究極の親日国・ミャンマーの不確かな明日

ミャンマー特集(6) 丸山市郎・駐ミャンマー大使に聞く

政治・外交

丸山市郎・駐ミャンマー大使は外務省きってのミャンマー通で、外交官人生を通してミャンマーと関わってきた。その目には、この国の未来はどう映っているだろうか。

丸山 市郎 MARUYAMA Ichiro

1978年外務省入省。ノンキャリアと呼ばれる外務省特別専門官として2018年、異例の大使抜擢となった。ミャンマー勤務は語学研修時を含めて5度目になる。アウンサン・スー・チー国家顧問兼外相とは携帯電話で連絡を取り合える関係と言われる。

「決定的な文化の違い」がない日本とミャンマー

野嶋 丸山さんは駐ミャンマー大使で初めて、ミャンマー語を専門に学んだ外交官として着任されました。外務省入省後、希望してミャンマー語(当時はビルマ語)を選んだのですか?

丸山 当時、外務省試験では第6候補まで希望言語を書きます。入省前、人事課長に「君はミャンマー語だ」と言われました。「希望していません」と反論すると、「6番目に書いている」と。実は、書いたかどうか覚えていないんです。でも、人事課長から「嫌だったら採用しないよ」と言われて、もう後の祭りです(笑)。

野嶋 ですが、結果として、丸山さんの外交官人生は深くミャンマーに関わりましたね。

丸山 最初のうちは嫌で仕方がありませんでした。当時はネ・ウィン政権の社会主義経済下で何もない時代。語学研修で初訪問のとき「タマダホテル」というヤンゴンのホテルに最初泊まったのですが、裸電球がぶら下がっていて、クーラーも音だけで一向に涼しくならない。大変なところに来てしまった、絶対すぐに日本に帰ろうと、持ってきたウイスキーをやけ酒であおったのを覚えています。ですが、次第に学んだミャンマー語を使って地元の人々と触れ合い、仕事をしているうちに、どんどんこの国に惹かれていきました。

インタビューに応じる丸山市郎大使=ヤンゴンの日本大使館(野嶋写す)
インタビューに応じる丸山市郎大使=ヤンゴンの日本大使館(野嶋写す)

ミャンマー略史(第2次世界大戦後)

1948年 英国との交渉を経てビルマ連邦として独立
1962年 ネ・ウィン将軍による軍事クーデター。ビルマ式社会主義を掲げる
1988年 軍部が再度のクーデターで政権掌握
1989年 国名をミャンマー連邦に、首都名をラングーンからヤンゴンにそれぞれ変更
国民民主連盟(NLD)のアウン・サン・スー・チー書記長らが自宅軟禁に。(この後2010年までの間に3回、計15年)
1990年 約30年ぶりに複数政党参加の総選挙が行われ、NLDが圧勝。軍政は政権移譲を拒否
1997年 ASEAN加盟
2006年 ネピドーに首都機能を移転
2008年 国民投票で新憲法を承認
2010年 20年ぶりに総選挙実施。NLDはボイコット
2011年 テイン・セイン大統領率いる政権が発足し、民政移管が実現
2015年 総選挙でNLDが圧勝
2016年 NLD主導の新政権が発足

(nippon.com編集部作成)

野嶋 日本にはミャンマーファンを称して「ビルキチ」という言葉がありますね。総じて日本人はミャンマーをとても好きになり、ミャンマー人も日本を好きなようです。どうしてお互い惹かれ合うのでしょうか。

丸山 不思議なことですが、「日本人の常識がミャンマー人の常識」のような部分があると思います。私の感覚ですが、決定的な文化の違いやカルチャーショックが両者の間にはほとんど存在しません。日本語とミャンマー語も発音こそ違いますが、文法の構造は同じで、言語の類似性も強い。

野嶋 ジョークが通じやすいとか、はっきりノーと言わないなど、いろいろ文化的な共通点があるらしいですね。ただ、第二次大戦中に日本軍は英領ビルマで英軍と戦い、この土地を戦場にしました。そうした歴史に絡んだ負の感情はミャンマー人にはないのでしょうか。

丸山 日本人はミャンマー人と戦争を戦ったわけではありません。ただ、この国を戦場にし、迷惑をかけたのも事実です。一方、インパール作戦の逃亡日本兵をミャンマー人が助けてくれた例は数限りなくあります。戦後の食糧難の時は、ミャンマーは優先的にビルマ米を日本に輸出してくれました。私の父親も、来たことはなくても、ビルマ米の名前は覚えていました。

日本も、社会主義国時代や軍政時代にも、トップドナーとしてODA(政府開発援助)をこの国に出し続けてきました。そのおかげで、ミャンマー政府は日本に大きなシンパシーを持ってくれており、各国の外交団からもうらやましがられる時があります。

ミャンマー重視を鮮明にする安倍政権

野嶋 ODAの話になりましたが、ODA全体が削減されるなか、日本のミャンマーへの重点配分はかなり際立っていますね。

丸山 いまのODAは単年度ですと円借款が1200億円から1300億円、無償援助で150-200億円。確かにこれは相当な金額です。いろいろな理由はありますが、一番はミャンマーが徹底的な親日国であり、ASEANのメンバーでもあり、中国やインドとも国境を接する重要な国だからです。

経済的な権益面でも、手付かずの5200万人の人口を抱える未来のマーケットがあり、日本の企業にも重要な市場です。日本政府がODAを出してしっかり基礎インフラづくりを支援していく意味は大きいと考えています。

野嶋 ミャンマーの専門家である丸山さんの任命自体が一つの象徴かと思いますが、現在の安倍政権のミャンマー重視ははっきりしていますね。

丸山 実は安倍首相のお父さん、安倍晋太郎さんが外相だったとき、1983年にミャンマーを単独訪問し、安倍首相も秘書官で同行されました。そのとき大使館で通訳にあたった経験があります。

ミャンマー外相が安倍外相を歓迎する夕食会を開いた時、日本の軍歌を日本語で大臣たちが歌いました。1970-80年代は東南アジアで反日運動が起きて日本企業が叩かれた時期です。安倍外相が感動し、外相会談で相手の外相に「日本はなんでも支援する」と。そばにいた外務省の幹部が目を丸くして私へ「訳すな」と書いたメモ用紙を渡しました(笑)。

この時、安倍外相一行はミャンマー単独訪問です。帰国後は一行のメンバーが相次いで高熱を出して寝込んでしまいました。しかし安倍外相からは「休むな、これでみんな病院にいくとミャンマーのせいになってしまう」と指示がありました。安倍外相自身も体調を崩していましたが、経由地で飲んだジュースが原因だということにしようとなりました。

最近になって、昭恵夫人にお会いする機会がある時にこの件をお尋ねしたのですが、「それは安倍家では伝説的に語られている本当の話です」とおっしゃっていました。こうした経緯もあり、安倍首相にもミャンマーを大切にしたい気持ちがあるのではないかと推察しています。

ロヒンギャ問題での過度な圧力は逆効果も

野嶋 ロヒンギャ問題などで欧米各国が引き気味になる中、日本はミャンマーで独走しているのかという批判はありませんか。

丸山 この国は1988年から2012年まで軍事政権でした。その間は、民主化、人権の改善をミャンマーの国民が希望し、国際社会の願いも一致していた。しかし、ロヒンギャ問題では、国民のほとんどが国際社会の批判に反発しています。圧力をかけるほど、ミャンマー政府は国際社会に背を向けて、ますます解決が遠のきます。制裁は逆効果の面があるのです。

2015年に初めて公正で自由な総選挙を行い、一滴の血も流さずに政権がNLD(国民民主連盟)に渡りました。その事実だけでも歴史的な偉業です。ミャンマーがさらに前に進めるように支えることが大事で、やっと始まった国づくりのプロセスを壊すことはできない。

過度な圧力で内政が不安定化した場合、日本企業は投資にちゅうちょし、ODAを出すのも難しくなるかもしれない。それはこの国の将来にはプラスではない。日本はミャンマーに寄り添っていくべきです。

重要な日米の連携

野嶋 しかし、日本単独では限界もあるのではないでしょうか。

丸山 日本は米国と十分、ミャンマー問題を含めて、東南アジアで組んでいけると思います。米国も議会、人権団体にいろいろな声があり、厳しい立場を取らざるを得ない場合もありますが、政策としてNLD政権を支援し、ミャンマーの国づくりを助けていく方針には一切変更がないと思います。ですから、ミャンマー政策ではいかに米国と組むのかが重要になってきます。

野嶋 ロヒンギャ問題が起きたラカイン州は、すでに人権問題という良識を超えて、アラカン民族主義を掲げた過激派組織が台頭し、治安維持が困難になりそうな事態です。

丸山 ミャンマー政府がバングラディシュに逃げた人々の帰還を受け入れるための準備を、外からも見える形で加速化させることが重要です。ラカイン州に対する国連のアクセスをより認めさせていくべきだとミャンマー政府に働きかけています。日本政府はスー・チー氏、国軍司令官、国連機関とも関係が良好で、できるだけ仲介の役割を果たしていきたい。

野嶋 ミャンマーでこれぐらいフリーハンドで動ける国はないのではないでしょうか。

丸山 ないと思いますね。スー・チー氏も日本からの協力に期待していると思います。

不透明な「スー・チー後」の姿

野嶋 丸山さんはスー・チー政権のこの3年の統治をどう評価しますか。

丸山 パフォーマンスについては、政権樹立当初の経済政策でもたもた感があったのは事実です。去年5、6月以降、閣僚の組み替えを行い、投資委員会のトップを代えて分かりやすくなったので、これから良くなっていくのかなと。少数民族和平やラカイン州(ロヒンギャ)問題などの政治面は、うまく進められていない感じです。われわれも見ていて心配なところがありますね。

2020年(の次回選挙)でも、議会は25%が軍人議員と決まっているので、NLDは得票率67%を獲得しないとNLDでの単独過半数は取れない。現在の人気では、そのハードルは高いかもしれません。ただ、相対多数を維持することは間違いないと思います。その場合、少数民族勢力などとの連立の組み方が問題になりますね。

野嶋 それにしても、ポスト・スー・チーになれる人材がまったく浮かんできませんね。

丸山 スー・チー氏はいま73歳。20年の選挙に勝利したとして、次期の5年間で経済、国内和平、ラカイン問題といった主要な課題に道筋をつけられるのかどうかが重要だと思います。

バナー写真:ミャンマーのネピドーでウィン・ミン大統領に信任状を奉呈し、握手する丸山市郎大使=2018年5月3日(AP/アフロ)

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