ポーランドから最後の返礼「ヤルタ密約」:連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信(5)
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ヒムラーが忌み嫌った「世界で最も危険な密偵」
ポーランドの大物情報士官、ミハウ・リビコフスキが小野寺と「心の絆」で結ばれたのは、小野寺が草木もなびくナチスに反抗し、危険承知でリビコフスキを守り抜いたためだ。
小野寺が赴任して約半年後の41年7月。ベルリンの中心地ティア・ガルテンでリビコフスキの部下がドイツの秘密国家警察(ゲシュタポ)に摘発され、リビコフスキが満州の偽造パスポートでストックホルム日本陸軍武官室職員として諜報活動を行っていることが発覚した。ナチス親衛隊(SS)の第四代指導者、ハインリヒ・ヒムラーが「世界で最も危険な密偵」と忌み嫌い、リビコフスキ逮捕に躍起になった。
ベルリンに出張した小野寺に面会して、リビコフスキからの預かり物(指令書や活動資金)を受け取った直後に逮捕された部下は、ポーランド地下組織のリーダーで、ベルリン満州公使館で雇われていた。その前は、リトアニアのカウナス日本領事館で杉原千畝領事代理に協力していた。
「敵」はナチスだけではなかった。日独伊三国同盟締結後、ドイツ一辺倒になったベルリン日本大使館で、満州国参事官としてポーランドとの諜報協力を主導していた陸軍中野学校の初代校長、秋草俊も露骨にリビコフスキを嫌悪していた。ドイツは、ベルリンの大島浩大使を通じて再三、リビコフスキの身柄引き渡しを求めた。
しかし、小野寺は頑として受け付けなかった。ゲシュタポに四六時中命を狙われるリビコフスキを武官室で保護し続け、さらなる身の安全のため、ストックホルム公使館の神田襄太郎代理公使に依頼して日本パスポートを発給した。偽名ピーター・イワノフに漢字を当てて「岩延平太」名義とすると、リビコフスキは「日本人になれた」と深謝した。
2人を親密にしたのは、ひとつには、リビコフスキらポーランド人が日本に対して並々ならぬ好意を抱いていたことがあった。18世紀からロシアの侵略と圧政に苦しめられたポーランドは、そのロシアを日露戦争で打ち負かした日本を尊敬していた。また、この戦争で、日本軍は望まずにロシア軍に従軍したポーランド人捕虜に寛容に接した。
さらに両国の距離を縮めたのが、ロシア革命後にシベリア出兵していた日本軍が、ボルシェビキ(ソ連共産党の前身)に両親を惨殺されたポーランド孤児765名を救出した出来事だ。ポーランドの新聞は、「日本人の親切を絶対に忘れてはならない。我々も彼らと同じように礼節と誇りを大切にする民族であるからだ」と伝え、ポーランド人は感謝の念を抱いた。日本も19年の国交樹立後、ポーランドから暗号技術を学ぶ。
そして40年、カウナス領事館で杉原千畝領事代理が「命のビザ」を出して5000人を超えるユダヤ人を救ったが、その多くはポーランドから逃れたユダヤ人だった。こうした経緯でポーランドは日本を「大切なパートナー」と感じた。すでに記したが、杉原は39年の独ソ侵攻で祖国を逃れたリビコフスキに満州国パスポートを発給した。「命のビザ」の1年前で、杉原もリビコフスキら亡命ポーランド政府の情報士官たちと協力して諜報活動を行った。
戦後も交わした100通近い往復書簡
戦後、カナダ・モントリオールに移住したリビコフスキは70年に日本を訪れ、小野寺と再会を果たす。その数年後、小野寺もカナダのリビコフスキを訪問した。2人は、61年から87年に小野寺が亡くなるまで、100通近くの往復書簡を交わした。
手紙でリビコフスキは、「マコトは自分の命の恩人だ。自分をドイツのゲシュタポから護ってくれたのはマコトだ」と、小野寺が体を張って守り通してくれた感謝の気持ちを生涯、忘れることはなかった。
リビコフスキはついに44年3月31日、英国の首都ロンドンに移った。ドイツからの圧力に抗しきれず、同1月、スウェーデン政府が「秩序を乱して好ましくない」と「ペルソナ・ノングラータ」(好ましからざる人物)として国外退去を命じたのだった。
退去理由を小野寺は百合子夫人に、「単に女の問題だ」と説明した。スウェーデン秘密警察調書によると、リビコフスキには70人協力者がいて、大部分は恋愛関係となった女性だった。男気あるリビコフスキに女性は魅了されたのだろう。反ナチスの女性を操り、ドイツにサボタージュや人間を媒介とした諜報活動の「ヒューミント」を仕掛けていた。
「ロンドンの亡命ポーランド情報部が入手した情報を駐在武官のフェリックス・ブルジェスクウィンスキーを経由して届ける」。退去にあたり、リビコフスキは小野寺に約束。終戦まで約1年半、ロンドンから機密情報が送り届けた。ブルジェスクウィンスキーはリガで知遇を得た友人だった。
バッキンガム宮殿に近いルーベンスホテルにあった亡命政府陸軍参謀本部に登庁したリビコフスキは、ポーランド軍に復帰し、旅団長としてイタリア戦線に赴いた。代わって情報を送り続けたのは、上司の情報部長、スタニスロー・ガノ大佐だった。
「今度は我々が日本を救う」と「至宝」提供
中立条約を結んでいたソ連が対日参戦を決めたヤルタ密約情報も、45年2月、このルートで提供された。小野寺の『回想録』によると、会談直後の2月半ば、午後8時から始まる夕食前だった。ブルジェスクウィンスキーの長男の少年が、らせん階段を最上階5階まで駆け上がり、小野寺の自宅郵便受けに手紙を落とした。差出人はブルジェスクウィンスキーだった。
「ソ連はドイツ降伏より、3カ月を準備期間として、対日参戦する」と書かれ、小野寺は直ちに中央(参謀本部次長あて)に打電した。
ヤルタ密約について、小野寺は旧陸軍将校の親睦組織の機関誌「偕行」(1986年4月号「将軍は語る」)で、「ポーランド亡命政府の公式情報だった」と証言している。日本にとって敗戦を決定付ける近代史上最大級の情報は、ポーランドからすれば、長年の日本の厚意への「返礼」で、「今度は我々が日本を救う」との思いの表れだった。小野寺の誠実な人柄を信用して、密約という「至宝」を惜しげもなく提供したのだった。
ガノは、終戦後の46年1月、イタリアのナポリから、日本に引き揚げる小野寺に、こんな心温まる言葉を手紙で贈った。
「あなたは真のポーランドの友人です。長い間の協力と信頼に感謝して、もし帰国して新生日本の体制があなたと合わなければ、どうか家族と共に、ポーランド亡命政府に身を寄せて下さい。ポーランドは経済的保障のみならず身体保護を喜んで行いたい」
祖国をソ連に奪われ、共産化されたポーランドは、世界の誰よりもスターリニズムの恐怖を皮膚感覚で知っていた。「大切なパートナー」を同じ目に遭わせまいと密約を伝え、小野寺に「何かあったら俺たちのところに来い」と伝えたのだ。
不幸にもヤルタ密約の情報は、ソ連に傾斜する参謀本部の中枢で握りつぶされ、日本の政策を変えるに至らなかった。しかし、それをもたらしてくれたポーランドの人たちの熱い思い。そして、彼らから絶大な信頼を受けて情報を提供され、戦火の欧州で祖国を救うべく奔走したひとりの誠実な日本人がいたことを誇りにしたい。
バナー写真:ヤルタ会談に臨む、チャーチル英首相、ルーズベルト米大統領、ソ連のスターリン(米国立公文書館所蔵)