人「日本郷友連盟」発行の『郷友』(昭和57年8月号)で、「8月14日に英皇室から陛下宛親電が届いた」と書いている。
塚本は、近衛第一師団参謀長だった高級参謀、水谷一生(31期)から、「本日英皇室から陛下宛のご親電が届いた」と聞いたという。英皇室(王室)から陛下宛の親電となると、国体護持の決定を知らせたとも考えられる。小野寺は同月11日プリンス・カールに国王を通じて国体護持をお願いして頂くよう依頼した。しかし、交戦している英国から天皇陛下に電報が送られるのは不自然だ。中立国スウェーデンの在日大使館経由ならば、可能性として考えられる。国王が英王室に働きかけ、英王室が米国に連絡し、天皇制存続を引き出し、それを天皇にスウェーデン経由親電で伝えた可能性もないわけではないだろう。
その証拠を求めて筆者は、産経新聞ロンドン支局長として2015年12月から約3年半、英国立公文書館や帝国戦争博物館で英国王ジョージ6世が昭和天皇に宛てたとされる親電や親書を探したが、見つからなかった。元ケンブリッジ大学東洋学部長で同大名誉教授のピーター・コーニツキー氏の紹介でウィンザー城の大円塔内にある王室文書館に照会したが、帰任辞令を受け19年4月帰国した。現在も王室文書館からの回答を待っている。
昭和天皇のご聖断は、8月9日深夜(10日未明)と8月14日に下された。9日の会議後、日本政府は国体護持を唯一の条件として連合国側にポツダム宣言受諾の意志を伝えたが、連合国側は、「天皇は連合軍最高司令官に従属(suject to)する」、「日本の政治形態は日本国民の自由に表明する意思により決定される」と回答(バーンズ回答)したため、再び交戦論が台頭、混乱した。
塚本証言で、親電が届いたとされる14日の前日13日午前、バーンズ回答は天皇の地位が保証されていないため戦争続行を唱える阿南惟幾陸相を天皇が諭すように、「アナン、心配するな、朕には確証がある」と語ったことを作家の半藤一利は阿南の義弟で軍務課員だった竹下正彦から聞いている。14日の親電が英王室から正式な「天皇制維持」を伝えたなら、天皇の確証をさらに確かにして2度目のご聖断を後押しした可能性もある。
1987年8月17日、89歳11か月の天寿を全うした小野寺の東京・世田谷の自宅にプリンス・カール・ベルドナッドから百合子夫人宛にお悔やみ状が届いた。日本の窮地を救おうと心を通わせた小野寺を王冠とイニシャルC・Bの入った便せんに直筆でこう書いた。「私の旧友、小野寺信の死に対し、小野寺百合子夫人と家族に最も深い哀悼の意を表する。彼はあのように最も正直かつ高潔な節操をもった人であった。だから私は彼を常に私の最も輝かしい想い出の中におく」
外務省、日本政府から正式な交渉委任権限を得ない小野寺の和平工作は、個人的な未熟なものとして批判を受けた。しかし、小野寺の工作が、連合国軍の首脳部に伝えられ、結果として天皇制維持につながったと推認できる。意味のない独り相撲では決してなかった。バックチャンネルとして有効だったのだ。戦後、日本が共産主義国家とならず、象徴天皇を中心とした民主国家として再生したことを考えれば、平和な令和時代に小野寺が情熱を傾けたインテリジェンス工作をもう少し注目してもよいと考えている。
バナー写真:王宮のあるストックホルムの旧市街ガムラスタン