次代の皇位継承者に帝王学の書を教えられた天皇陛下:62歳誕生日会見の真意を拝察
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何度もあった皇位を巡る危機
今回の記者会見は、秋篠宮家の長女小室眞子さんの結婚騒動を含めて、記者会からの質問が多岐にわたり、約50分間に及んだ。国会に論戦が移った皇位継承問題に関して、陛下がどのように語られるかも焦点だった。
記者会からの質問は、「政府の有識者会議が報告書をまとめ、皇族数の確保策として女性皇族が結婚後も皇室に残る案と、旧皇族の男系男子を養子に迎える案の2つを示した。皇室の歴史を振り返ると、皇位を巡る危機が幾度もあり、その度に乗り越えてきた。歴代天皇について深く学んできた陛下は、今日まで皇位が連綿として継承されてきた長い歴史をどう受け止められていますか」
陛下はこう答えられた。
「古代の壬申の乱(天智天皇の死後、天皇の皇子と、天皇の弟との間の内乱)や、中世の南北朝の内乱など、皇位継承の行方が課題となったさまざまな出来事がありました。そのような中で思い出されるのは、『天皇は、伝統的に、国民と苦楽を共にするという精神的な立場に立っておられた』という上皇陛下のお言葉です。歴代天皇のお考えに通じるものと思います」
「洪水など天候不順による飢饉(ききん)や、疫病の流行で苦しむ人々の姿に心を痛められた天皇自らの般若心経の写経を拝見して、歴代の天皇は、人々と社会を案じつつ、国の平和と国民の安寧のために祈るお気持ちを、常にお持ちであったと改めて実感しました」
「また、武ではなく文である学問を大切にされてきたことも、天皇の歴史を考える時に大切なことだと思います」と述べると、陛下は1つの書を挙げた。鎌倉時代末期の学問、歌道に優れた花園(はなぞの)天皇が1330(元徳2)年、まだ10代半ばの皇太子、量仁(かずひと)親王に宛てて書き残した「誡太子書」(かいたいしのしょ)である。
「誡」は戒めるを意味し、後に光厳(こうごん)天皇となる皇太子に厳しい言葉で戒めを説いている。
徳を積み、学ぶことの大切さ
陛下は記者会見を、こう続けられた。
「誡太子書においては、(花園天皇は)まず徳を積むことの大切さを説かれ、そのためには道義や礼儀も含めた意味での学問をしなければならないと説いておられます。このような歴代の天皇の思いに、深く心を動かされました」
「(陛下は)歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、研鑽(けんさん)を積みつつ、国民を思い、国民に寄り添いながら、象徴としての務めを果たすべく、なお一層、努めてまいりたいと思っています」
陛下が誡太子書を記者会見で挙げたのは、今回が初めてではない。浩宮時代の1982年、学習院大学文学部史学科を卒業する際の記者会見で語ったのが最初で、皇太子だった50歳の誕生日会見(2010年)でも、こう述べられた。
「(誡太子書に)感銘を受けたことを思い出します。花園天皇の言われる『学問』とは、単に博学になるということだけではなくて、人間として学ぶべき道義や礼義をも含めての意味で使われた言葉です。私も50歳になって改めて学ぶことの大切さを認識しています」
陛下はなぜ今回、皇位継承問題に関連してこの書を挙げたのだろうか。その内容や時代背景をみると、意味深い点が浮かび上がってくる。
花園天皇がこの書を著したのは、朝廷が南朝(吉野)と北朝(京都)に分かれて半世紀余も対立した「南北朝の内乱」が始まる数年前だった。当時、天皇家は2つに分裂して皇位継承が争われていた。花園天皇は20歳と若くして、対立派で後の後醍醐天皇に譲位。その後、皇太子となった量仁親王の養育に当たった。花園天皇にとって量仁親王は兄、後伏見天皇の嫡男で、甥に当たり、やがて訪れるであろう動乱の時代に備えて、帝王学を授けた。
「先祖のおかげで天皇になろうとする自分が恥ずかしくないか」
宮内庁書陵部に所蔵される花園天皇直筆の誡太子書は、原文が漢文で難しいが、要約するとかなり激烈な内容となっている。
「皇太子は宮中で育ったので、民人の苦しみを知らず、知ろうともしない。国への功績も、人々への恵みもない。ただ先祖のおかげで天皇になることを期待している。そんな自分を恥ずかしく思わないか」
「愚かな人たちは言う。『我が国は皇胤(こういん)一統(万世一系)で、興亡を繰り返してきた外国とは違う。だから、為政者に徳がなくとも、心配ない。先代の残したものを守って治めていれば、それで十分である』と。私(花園上皇)は、これは大きな誤りだと思う」。そして、数年のうちに内乱が起き、国が衰えることを予言した記載もある。
厳しい帝王学を授けられた量仁親王は、討幕の計画が発覚した後醍醐天皇が廃されたのを受け、光厳天皇になる。しかし、時代が激しく動き、鎌倉幕府は滅んだ。隠岐に流されていた後醍醐天皇が復権して建武の新政を始めると、光厳天皇は都から東国に逃れることになり、在位わずか1年半ほどで廃立されてしまう。その後、光厳は北朝初代天皇となるが、南北朝の混迷した時代に巻き込まれて、寺の禅僧として亡くなった。
光厳天皇は現在では歴代天皇から除外され、南朝初代の後醍醐天皇と比べて知る人は少ない。しかし、光厳天皇の血を引く北朝6代の後小松天皇が南北朝合一で第100代天皇となり、今日の皇室につながっていくのである。
若い皇位継承者は天皇になる覚悟が必要
こうした歴史的背景を持つ誡太子書を、陛下は若い頃から皇位を継ぐ立場で読んできたが、天皇になって、帝王学を授けた花園天皇の思いを悟られたのであろう。陛下はお立場を考え、今日の皇位継承問題に関する直接の回答を控えているが、今回は誡太子書を通じて、若い皇位継承者にこんなことを伝えようとされたのではないかと筆者は拝察する。
「天皇となるものは誰であれ、しっかりした覚悟が必要である。徳を積み、学問をきちんと修めて、国民に寄り添えるようになりなさい。天皇に徳がなければ、国民の支持はなくなり、天皇制は危うくなる」と。
陛下は記者会見の最後に、記者側からの「皇位継承順位第2位の悠仁さまへの期待感」などについての質問に、こう答えられた。
「先日、悠仁親王の高等学校の進学が決まったという報告を受けましたが、是非実り多い高校生活を送ってほしいと、心から願っております」。
(2022年2月25日 記)
バナー写真:62歳の誕生日を前に、記者会見に臨まれる天皇陛下=2022年2月21日、皇居・宮殿「石橋の間」[代表撮影](ロイター)