「バルトの真珠」で学んだインテリジェンスの極意:連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信(2)
政治・外交 国際 歴史 社会 暮らし- English
- 日本語
- 简体字
- 繁體字
- Français
- Español
- العربية
- Русский
ドイツ語とロシア語で「世界標準」の語学力
岩手県胆沢郡前沢町(現・奥州市)で生まれた小野寺は、1912(大正元)年、13歳で仙台陸軍幼年学校に入学する際、ドイツ語を選択し学んだ。「ドイツ語は幼年学校でも士官学校でも優等生であったので、ゆくゆくは陸大を卒業してからドイツへ行って勉強したいと心に期していたし、また自信もあった」(「小野寺信回想録」)からだ。
ドイツ語を得意としていたが、ロシア語にも取り組むようになった。転機はシベリア出兵だ。1921(大正10)年、ロシア極東ニコライエスクに派遣されると、旅団司令部のロシア人タイピスト姉妹、タチアーナ、クラ―ラから活きたロシア語を学んだ。語学の才もあったのだろう。わずか1年で新聞が読め、文章が書けるように上達した。
日露戦争から、脅威となったのはロシアで、ボルシェビキ革命で誕生したソ連も膨張政策を継続し、最大の仮想敵国となった。陸軍ではロシア研究の俊英の育成が焦眉の急だった。小野寺は1925年に陸軍大学校に進む際、ドイツ語で受験。見事合格すると、ロシア語を第1語学として専攻し、頭角を現した。
陸大卒業後は、陸大教官に任用され、1933(昭和8)年5月、36歳で、北満(現在の中国東北部)ハルビンに「短期留学」した。白系ロシア人家庭に1年間ホームステイして、ロシア語を磨き上げたのだ。陸軍有数のロシア専門家となった背景には、上司の小畑敏四郎大佐(当時)の引きがあった。小畑大佐は、当時、陸軍内で抗争した「皇道派」と「統制派」の派閥のうち「皇道派」の旗頭だった。
陸大在籍中の1927年、一戸(いちのへ)百合子と結婚した。百合子夫人は日露戦争の旅順攻略で勇名をはせ、退役後は学習院院長、明治神宮宮司などを務めた一戸兵衛の孫。また父の寛は黒羽藩藩主、大関増徳(増式)の六男で、陸軍皇族付武官少佐を務め、皇室との関係が深かった。この皇室に近い家柄は、小野寺が後にスウェーデン王室を通じた終戦打診工作に生きてくることになる。
ソ連ウォッチャー揺籃の地に
駐在武官として辞令を受けたのがラトビア公使館だった。二・二六事件が起きる1カ月前の1936年1月、バルト海のほとりのリガまでシベリア鉄道で赴いた。「バルト海の真珠」とたたえられる港町リガは、古代から交通の要衝にあたり、ハンザ同盟の時代から欧米のソ連専門家が育つ揺籃の地だった。ソ連と国境を接し、バルト海東岸に南北に並ぶバルト三国は地政学上、ソ連はじめ欧州各国の趨勢をうかがうには絶好だったからだ。
ロシア革命(1917年)の後、世界最初に誕生した社会主義国のソ連を西側諸国はなかなか承認しなかった(アメリカが承認したのは33年)。中国ウォッチャーが香港に集まったように、ラトビアが第一次世界大戦後の1918年に独立して40年に再びソ連に併合されるまで、首都リガは欧米の外交官や情報士官の対ソ最前線拠点となった。「ソ連封じ込め」政策を提言した米国の外交官、ジョージ・ケナンや、『歴史とは何か』の著者で英国の歴史家、E・H・カーもいた。
駐在していたのは、アメリカ、ポーランド、チェコスロバキア、スウェーデン、エストニア、リトアニア、イギリスとソ連の武官だった。日露戦争で大国ロシアを破った日本は武官団の間でも一目置かれ、スターリニズムの「真実」を探ろうと、ラトビアはじめ各国武官と密接な関係を築いた。欧米の白人は、宗教や文化が近く、片言で通じ合えるが、アジアの黄色人種である日本人が白人の輪に入ることは容易でない。しかし、ロシア語とドイツ語が堪能な小野寺は、臆することなく、家族ぐるみで肝胆相照らした。
百合子夫人は自著『バルト海のほとりにて』で語っている。「一番好意をよせてくれたのがポーランド武官ブルジェスクウィンスキー夫妻で、(中略)夫妻の好意が数年後に、信じ難いほどの厚い信義にまで発展しようとは、当時は思いもよらないことであった」
この後、ストックホルム駐在武官に転進したフェリックス・ブルジェスクウィンスキー武官は、再会した小野寺との友情を大戦終了後まで続けた。気脈を通じたのは、プライベートでも交流を重ねたからだ。3歳でリガに渡った二女の節子さんは、子供の誕生日パーティーでブルジェスクウィンスキーの同じ年の長男から、「人生で初めてプロポーズされた」ことを覚えている。子供が近しくなると親の距離も縮まった。
日独でエストニア工作員をソ連に潜入させる
親友となった武官がもう1人いた。エストニアの武官、ウィルヘルム・サルセンだ。エストニアの情報が質量ともに優れていたため、南のリトアニアと北のエストニアとバルト三国全体を兼任する希望を参謀本部に上申すると、1936年12月許可された。エストニアからの情報でスターリンの大粛正に伴ってソ連軍が弱体化している事情が次々に判明した。
情報収集には経費がかかる。提供の見返りにエストニアに諜報費として年額5000ドル(当時の為替は1ドル=4円で2万円。現在の貨幣価値は1500倍として3000万円程度)支払った。さらに「可能性があるならば広げてくれ」と要請すると、エストニアは極東までエージェントを配置した。その責任者がエストニア陸軍参謀本部第二部長(情報部長)のリカルト・マーシングだった。後に同参謀次長となるマーシングは1940年、ソ連に併合されると亡命したスウェーデンでドイツ軍情報部に入るが、再会した小野寺の右腕として支えた。
特筆すべき業績はエストニアとドイツと共同で行なった日独エ「対ソ」潜入工作だ。日本陸軍は、ベルリンに馬奈木敬信大佐(当時)を長とする参謀本部直轄の謀略組織、「馬奈木機関」を設けた。「小野寺信回想録」によると、ドイツのアプヴェーア(独軍情報機関)と共同で対ソ工作員や諜者を養成し、ソ連に潜入させて、情報収集や暴動を起こし、扇動する計画を立て実行していた。情報が漏洩して未遂に終わったが、スターリン暗殺計画も進めていた。
小野寺とマーシングは、エストニア情報部の工作員を「馬奈木機関」で養成。日本が1938年、ソ連と往復するため、国境にあるペイウス湖の高速船の購入資金1万6千マルクをエストニア軍に提供して高速船を購入し、ソ連に潜入させた。工作員の1人はソ連参謀本部に潜入し、39年まで情報を提供するなど、エストニア人の潜入は極東のハバロフスクや満州まで広がり、ロシア内(レニングラード、モスクワ、ボルガ、東シベリア)にスパイネットワークが出来たという。
リガでの友情、ストックホルムで結実
「馬奈木機関」とエストニア情報部は、①ウクライナで革命家に反体制運動を起こさせる②グルジア(現ジョージア)などコーカサス地方で民族独立運動を支援して体制転覆工作――を試みた。「馬奈木機関」ではソ連から欧州各地に亡命したウクライナ人やグルジア人を工作員として養成、ペイウス湖から工作員を潜入させた。小野寺もテロ用爆弾をベルリンからエストニアまで鉄道で運んでいる。
ただし、大量の工作員をソ連に潜入させることに成功したが、戦後、小野寺は家族に「成果があったかどうかはわからない」と述べているように、ソ連の防諜に阻まれ、テロや暴動など攪乱する結果は残せていないようだ。しかし、多民族国家ソ連の弱い脇腹に、3国合同で工作を仕掛けたことは注目していいだろう。
1938(昭和13)年3月、参謀本部員兼大本営参謀の辞令が出た。リガでの2年間、ポーランドやバルト三国の情報士官たちと緊密な信頼関係を結んだことは小野寺の自信と財産になった。リガで学んだインテリジェンスの極意は諜報活動の基盤となり、後にストックホルムで結実する。リガで友情を育んだマーシングらは、再会した小野寺を「諜報の神様」と慕い、次々に機密情報をもたらしたのだった。
バナー写真:リガ駐在武官団(前列右端が小野寺信、右から2人目がエストニアのサルセン武官、後列右から3人目がポーランドのブルジェスクウィンスキー武官)(小野寺家提供)