ソ連に幻想抱く日本の中枢に黙殺された和平工作:連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信(7)
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小磯内閣崩壊で宙に浮いたバッゲ工作
スウェーデン駐日公使だったウィダー・バッゲは、日本を救おうと1945年4月下旬、帰国した。外務省編『終戦史録』などによると、44年9月15日、近衛文麿元総理と知己のある朝日新聞専務の鈴木文史郎から、「戦争を終結させる工作を中立国スウェーデンの斡旋で英国に依頼してほしい。占領地域を全部返還し、満州国も放棄してもよい。責任者は近衛文麿」と要請されたからだ。
鈴木専務は、日本在勤中に懇意になった友人の一人だった。帰国直前の45年3月31日、この構想に賛成した小磯國昭内閣の重光葵(まもる)外相と面談、スウェーデン政府から英国へ和平打診し、その結果をストックホルムの岡本季正(すえまさ)公使に連絡するように依頼された。
重光はソ連が対日参戦する可能性があるため、直接米英と終戦交渉を考え、仲介者としてバッゲ公使か法王庁(バチカン)代表に依頼すべきと判断した。バッゲは、「日本のために一肌脱ごう」とスウェーデン外務省に報告している。スウェーデンは、国王も外務省も日本の終戦工作仲介に乗り出そうとしていた。
惜しむらくは、重光がバッゲと面談後、政府で和平へ発展させる手はずを整えた数日後の4月7日、小磯内閣が総辞職して鈴木貫太郎内閣となり、東郷茂徳外相になったことだ。
東郷新外相に面談できないままバッゲは4月13日、シベリア鉄道経由で帰国の途につき、5月10日、日本公使館を訪れた。しかし、岡本公使は和平への熱意が全くなかった。東京から訓令が来ていないことを理由に、「早速、本省に問い合わせましょう」というだけだった。東京では重光と交代した東郷外相に、和平工作の概要が知らされず、一方、水面下で陸軍を中心にソ連仲介工作が進められていた。
失望したバッゲは、その足で朝日新聞の衣奈多喜男ストックホルム特派員と陸軍武官室の小野寺を訪れた。衣奈は小野寺の工作が進行していることを知っていた。日本の窓口としてバッゲに小野寺を紹介し、バッゲ工作も急いで進めてもらおうと考えたのだ。衣奈も、岡本公使より、日中戦争で蒋介石との直接和平工作に奔走し、スウェーデンで幅広い人脈を持った小野寺が終戦工作にふさわしいと判断していたのだった。
バッゲは小野寺に「岡本公使は和平についての熱意さえない」と不平を漏らした。
小野寺は、国王グスタフ5世の甥のプリンス・カール・ベルナドッテのルートと異なるが、「交渉のチャンネルはいくつもあった方がよい」とバッゲ工作でスウェーデン仲介による和平が進むと期待していた。
スウェーデン王室を介して英国王室と日本の天皇陛下が和平を模索するという点で、小野寺とバッゲの狙いは同じだった。衣奈は、「皇室と王室との国際間の連携というものが世界には存在し、その線に乗って平和の道筋を探し出そうとしたのが、バッゲ工作の性格だった」(『証言 私の昭和史』東京12チャンネル報道部編)と回想。政府内で小野寺の工作と衝突したが、目的は同じなので、協調すれば和平を達成できた可能性があった。
しかし、日本では小磯内閣が崩壊し、新外相に引き継がれる「バッゲ工作」が宙に浮いていた。東郷外相から岡本公使に5月18日届いた返電は、「前内閣当時に行われたことについては、とくと調査してみる必要があるから、本件は相当時日を要するものとご承知ありたい」と官僚的だった。5月14日の最高戦争指導会議で対ソ工作が正式に決まり、バチカン、スウェーデン、スイスで非公式に行われていた和平交渉を打ち切ったのだ。
同23日再訪したバッゲは、岡本公使から、返電の内容を聞かされ、失望し、事実上、「バッゲ工作」は立ち消えた。帰国直後、バッゲはジョンソン米国公使と会談して、朝鮮・台湾の処分問題を協議し、ジョンソン公使から米国側の戦争終結への強い意欲を感じ取り、仲介工作への手ごたえを感じていた。ギュンター外相も意欲を示していた。
しかし、肝心の日本政府に熱意が無い以上、バッゲは積極的に動けなかった。しばらくしてバッゲはエジプトの新任地へ赴任となった。戦後、バッゲは衣奈に「日本の国運を決したのは、45年5月の第1週から第2週にかけてのわずかの時期だった」ともらしている。
「一陸軍武官の策動」「やり方も拙劣」と公使が〝告げ口〟
小野寺が大本営から叱責を受けた背景に、岡本公使が外務省へ痛烈な小野寺非難を繰り返した事実があった。
米戦略情報局(OSS)のエージェントでもあったエリック・エリクソンから報告を受けた国王の弟、プリンス・カール・シニアは、ギュンター外相を呼んで協議した。小野寺がプリンス・カール・シニアの王子で国王の甥のプリンス・カール・ベルナドッテ(ジュニア)を通じて和平仲介の打診をしていることを聞かされたギュンター外相は、仰天した。
同じく王室を仲介に和平工作を始めようとしていたバッゲ公使に、これを伝えると、バッゲも驚嘆して5月16日、岡本公使に「ノイズ(邪魔)になる」と抗議したと岡本公使は伝えている。
バッゲ公使から抗議を受けた岡本公使は、陸軍武官小野寺の行動を上位職である公使の自分をないがしろにした越権行為と捉えたのだろうか―。東郷外相に、「小野寺がスウェーデンで勝手な行動(和平工作)をしている」と告げ口をしたのだった。「一陸軍武官の策動」「やり方も拙劣」「横合いよりの行動」などと激しい言葉で小野寺を非難して、軍首脳に工作をやめさせるように警告した。
その後も岡本公使は小野寺を誹謗中傷する電報を3本連続で東郷外相に送り、小野寺の罷免まで要求した。東郷外相も岡本公使に、「事態を陸海軍両大臣、参謀総長、軍令部総長に伝えて注意を喚起した」、「参謀総長に再び警告を発し、このようなことが続くなら、武官のリコールを要求せよ」などと返電した。
ソ連仲介和平に傾斜した日本の上層部は、ソ連以外のルートで、武官が和平工作を行うことは容認出来なかったのだろう。戦火を交える準備を始めたソ連を「最後の拠り所」に他のルートを切り捨てた判断は、視野狭窄で国際情勢を無視したものだった。
戦後、小野寺の和平工作は「個人プレーであって、軍部外交の出先版の観が深い」(小林龍夫元国学院大学教授)と厳しく批判された。しかし、この批判の根拠が岡本公使による小野寺を誹謗する電報や手記であれば、客観性を欠く。虚心坦懐に検証すると、ソ連の侵攻前に和平実現の可能性があった小野寺の和平工作を妨害して頓挫させた岡本公使の行動こそ、国益を毀損する独善だったのではないだろうか。
降伏直前にドイツのリッべントロップ外相がストックホルムでの独ソ和平交渉密使に岡本公使ではなく小野寺を指名したことは既に記した。OSSの秘密文書によると、在スウェーデン米国公使館は、百合子夫人の父親が元黒羽藩主の出自をもち、皇族附武官を務めたため、小野寺が皇室に近い家柄であるとスウェーデン王室が親近感を持っていると分析している。
また『高松宮日記』第八巻によると、グスタフ国王が46年1月、帰国前の小野寺にトルネル陸軍大将(侍従武官長)を通じて昭和天皇に敬意を表する伝言を託されたと記されている。多くの点で岡本公使よりも小野寺が終戦工作に適していたのである。
ソ連の「本性」見抜けず参謀本部が「王室」ルート抹殺
ところが約1カ月経った6月24日、大本営から電報で、『和平工作などするな』と叱責された小野寺は、その時の心境を戦後、次のように語っている。
「確かに和平は軍人としてやるべきではなかったが、一面、日本人として国家の将来を思うと、このときに当たって一番大切なことは、いつでも使える和平のルートをつけておくことだと考え、わたしもなおもそのための努力はした。あえて国王の甥のプリンス・カール・ベルナドッテ(ジュニア)だけではなく、わたしには、国王側近、侍従武官長(前スウェーデン総司令官)トルネル将軍もそのルートの一つだった。だから6月になって日本がソ連を通じて和平工作をはじめたと知ったとき、『ソ連を通じての和平工作はもっとも悪い。わたしはルートを持っている』と参謀本部へ打電したものだが、握りつぶされてしまった」(読売新聞『昭和史の天皇』)
不幸にも日本政府は、対日参戦を密約したソ連を介して戦争を終結させようと動いた。バッゲがシベリア鉄道でソ連を通過中の4月22日、参謀次長の河辺虎四郎と情報部長の有末精三が東郷外相を外務省に訪ね、和平仲介は中立条約が有効のソ連に依頼と進言。ソ連仲介による工作が本格化し、6月8日の御前会議で正式に決まる。
ソ連が条約を遵守しない国であることは欧州では周知の事実だった。周辺国15カ国と不可侵条約を結びながら、ドイツ以外の14か国で、条約を破って侵攻した〝前科〟があった。ソ連にとって中立条約は、いつでも敗れる「約束」だった。しかし、国際情勢に疎い日本の中枢は、ソ連の「本性」を見抜けなかった。
ヤルタで対日参戦の密約を交わしたソ連の「裏切り」を見破った小野寺は、東京の中枢が崩壊していると懸念した。ソ連は「救世主」ではない。日本がポーランドやバルト三国のようにソ連に占領され、共産化してしまう。スウェーデンの新聞に日本がソ連に仲介依頼していると報じられると、小野寺は梅津参謀総長宛に「最も好ましからざること」と電報を送った。
「帝国はモスクワを仲介として和平を求めるやの印象を受けるが、帝国将来のため、これは最も好ましからざることと考える。当方面に於いてあらゆる場合に応ずる路線を用意するから、必要とあらば、中央もこれを利用するよう配慮ありたし」
「あらゆる場合に応ずる路線」とは、ドイツの親衛隊情報部(SD)国外諜報局長のヴァルター・シェレンベルクと米英の仲介交渉を行った国王の甥、フォルケ・ベルナドッテ伯爵、侍従武官長のトルネル大将、エーレンスウェード大将、バッゲらによるスウェーデン外務省。岡本公使も和平ルートをもっていれば、動いてもらおうと考えていた。
しかし、返電はなかった。対ソ仲介依頼を決定した日本政府は、ヤルタ密約に続き、小野寺のインテリジェンスを黙殺したのだった。
バナー写真:ジブリ映画「魔女の宅急便」舞台となったストックホルムの旧市街ガムラスタン。主人公が13歳の満月の夜、魔女修行のため目指した海の見える街(在日スウェーデン大使館公認観光情報サイトより)