ミャンマー特集(5) スー・チー氏は大丈夫か?
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「戦う孔雀」「現代のジャンヌダルク」
日本人ほどアウン・サン・スー・チー国家顧問を好きな国民はいないと言われている。確かに過去、日本社会はスー・チー氏を英雄のように取り上げた。しかし、それは必ずしも日本だけではなく、欧米社会も同様だったはずだ。「闘う孔雀」「現代のジャンヌダルク」「ザ・レディ」。そんな彼女を称する言葉を数え上げたらきりがない。ところが、ロヒンギャ問題への対応で欧米各国からそっぽを向かれ、過去に授与された名誉市民などの称号を次々に剥奪されている。
2015年、ミャンマーの総選挙で、上下院の選挙による選出部分でおよそ8割、軍人議員への割り当て(25%)を除けばおよそ6割の議席を獲得して圧勝したのが、スー・チー氏率いる国民民主連盟(NLD)だった。憲法では、外国人の配偶者がいる人物は大統領になれない。そこで国家顧問に就任した。当時スー・チー氏が語った「大統領より上の存在になる」という言葉が問題視されるが、そのような憲法規定がある方がおかしいのだから批判はあたらない。
もっと本質的な問題は、新生ミャンマーのかじ取りにふさわしい能力をスー・チー氏が備えているかどうかだ。
今年2月、ミャンマーの首都ヤンゴン市内の公園で、「アウン・サン将軍の銅像はいらない。われわれの英雄の銅像が欲しい」というアピールが響きわたった。抗議集会を開いたのはミャンマー東部カヤ州の州都ロイコーに将軍の銅像を設置することに反対するカヤ州の人々だった。同州には複数の少数民族が暮らしているが、地元で銅像建設計画への抗議行動を起こしたところ、警察に放水車で鎮圧されたのだという。
国家顧問を務め、事実上の最高指導者であるスー・チー氏の権威の大きな部分は、建国の父であるアウン・サン将軍の娘という血統から来ている。ただ、連邦制を実現する約束を守らなかった中央政府を象徴する人物という面もあり、少数民族の間での評価は複雑だ。少数民族との和平が重要なタイミングを迎える中、各地での銅像設置にゴーサインを出したスー・チー氏の政治的センスを疑問視する声が上がっている。
少数民族問題で重要機関を解体
少数民族問題でのぎくしゃくぶりは今に始まったわけではない。スー・チー体制になって、少数民族和平問題で、停戦交渉がスローダウンしている。非難が出ているのがMPC(ミャンマー平和センター)の解体だ。MPCは2011年の民政移管後、軍政出身のテイン・セイン大統領の肝いりで発足した組織で、少数民族和平交渉の裏方を一手に担った。トップには政権幹部のアウン・ミン氏を送り込み、海外留学を経験したエリートを高給で雇い入れてタイなど外国在住者も多い武装勢のトップとのコミュニケーションを図り、前回に書いたような停戦合意に次々とこぎつけていった。
スー・チー体制下でMPCは解体され、貴重な経験と少数民族への人脈を持つ数百人の職員も全員が解雇となった。しかし、スー・チー氏の元医師という人をトップに据えた新組織「国家和解平和センター(NRPC)」は調整機能をほとんど発揮できず、日本を含む各国外交当局者の間でも、MPCの解体に失望の声が上がっている。
さらに周囲を戸惑わせているのが、メディア対応だ。スー・チー氏があまりメディアの取材に積極的でないことは、関係者の間で広く知られている。それは「メディアは自分を公平に描いてくれない」という不満があるからだと、日本の外交関係者でスー・チー氏をよく知る人物は語る。
これは、かつてメディアの脚光を浴び、英雄扱いされた政治家や有名人にしばしばありがちな態度である。少なくとも軟禁時代は、メディアが彼女にとって唯一の理解者であり、支えでもあった。そのメディアが牙をむいているのだから、本人にしてみれば納得できないのだろう。
スー・チー氏が2018年に訪日した際、こんな一幕があった。日本メディアで唯一、NHKが単独インタビューした時のことだ。
「あのインタビュアーは、どうしてあんなにロヒンギャのことばかり聞いてくるの。なんとかならなかったの」。スー・チー氏は、日本政府高官に激しい剣幕で詰め寄ったという。かつて英国で生活していた彼女なら、公共放送の報道方針に政権当局は介入できず、英国放送協会(BBC)がフォークランド紛争の際にサッチャー首相に批判されながら戦争に対する客観報道を貫徹しようしたエピソードぐらい知っているはずなのだが…。
メディアへの反感の根底にあるもの
メディアへの過剰な反応は、本人からすれば「裏切られた」と感じる時に、倍返しの不満になって現れるのかもしれない。政権にとって都合の悪い記事を書いた記者に対して、与党・NLDを含めた政治家による告訴や逮捕が相次ぐ。軍政時代よりも悪くなったと語る人もいるほどだ。
特に話題になったのが、治安部隊の掃討作戦中に起きたロヒンギャ虐殺疑惑を取材していたロイター通信のミャンマー人記者を国家機密を入手したとして逮捕し、懲役7年の有罪判決を下したことだ。ロイター通信のロヒンギャ虐殺を巡る報道はピュリツァー賞を受賞している。判決確定後、大統領による恩赦が行われたが、それでも欧米での評判はがた落ちとなった。
自らを政権の座に押し上げた民主や報道の自由の価値を、スー・チー氏は分かっていないのではないか――。こうした疑念が広がってもおかしくない事態が起きているのは確かだ。
もともとスー・チー氏の政治センスに対する疑問の声はあった。それを厳しく唱えてきたのは、かつてミャンマー駐在の日本大使として幽閉時代の彼女と対話を重ねてきた山口洋一氏だ。
1995年から98年まで大使を務め、離任時には「ミャンマーは大好きになっていたが、これであの嫌な人に会わずに済むという、ほっとした思いもあった。他人の言うことに一切耳を傾けないところがあった」と振り返る。
日本外交のスタンスは、今も昔も軍と民主化勢力の双方とパイプを持つこと。ヤンゴンの軟禁先であるスーチー氏の自宅に定期的に足を運んだが、浴びせられるのは日本への厳しい言葉ばかりだった。
98年に日本政府がヤンゴン空港への円借款を一部再開した時は「人道上の理由です」と山口氏が説明すると、「軍政に援助するなんて、私たちを殺す気ですか」と取り付くしまがなかったという。
ミャンマーの東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟について、日本政府が賛成の意を示したことを説明すると、スーチー氏は烈火のごとく怒り出し、「日本はなんということをしたのか。橋本首相(当時)の決定を、私は公開の場で批判しますよ」と述べた。山口氏は「政権についた後は軍との対話も行うなどまるくなったと言われていますが、当時はとにかく頑固一徹でした」という。
日本嫌いではない
日本嫌いという噂も耳にしたが、山口氏は「それはありません。京都に留学したこともあり、日本には一目置いています」と話す。
オックスフォード大学で日本語を学び、日本の小説をそのまま読めるほど上達した。また、京都大学東南アジア研究センターに2年間滞在し、父アウンサン将軍と日本軍の関係について研究している。むしろ日本への親しみが、逆に日本へ不満を募らせる理由になったのかもしれない。
スーチー氏はカリスマだ。頑固だからこそ、鉄の軍政の支配に風穴を開け、民主化への道筋を開くことができた。非暴力をその根本思想に掲げ、15年間にわたって不当な自宅軟禁を強いてきた軍への報復的な行動もない。その寛容さは、指導者の資質として十分なものだろう。
そのなかで勝ち取った信頼は、彼女の政治的貯金である。その貯金によってNLDは2015年の選挙で圧勝した。だが、ここ3年の停滞で貯金はゆっくりと減りつつあると言えるだろう。
ミャンマーでは20年に総選挙を控えている。NLDとスー・チー氏に対する厳しい見方は強まっており、15年のような圧勝は難しいだろう。過半数は確保するかもしれないが、次の5年間に何ができるかについては、楽観はできそうにない。スー・チー氏のもとには、次を託せるような後継者はまだ見当たらないと言われている。NLDは高齢化も深刻で、1980年代から民主化運動を引っ張ってきたリーダーたちは、政治家としては年齢的に峠を越えている人々が多いが、若手の起用には積極的ではないとされる。
そう考えると、ミャンマー最大のリスクはスー・チー氏自身かもしれない。そこには、本人の政治家としての実力発揮が期待を下回っていることに加えて、ポスト・スー・チーの不在が民主化のセットバック(後退)を招きかねないリスクも含まれていることを、スー・チー氏自身もNLDも肝に銘じるべきだろう。
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