シリーズ・2回のお代替わりを見つめて(13)令和の「平和の誓い」:天皇3代が「反省」に込めた思い
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戦没者追悼式で「深い反省」を踏襲
皇室をめぐり、この夏最大のテーマとなったのは、「反省」の2文字だった。8月15日の全国戦没者追悼式でのお言葉で、天皇陛下は上皇さまが戦後70年を機に4年前から使われていた「深い反省」を踏襲。一部を戦後世代のご自分に合う文章に変え、平成の時代を引き継いで不戦を誓う覚悟を示された。
上皇さまが使っていた戦争体験者としての「深い反省とともに、今後」は、戦後世代の決意を込めた「深い反省の上に立って」と変更された。陛下は今回のお言葉を、ご自分で何度も推敲されていた。そのスタイルは上皇さまの天皇時代と同じだった。
陛下が戦後74年、戦争を知らない世代であってもなお、天皇として戦争の「反省」にこだわる理由とは――。それを、国民に改めて理解させてくれたのが、昭和天皇と田島道治・初代宮内庁長官との5年近くのやりとりを記録した「拝謁(はいえつ)記」である。公開された田島長官の記録から当時を再現しよう。
自らの戦争責任を語りたかった昭和天皇
終戦後、占領下にあった1951年1月。昭和天皇は講和成立・独立回復が実現した際に、国民へのメッセージを語ることを田島長官に告げた。その柱の一つとして昭和天皇は「私の責任の事だが、従来の様にカモフラージュ(人の目をごまかすこと)でゆくか、ちゃんと実状を話すかの問題がある」と述べた。自ら戦争の責任について、明確に話すべきか思案していることを漏らされたのだ。
そして、翌52年1月に昭和天皇は、「私は例の声明メッセージには反省するという文句は入れた方がよいと思う。この前、長官は(天皇が)反省すると言うと、政治上の責任が私にあるように言い掛かりをつけられるといけないと言ったが、私はどうしても反省という字を入れねばと思う」と強い意思を示した。
昭和天皇は翌月にも、「反省というのは私にも沢山あるといえばある」とご自分のことを認めた。そのうえで、「私の届かぬ事であるが、軍も政府も国民もすべて下剋上とか軍部の専横を見逃すとか、皆反省すれば悪いこと(点)があるから、それらを皆反省して繰り返したくないものだ」と述べている。天皇、政府、国民がともに反省して、二度と戦争はしないという強いお気持ちを表したのだ。
これに対し、宮内庁内部から「陛下が弁解されているように思われる」と、全面修正案が出て、「反省」は削除された。しかし、昭和天皇は「反省」と「自戒」を入れるよう要請。田島は「反省」の言葉に強くこだわる天皇の意をくんだ原案を作成して概ね了解を得た後、吉田茂首相との検討に入る。昭和天皇は「内閣へ相談して、あまり変えられたくないネー」と気にしていた。
吉田首相からの削除指示
だが、お言葉を述べることが決まっている「独立回復を祝う式典」が10日後に迫った同4月18日、吉田首相から戦争への悔恨の一節すべてを削除するよう求める手紙が届いたことを、田島は天皇に報告。「反省」の文字も謝罪の表現も消えてしまった。吉田首相の判断は「昭和天皇に開戦責任あり」と言われる危険を恐れたためだった。吉田は「今日(こんにち)はもはや、戦争とか敗戦とかいう事は、(陛下に)言って頂きたくない気がする」とも述べ、天皇退位論が呼び起されるのを警戒している。
首相からの指示に従わざるを得なかったことで、昭和天皇は新憲法下の「象徴天皇」がどうあるべきかを学んでいく。自らの戦争責任について国民に語る機会を失った昭和天皇は、その後、記者会見など公の場で「反省」を口にされなかった。
この「拝謁記」で、昭和天皇が再軍備、憲法改正、政治批判なども語っていたことが明らかになった。特に筆者が注目したのは、田島長官が昭和天皇に対し、「(天皇は)政治に関与されぬお立場」「それは禁句でございます」と何度もいさめ、忠言していたことだった。田島は民間出身で、1948年に長官になるまでは皇室とは関係がなかったため、従来の側近とは違い、言うべき時は忠告ができたのだろう。
これまでの昭和天皇の記録は、都合が悪くなると思われる点が書き手によって“修整”されることもあったと言われる。しかし、田島はしきたりに浸った側近なら書き残さなかったであろうことまで、天皇との対話を記憶の限り書き記した。田島はまだ昭和天皇ご自身が理解しきれていない「象徴天皇」の形を決めていく過程で、重要な役割を果たしていた。
封印された昭和天皇の謝罪
昭和天皇の戦争に対する言葉が消されることは、昭和の末期にもあった。1986年(昭和61年)11月、フィリピンからコラソン・アキノ大統領が国賓として来日した時だ。その年の2月に長期独裁政権を倒した国際的にも人気のある女性大統領で、歓迎式典の後、昭和天皇とアキノ大統領の会見が行われた。宮内庁の説明では、和やかな雰囲気に終始したということだった。
筆者は当日、皇居で取材していたが、フィリピン側の発表内容を知って驚いた。「昭和天皇が先の戦争で日本がフィリピンに多大な迷惑をかけたことを、何度も謝罪した。アキノ大統領は恐縮し、『そのことは忘れましょう』と語った」というのである。
宮内庁側の担当責任者で、会見に同席していた式部官長に問いただしたが、緊張した表情で「陛下が謝罪されることはなかった」と否定。間もなく総理官邸で、中曽根内閣の後藤田正晴官房長官も事実関係を全面否定し、天皇の謝罪は封印された。筆者は、嘘をつくことがへたな式部官長の表情を見つめながら、天皇の発言が政府によって消されていいのだろうかと、強い不信感を抱いたのを覚えている。
この真相は2017年に、外交文書の公開で明らかにされた。「既に戦争の話は出なかった旨否定しているので、否定の態度を続けるつもりである」との宮内庁の方針が記載されていた。あの会見で、昭和天皇はフィリピン側の発表通り、謝罪されていたのである。
戦争の話題を避けるよう天皇に求めた外務省
さらに公開文書から、外務省がアキノ大統領との会見をめぐり、「第二次世界大戦について積極的にお触れにならない方が適当」という意見書を作り、昭和天皇に戦争の話題を避けるように求めたことも明らかになった。また、外務省はフィリピン側に「天皇との会見内容は外部に漏らさないのが慣習だ」と申し入れていた。
フィリピンは太平洋戦争で日米両軍が激突する戦場となり、多くの市民が犠牲になった。日本人犠牲者は約51万8000人と、地域別では中国より多く最多、フィリピン人も市街戦に巻き込まれ、全人口の約7%の111万人が死んだ。昭和天皇はこのことを新大統領に、心から謝罪していたのだ。
平成の陛下(上皇さま)は亡き父の心を継いで、2016年に海外での「慰霊の旅」としてフィリピンを訪問。日比両国の戦没者の墓碑に拝礼された。そして、現地での晩餐会で「(先の大戦では)貴国内において日米両国間の熾烈な戦闘が行われ、貴国の多くの人が命を失い、傷つきました。このことは、私ども日本人が決して忘れてはならないことであり――」と述べられた。その内容は、昭和天皇がアキノ大統領に語ったものと同じ趣旨だったのではないか。
平成の陛下は、全国戦没者追悼式で、父がこだわったあの「反省」を4年前から使われるようになり、それが現陛下に引き継がれた。平和国家日本の「象徴」が3代にわたって「反省」にこだわる意味を教えられた夏だった。
(2019年9月25日 記)
バナー写真:全国戦没者追悼式に臨まれる天皇、皇后両陛下=2019年8月15日、東京都千代田区の日本武道館(時事)