連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信

黙殺された「日米開戦不可なり」電報30通:連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信(4)

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小野寺信(まこと)少将(最終階級)は再びバルト海のほとりの中立国、スウェーデンの駐在武官を命じられた。1941(昭和16)年1月。赴任したストックホルムで、ラトビアの首都リガ在勤時に親交を深めたポーランドやバルト三国の情報士官たちは、正確無比な情報をもたらした。独ソ開戦をいち早く伝え、ドイツ劣勢の特ダネをつかみ、「日米開戦不可なり」と繰り返し打電したが、ドイツを過大評価する大本営は黙殺し、日本は勝算なき無謀な戦端を開いた。

奇縁か幸運か、リガの絆がストックホルムで結実

ヒトラーは、スターリンと独ソ不可侵条約を結び、39年9月、ポーランドに侵攻し第二次大戦が勃発した。ソ連はバルト三国を編入。フィンランドからカレリア地方を奪取。ドイツ軍は翌40年4月、デンマーク、ノルウェーも占領下に置いた。さらにフランス、ベルギー、オランダを降伏させ、バルカン諸国も制圧してロンドンを空襲し、英本土上陸作戦の機会を探った。同年9月27日、三国同盟に調印した日本は、「バスに乗り遅れるな」と北部仏印に進駐、欧州でのドイツ優位に呼応する形で国策を決定しようとしていた。

ノルウェーを占領したドイツ軍を視察する小野寺信(1943年)=小野寺家提供
ノルウェーを占領したドイツ軍を視察する小野寺信(1943年)=小野寺家提供

北欧の都に赴任した小野寺の最初の任務は、ドイツの英本土侵攻作戦の確認だった。「ドイツ軍は5、6月、英仏海峡を渡り、進攻する。関連ニュースを報告せよ」。

情勢分析したが、英本土上陸作戦を裏書きする証拠はなかった。反対にドイツ軍が独ソ不可侵条約を破棄してソ連へ奇襲攻撃する準備しているとの独自情報が集まった。

情報を伝えたのはリガで知遇を得た他国の情報士官たちだった。小野寺は回顧録で述べている。「リガ時代に結ばれた絆は、ストックホルムで、どんなに役に立ったかわからない。(中略)奇縁といおうか幸運といおうか。この人たちが確実な情報を提供してくれたからこそ、中央に反抗しても、意見具申することができたのだ」)

小野寺は戦後、米中央情報局(CIA)の前身、米戦略諜報部隊(SSU)の尋問で、情報活動が成功したのは、祖国を失い、中立国スウェーデンに亡命した彼らに生活資金、生活物資を援助し、家族ぐるみで信頼関係を結び、秘密情報を得たからだと答えている。

スウェーデンで秋の大演習を視察する小野寺信(左端)=小野寺家提供
スウェーデンで秋の大演習を視察する小野寺信(左端)=小野寺家提供

機密費で彼らの生活の面倒を見た。小野寺は戦後、旧陸軍将校らの親睦組織の機関紙「偕行」(1986年3月号「将軍は語る」)で、「機密費といわれる諜報費に一番お金を使った組でしょう」と回想している。連合側も小野寺が多くの小国の情報士官に資金援助して関係を築いたことを突き止め、米戦略情報局(OSS)は1945年7月28日付け作成の報告書で、「小野寺は数千万クローネ(当時の1クローネは約1円にあたるため現在の貨幣価値にして数百億円)の活動資金を持ち、ドイツ降伏後も全欧州を把握するポストに留まる」と警戒した。

決め手はドイツの「棺桶準備」情報

最も親密で最良の協力者となったのがエストニア陸軍参謀本部第二(情報)部長から参謀次長を務めたリカルト・マーシングだ。1940年ソ連に併合される直前、ストックホルム駐在武官に転じて、ドイツ陸軍などで諜報活動を行う部下を束ねていた。スウェーデン軍部とも親しかった。イギリス対外情報部(MI6)のエージェントでもあったが、小野寺により精緻な情報を多く提供した。そのことが判明してMI6は報酬支払いを中止したが、尋問調書によると、マーシングは、小野寺から謝礼として毎月、1000から1500クローネ(当時の為替レートで1クローネ約1円なので現在の価値で100から150万円)を日本敗戦まで受け取った。

エストニアのリカルト・マーシング=小野寺家提供
エストニアのリカルト・マーシング=小野寺家提供

マーシング情報では、「バトル・オブ・ブリテン」(英独航空戦)で惨敗したドイツは制空権を握れず、Uボートの撃沈が相次いだ大西洋でも制海権を握れず、英本土上陸作戦は不可能だった。

むしろ対ソ開戦の情報が多かった。マーシングの部下でドイツ軍に入ったヤコブセンは、小野寺に「ドイツの情報部に勤める部下が、連日ヒトラーの戦闘指令書を準備し、東プロシア(ソ連が占領していた旧ポーランド領)に行っている」と耳打ちした。

決め手になったのは、ポーランドのインテリジェンス・オフィサー、ミハウ・リビコフスキの情報だった。ペーター・イワノフを名乗り、武官室に通訳官として勤務していたリビコフスキに、ベルリンで暗躍する部下からドイツ軍の耳よりの情報が入った。

小野寺の右腕だったピーター・イワノフことミハイル・リビコフスキー=小野寺家提供
小野寺の右腕だったピーター・イワノフことミハウ・リビコフスキ=小野寺家提供

「開戦に備え、ソ連国境に近いポーランド領内に集結し、棺桶を準備している」。ドイツ軍は作戦開始の際、戦死者を弔うため事前に兵士のため棺桶を用意する。ソ連侵攻は決定的だった。マーシングとリビコフスキの情報が一致したことで小野寺は「バルバロッサ作戦」を確信したのだ。

小野寺の最大の情報提供者で生涯の友となるリビコフスキは、帝政ロシアの支配下にあったリトアニアで1900年に生まれ、18歳でポーランド軍に入隊。参謀本部第二部(情報部)でドイツ課長を務めたが、独ソの侵攻で祖国を失ってリガに逃れ、日本の陸軍武官室に匿われた。

リトアニア領事代理だった杉原千畝に満州国パスポートを発給してもらい、満州生まれの白系ロシア人として40年8月、ラトビアがソ連に併合され、武官室が閉鎖されると、ストックホルムの陸軍武官室に移った。大戦前から日本陸軍とポーランド陸軍に諜報で協力関係があったためだ。日本がのちに真珠湾を攻撃し、両国が、交戦国同士となっても、リビコフスキは小野寺との協力関係を続けた。

こうした中、松岡洋右外相が訪欧した。モスクワで日ソ中立条約を結ぶ直前の41年4月である。しかしヒトラーは、同盟国の外相にソ連侵攻を秘した。松岡ら日本の中枢は希望的観測から、独ソ蜜月を背景に、ドイツが英国を屈服させ、米英をけん制することで、泥沼の日中戦争を終息できると夢想していた。

在欧武官で唯一、独ソ戦勃発予言も

そこで在欧武官会議がベルリンで開かれた。全員が英本土上陸を主張する中、一人小野寺だけが「ドイツはソ連に向かい、独ソ戦が必ずある」と主張。するとドイツの西郷従吾補佐官は、「小野寺は英米の宣伝に惑わされている」と非難した。「英本土対岸の港を視察したが、上陸用舟艇が多数あり、上陸作戦用だった」からだ。しかし、それは同盟国も欺くカモフラージュで、「偽情報による撹乱作戦」だった。

 「ソ連を攻撃するが、6週間ぐらいで終わるから日本の援助は必要としない」

作戦開始直前の6月4日、ヒトラーがようやく大島浩大使に打ち明けた。小野寺の情報は正しかった。しかし、イタリアがユーゴスラビアを攻め、ドイツが支援せざるを得なかったことが誤算となって、作戦開始が2か月遅れた。奇襲こそ成功したが、退却しながら降伏しない赤軍の強さは想定外だった。

スターリンが11月7日の革命記念日に、徹底抗戦を呼びかけると、モスクワ近郊でソ連軍の反撃が始まり、補給が途絶えたドイツ軍の進撃が止まった。小野寺は、新聞や雑誌などから情報を得る「オシント」を活用、さらにリビコフスキの情報を合わせて冬の戦いに弱いドイツが苦戦している実情をつかみ、参謀本部に「絶対に日米開戦不可なり」と電報を30通打ち続けた。「ドイツ劣勢であり、ドイツの勝利を期待して米英相手に戦争を始めるのは絶望的」だったからだ。

ところが参謀本部は、「ドイツのソ連制覇は確実」と一顧だにせず、電報は黙殺された。日本軍は南部仏印に進駐。ドイツに呼応した動きと捉えた米国が対日本の石油全面輸出禁止の制裁を取ったため、日米対立が決定的となった。日本は情報を軽視して、世界情勢を見渡す客観的視野を欠いていた。そして太平洋戦争の悲劇に突き進んだ。

バナー写真:ストックホルムの街並み(2017年1月、筆者撮影)

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