コラム:亜州・中国(22)伊東正義・元外相の持論「外交の基軸は日米・日中」と政治家人生
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伊東 正義 ITŌ Masayoshi
1913年12月15日、福島県会津若松市生まれ。東京帝国大学法学部卒業。36年、農林省に入り、農地局長、水産庁長官を経て事務次官で退官。63年に49歳で衆院議員に初当選して政界入り。計9回当選。79年、第2次大平内閣の官房長官、80年の大平首相急死に伴い首相臨時代理。鈴木内閣の外相だった81年に日米共同声明の「同盟」の解釈をめぐって辞任。自民党では政調会長、総務会長、政治改革本部長などを歴任。超党派の日中友好議員連盟会長も務めた。94年5月20日、肺炎のため80歳で死去。
「総理のイスを蹴った男」は会津っぽ
自民党派閥の裏金疑惑など「政治とカネ」が今、大きな国内問題になっている。こうした中、30年前に鬼籍に入った伊東正義氏の名前が政治改革の象徴として改めてクローズアップされている。
伊東氏が「総理のイスを蹴った男」と呼ばれたのは35年前。1989 (平成元)年、リクルート事件で竹下登首相が退陣を表明、その後継候補として高潔で金権政治とは無縁の伊東氏に白羽の矢が立った。
都内の自宅はさびだらけのトタン屋根で、質素な暮らしをしていることが報道されたこともあって、全国から“伊東コール”が巻き起こった。しかし、本人は「本の表紙だけ変えても中身が変わらなければダメだ」との名言を吐いて最後まで拒んだ。
宮沢喜一元首相は『伊東正義先生を偲ぶ』(伊東正義先生回想録刊行会編集、95年7月10日発行)で、首相の座を固辞したことについて「伊東正義という政治家の真骨頂」であり、「歴史に残る出来事」と評し、次のように記した。
「その後、何年かたって、総理大臣が何度も変わる世の中になって、総理大臣の名前を忘れてしまったなんていう笑い話がある中で、総理大臣にならなかった人、総理大臣を断った人の名前だけは、おそらく長いこと世間は忘れないだろうと思います」
伊東氏は会津若松の出身。伊東家の先祖は会津藩の御典医と伝えられる。祖父は会津藩士で戊辰戦争に参加、父は教育者だった。本人は幼いころから会津藩の家訓「ならぬことは、ならぬものです」を心に刻んだ。
「会津っぽ」を誇りにしていた。やってはいけないことは絶対にやらない。自分が正しいと信じたことには、不退転の決意で臨む。そんな会津人らしい一徹さ、頑固さを生涯貫いた。神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園にある墓石に刻まれた戒名は「閒雲院正義一徹居士」である。
「日米同盟」言明した大平首相が盟友
伊東氏の政治家人生は、大平正芳元首相の存在なくしては語れない。
出会いは1936年。伊東氏は農林省、大平氏は大蔵省にそれぞれ入省してまもなく、両省の若手同士の野球の試合が催された。伊東氏はピッチャー、かたや大平氏はキャッチャー。試合後、ふたりは東京・銀座のおでん屋「歌川(かせん)」で盃を酌み交わした。
伊東氏は若いころから豪放磊落、酒豪で鳴らした。大平氏は寡黙で下戸に近かったが、「マサヨシ」同士が無二の親友となるのは中国大陸だった。日本政府は38年、中国や南方地域の民生安定のために内閣直属の「興亜院」を設置、各省や軍から優秀な若手が出向した。伊東氏は上海、大平氏は内陸の張家口に派遣されたが、頻繁に往来したようだ。彼の地で肝胆相照らす仲になった。ふたりとも中国の現実の姿を肌で感じたに違いない。
戦後、大平氏は一足先に政界入りした。伊東氏は「大平を首相にするため、中国との関係を正常化するために」衆院議員になった。自民党では大平氏と同じ名門派閥「宏池会」(池田勇人元首相が創設)に入ったが、「僕は(池田派ではなく)大平派だ」と公言して憚(はばか)らなかった。
ところが、大平氏は現職首相だった1980年の衆参同日選挙中に急死する。弔い選挙となり、自民党は圧勝した。当時、首相臨時代理を務めた伊東官房長官は後継候補に擬せられたが、このときも頑として応じなかった。
大平内閣の後は鈴木善幸氏が受け継いだ。伊東氏は鈴木内閣の外相に就任した。81年5月、ワシントンでの鈴木首相とレーガン大統領との日米首脳会談の際の共同声明に「同盟」が盛り込まれた。その後、鈴木首相は記者会見で「軍事的意味合いは持っていない」と発言、同盟の解釈をめぐって日米間に混乱を生じた。
日本国内でも波紋が広がり、伊東外相はその責任を取る形で辞任してしまう。突然の辞任劇の真相は不明だが、亡き盟友の外交路線を継承、発展させたいという意地ではなかったか。
その2年前の79年5月、大平首相はホワイトハウスでのカーター大統領との首脳会談の歓迎行事で「同盟国であるアメリカ合衆国」と言明していた。口頭ながら初めて「同盟」というキーワードが使われた瞬間だった。大平、伊東両氏は「日米同盟」の重要性を強く認識していた。
伊東氏は筆者より39歳年上だったが、まさに「忘年の交わり」で接していただいた。88年8月31日夜、にやりとしながら筆者にこんなエピソードを明かしてくれた。いかにも硬骨漢らしい逆説的な言い回しである。
「昔はいわゆるチェーン・スモーカーだった。『チェリー』に朝、火をつけると、そのまま夜まで多いときには一日百本くらい吸った。手が黄色くなっていたよ。しかし、昭和27(1952)年のサンフランシスコ講和条約を機に禁煙した。『今度、日本が戦争に勝つときまで』ということでね」
鄧小平氏ら中国要人と厚い信頼関係
伊東氏の外交の主軸はアジア、就中(なかんずく)中国だった。中国の最高実力者、鄧小平氏とは計7回、会談した。中国共産党の胡耀邦総書記、江沢民総書記、朱鎔基副首相(後に首相)ら要人との会談を重ね、信頼関係を築いてきた。
1988年4月、伊東氏(当時、自民党総務会長)が北京の人民大会堂で鄧小平氏と6回目の会談に臨んだとき、筆者は同行記者団の一員として目撃している。鄧氏が「日本の政治家にはいろいろお会いしているが、あなたとの面会が一番多い。私たちは本当に心を打ち明けられる友人だ」と語りかけたこと、そして伊東氏が中国側から厚い信頼を得た経緯は、拙稿=2022年9月29日公開のコラム:亜州・中国(16)=でも紹介した通りだ。
衆院第二議員会館の伊東事務所にも中国から賓客の訪問が相次いだ。なかでも中日友好協会の孫平化会長は常連だった。
伊東事務所で1981年から約10年間、秘書を務めた牛田美佐子氏はこう述懐する。
「事務所には孫平化会長をはじめ中日友好協会の幹部の方々がよくいらっしゃいました。外相、国務委員になられた唐家璇先生も何回かお見えになりました。伊東先生は中国からの留学生にもお会いになっていました」
伊東氏は中国と幅広い人脈をつくり、老朋友も多かった。孫会長は伊東氏の訃報に接し「自民党の政治家で私と一番気持ちが通い合い信頼し合えた古い友人」と日記に書いた。
だが、いわゆる“親中派”というわけでもなかった。蔵相、日中友好議連会長などを務めた林義郎氏は伊東氏の回想録に「先生は中国の心情に対する十分な配慮をしながら、ピシャリと言うべきことは言われた」と寄稿した。だからこそ、中国側から信用されたのだろう。
伊東氏は中国との関係を大切にする一方で、自らの心情にも正直だった。筆者に「実は靖国神社にも目立たない形で行っている。兄が祀られているからね」と告白したことがある。
因縁の河野洋平氏とアジアでは連携
自民党ハト派の拠点といわれた「アジア・アフリカ問題研究会」(通称AA研)――。衆参両院で議員を務め、軍縮問題に政治生命をかけた宇都宮徳馬氏が1965年に結成、国交正常化前の中国や韓国との関係強化などを議論していた。
衆院は2023年12月27日、河野洋平元議長の「オーラルヒストリー」(口述記録)を公開した。それによると、河野氏は「AA研では、宇都宮徳馬さん、木村俊夫さん、伊東正義さんといった人が中心にいて、とても教育的で一つ一つ丁寧に教えてもらいました」と語っている。
伊東氏はAA研で洋平氏よりも先輩格。両氏はアジア政策では連携していたともいえる。しかしながら、伊東氏は農林省時代、洋平氏の父、河野一郎氏が農相だったときに食糧政策で対立、自説を曲げなかったため東京営林局長に左遷され、その半年後には名古屋営林局長に飛ばされた経験を持つ。
ただ、自民党の実力者だった一郎氏は伊東氏の見識、力量は評価していた。伊東氏が総選挙に出る際、自らの派閥「春秋会」(河野派)に誘ったほどだ。
一方、洋平氏は1986年に新自由クラブを解党、自民党に復党した。宮沢氏に誘われ宏池会(87年に宮沢派)に入ろうとしたが、洋平氏のオーラルヒストリーによると、伊東氏に呼ばれて「君は小なりといえども一党の党首をやったんだから、自民党へ戻ってどこの派閥に行くなんて言わないで、一人でいたらいいじゃないか」と言い渡されたという。洋平氏はその後、宮沢派入りしたものの、当初は伊東氏との関係は微妙だったのかもしれない。
もっとも、伊東、洋平両氏とも外相に就任し、中国をはじめアジアを重視した外交を展開したことは共通している。そもそも洋平氏は金権体質を批判して自民党を離党、新自由クラブ時代には北京で鄧小平氏と3時間近く会談したこともある。今も日本国際貿易促進協会(国貿促)会長としてコロナ禍の時期を除いて毎年のように訪中、中国要人と会談している。その意味では、伊東氏の役回りを受け継いでいるともいえよう。
日中関係で“息子”加藤紘一氏に期待
伊東氏自身は、日中関係の将来を担う政治家として、宏池会のプリンスと呼ばれた加藤紘一氏に期待していた。加藤氏は26歳年下だ。伊東氏と同じく東大法学部卒。外務省に入省、中国課を経て1972年に政界入りした。英語のほか中国語も操り、中国との架け橋になるには打ってつけだった。
伊東氏が官房長官のとき、加藤氏は官房副長官。自民党政調会長時代、加藤氏は会長代理として補佐した。子どもがいなかった伊東氏は息子のようにかわいがった。加藤氏自身「実の父親以上に父親」と漏らしたことがある。
加藤氏は伊東氏の死後、宏池会(加藤派)会長になり、首相候補と目された。しかし、2000年のいわゆる「加藤の乱」に失敗。その後、曲折を経て政界を引退、16年9月9日、77歳で死去した。
加藤氏は伊東氏の回想録に「日中問題のため努力される先生をお手伝いしたことなど、思い出は尽きない」と綴っていた。
最愛の輝子夫人、中国側は北京に招待
頑固一徹で、晩年は糖尿病も抱えていた伊東氏が政治家として活躍できたのは、輝子夫人(旧姓三沢)の支えがあったからにほかならない。農林省の職員だった夫人とは恋愛結婚。気取らない性格で、選挙運動も二人三脚でこなした。「内助の功」を超える存在だった。
中日友好協会の孫会長は1996年10月、輝子夫人を北京に招待した。「伊東氏は農林官僚出身だったが、清廉潔白で、子どもがなく、残された夫人は清貧で孤独な暮らしをつづけている。夫人を招待したのは気分転換のためと、生前の友情に少しでも応えるためであった」。孫会長はこう書き残している。
伊東氏は筆まめだった。興亜院から派遣された上海からも輝子夫人に手紙を送り続けた。夫人から「手紙はすべて取ってある」と聞いたことがある。
1987年から伊東氏の秘書となり、その後も輝子夫人のいわば秘書役を務めた佐藤暁氏は「先生は万年筆のモンブランのブルーブラックのインクを愛用していた。少しでも時間があれば、写真入りはがきにペンを走らせ、友人や地元の支援者にせっせと送っていた」と回想している。
「この際、遺言として言っておきたいことが二つある。私は死んでも叙位叙勲はもらわない。告別式も人の迷惑になるだけだからやらないでほしい」
87年12月15日、東京・赤坂の山王飯店で伊東氏の74歳の誕生日を祝う宴が催された。「(70歳で亡くなった)大平より4年も長生きしたんだなあ」とつぶやき、バースデーケーキの蠟燭(ろうそく)を吹き消すと、真顔でこう遺言を残した。
94年5月23日、東京・中野の宝仙寺で営まれた葬儀・告別式には筆者も参列したが、もちろん盛儀となった。後藤田正晴・元副総理は弔辞で「あなたは、政治家の中では珍しく、愚直なまでの潔癖漢」と偲んだ。
輝子夫人は遺言を尊重して叙位叙勲は辞退した。名利を求めない伊東氏は生前も勲章は断った。衆院では在職25年の永年在職議員は国会内に肖像画を飾る特権があるが、これも辞退している。
伊東氏は政界引退に当たって1993年1月29日付で、地元支援者に対して“最後の手紙”を送った。その一節に政治家人生が凝縮されている。
「私は如何なる時も自分の信念に基づき行動し、自分が正しいと信ずるときは、他人が言いづらい事でも時には発信し、ならぬものはならぬの精神を胸に、嘘をつかず国民から信頼される政治を心掛けて参りました」
伊東氏はあまりにも潔癖なだけに、自民党内の一部から煙たがられることさえあった。だが、与野党から人望を集めた稀有な政治家だった。外交は内政の延長ともいわれる。先ずは有権者が信頼できる政治家を選ぶことが問われている。
バナー写真:日中友好議員連盟訪中団の伊東正義団長(左)の手を取り会談の席に案内する鄧小平・中国共産党中央軍事委員会主席=1989年9月19日、北京市の人民大会堂(共同)