杉原千畝の実像に迫る

ナチスの占領下プラハでも「命のビザ」発給-杉原千畝の実像に迫る(4)

歴史

リトアニアの暫定首都カウナスを去った杉原千畝は、次の任地チェコのプラハでもナチス・ドイツの占領下にありながら、ユダヤ難民のために「命のビザ」を大量に発行したのだった。続いて赴任した東プロイセンでは、最前線を踏査して「ドイツのソ連侵攻近し」の証拠を集め本国に打電し、優れたインテリジェンス・オフィサーの片鱗をうかがわせている。

「杉原が本国召還に」の風説

ソ連に併合されたリトアニアのカウナスを離れた杉原千畝は、1940年(昭和15年)9月、家族を伴って国際列車でドイツの首都ベルリンに向かった。さしもの杉原も、リトアニアでのビザの大量発給を気にしていた。「ユダヤ人にビザを発給した領事が外務省の逆鱗に触れて本国に召還されるらしい」という風説が外務省内にも流れていたからだ。その危険は当の杉原が誰よりわかっていた。

だが、来栖三郎駐独大使はベルリンでこの件に触れようとしなかった。当時、ベルリンの日本大使館もインテリジェンス・オフィサーとしての杉原の価値を知っていたからだろう。

「対ソ連情報専門家の精鋭に成長した杉原は、日本の針路を定めるために必要不可欠な羅針盤になっていたからだと思います」。杉原研究で知られる外務省外交史料館の白石仁章氏はこう指摘する。

杉原は直ちに次の勤務地、チェコのプラハにある日本総領事館に入った。当時のプラハはドイツ軍に占領され、ナチス・ドイツの完全な支配下に置かれていた。着任から半月後、ついに日独伊三国同盟が締結された。ドイツの同盟国となった日本の外交官として杉原は、これまでより一層慎重な行動が求められた。にもかかわらず、ナチスの膝元でも杉原はなおユダヤ難民へのビザ発給をやめようとしなかった。

「新たに着任した日本の総領事(注;実際は総領事代理)がユダヤ難民を含め、行き場のない人々に日本の通過ビザを発給しているので、日本総領事館には何日か待たねばならぬほどの長蛇の列ができていた」

だが、プラハでのビザ発給は、カウナスとはいささか趣を異にしていた。カウナスでは、ポーランド系の難民が多く滞留する情勢下で、リトアニアがソ連に併合される異常事態が起ったため、杉原が赴任した日本領事館に難民が次々に殺到して、短期間に大量のビザを発給せざるをえなかった。

だが、プラハではチェコスロバキアの解体から1年半が経っていため、ナチス・ドイツの恐怖政治は街の隅々に浸透していた。このため、資力のある人たちはすでに国外へ脱出していた。杉原を頼ってきたユダヤ難民は、国外に脱出したくても金のない人たちだった。一方で杉原も外務本省から再三にわたってビザ発給の条件を厳守するよう訓令を受けていた。このため、条件を満たせないユダヤ難民へのビザの発給は記録に残さず、密かに独断でビザを出していたのではないかと思われる。

「杉原ビザ」で日本上陸した難民たち

杉原のプラハ在任は半年間と短く、公式の発給記録では72人、このうちユダヤ人は66人とあまりにも少ない。こうした事情が重なって長い間、「プラハの決断」は表に出なかったのではと白石仁章氏はいう。「実際の発給の数字は桁が一つくらい違うと思う」

プラハに居残ったユダヤ人の多くはその後、市の郊外に造られた強制収容所に入れられ、多くの人々がポーランドのアウシュビッツに送られ、ガス室に消えていったという。

杉原がプラハに移ったころから、日本では「杉原ビザ」によって続々と来日した難民たちの存在が問題となっていった。ビザ発給の必要条件とされた行先国の受け入れ許可がなく、十分な旅費の持ち合わせもない人々が、福井県敦賀港に上陸したからである。この後、ユダヤ難民は救援組織を頼って神戸などで仮住まいを余儀なくされた。トランク一つ持っていない人、底が抜けた靴を履いている人――。皆があまりにも悲惨な身なりで、恐怖感を覚える日本人も少なくなかったという。

事態を重く見た外務省から、プラハの杉原にカウナスでのビザ発給数を問い合わせる電報が届く。そこで杉原が作ったのが2140人分のビザリストだ。約1か月の発給数を日付ごとに見ると、後半の1日当たりの発給数が激減していることがわかる。初めは正確な査証申請者の情報を記録していたが、途中から簡単なメモに切り替え、それでも後半は追いつかなくなり、ビザは発給しても記録を残さなかったためらしい。実際はもっと多くの「命のビザ」を出していたのだ。

(左)杉原がプラハ勤務の時に作った、カウナスで発給したビザのリスト、2140人分=外務省提供、(右)杉原のプラハでの発給ビザのリスト、36人分=外務省提供。カウナスと比べると極端に少ないが、ビザ発給条件を満たさない多くの人を載せなかったためと推測される
(左)杉原がプラハ勤務の時に作った、カウナスで発給したビザのリスト、2140人分=外務省提供、(右)杉原のプラハでの発給ビザのリスト、36人分=外務省提供。カウナスと比べると極端に少ないが、ビザ発給条件を満たさない多くの人を載せなかったためと推測される

ナチスの外務大臣に迫った杉原

杉原のナチスに対する反感が筋金入りだったことがうかがえる「プラハでの出来事」があった。杉原を含め、プラハ駐在の各国外交官が一堂に集められた時のことだ。ヒトラーの信任が厚いリッベントロップ外務大臣が、「諸君がチェコに留まっているのは不都合である。直ちに退去してもらいたい」と高圧的な態度で命じたという。各国外交官が沈黙する中、ひとり杉原千畝が立ち上がり、「ヒトラーの使い」に向かって「ドイツに退去してくれと言われる覚えはない。その理由を説明願いたい」と迫り一歩も引かなかった。

41年3月、杉原はドイツの東プロイセンの中心都市だったケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)に入り、日本総領事館を開設した。旧リトアニアに隣接するこの地は、バルト三国を併合したソ連国境に近く、独ソ両国の情報収集に恰好な観測場所であった。

ドイツは同盟国にもかかわらず、日本の総領事館の開設をなかなか許可しようとしなかった。ヒトラーが、不可侵条約を破ってソ連を攻撃する「バルバロッサ作戦」を日本側には知らせるなと厳命していたからだ。ナチス・ドイツに傾倒していた日本は、ヒトラーの腹のうちが読めないまま、41年春に日ソ中立条約を締結している。

独ソ開戦の情報をいち早く日本へ打電

この地でインテリジェンス・オフィサー杉原千畝の新たな戦いが始まる。41年5月、杉原はカウナス時代から接触を続けている亡命ポーランド政権の情報将校らと国境地帯を踏査した。ドイツの車に再三、尾行される危険な調査旅行だった。ついに森の中で、戦車やガソリン貯蔵車が隠され、軍の見張り台があることなどを突き止めた。それが意味するものを、杉原は素早く分析した。

杉原は5月9日、極秘暗号電報を東京に送る。「連日、軍用列車約10両がベルリンからケーニヒスベルク方面に向かっており、ケーニヒスベルクには大軍が集結している。ドイツ軍将校たちは、地図が読める程度のロシア語を学ぶことを命じられている。6月には独ソ関係は何らかの決着を見るであろう」。杉原の卓越した情報収集能力が示す通り、6月22日、ドイツはソ連に侵攻を開始した。

ドイツのソ連侵攻準備の状況を伝えるため、杉原が1941年5月9日、独ケーニヒスベルクから外務省に送った電文=外務省提供
ドイツのソ連侵攻準備の状況を伝えるため、杉原が1941年5月9日、独ケーニヒスベルクから外務省に送った電文=外務省提供

杉原の電文が独ソ開戦情報として一番早く届き、開戦時期も正確であり、大きな成果だったことは関連の史料からも明らかだ。しかし、当時の日本政府は杉原情報を重視しようとせず、1か月余の期間があったにもかかわらず何の策も立てなかった。独ソ開戦にあわてた松岡洋右外相が、中立条約を結んだばかりのソ連と開戦すべきと主張するなど、日本外交は完全に平常心を失って漂流するばかりだった。

「極秘のインテリジェンス」がいかに正確でも、国家の舵取りを委ねられた指導者に活用されなければ意味はない。危険を冒してつかんだ機密情報が本国に無視され、握りつぶされた杉原は、果たしてどんな思いで独ソ開戦の一報を聞いたのだろうか。

バナー写真:杉原が勤務したプラハ(PIXTA)と、36歳の杉原千畝(サイン入り写真)=外務省提供

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