2回のお代替わりを見つめて

シリーズ・2回のお代替わりを見つめて(8)在位30年式典:「大喪」が行われた30年前

社会

天皇陛下の在位30年を祝う政府主催の記念式典が2月24日に開かれ、陛下は重ねて国民への謝意を述べられた。ちょうど30年前のその日、昭和天皇を送る「大喪」が、史上最多の164か国の代表らも参列して行われた。新憲法下で初の天皇の葬儀は、政教分離に配慮しながら、皇室の伝統を守る形で進められた。

国民への感謝と、平和を強調したお言葉

東京・国立劇場で行われた「ご在位30年記念式典」には、安倍首相ら三権の長や各界の代表ら約1100人が出席。陛下はお言葉の中で、「務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、――日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお蔭でした」と国民に感謝された。また、「(平成の初めの頃)全国各地より寄せられた『私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく』という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています」と述べ、国民と共に戦争のない平成時代を築き上げたことを強調された。

8分余のお言葉の途中で、陛下が冒頭部分の紙を再び読み始めるハプニングがあった。傍らの皇后さまがすぐに気付いて声を掛け、お二人で次に読む紙を見つけられ、混乱することなくお言葉は進んでいった。会場が国立劇場だっただけに、年老いてなお夫婦仲の良い両陛下による即興の寸劇を見るような、ほほえましいシーンだった。式典が終わり、両陛下は大きな拍手に応えて何度も会場に手を振られた。

退位関連儀式の大半は国費を使わず

陛下は4月末の退位を控え、3月12日から、皇居の宮中三殿に退位に報告するなど、退位関連の11の儀式に入られた。初代の神武天皇陵や伊勢神宮に拝礼される。最後の国の行事となる皇居での「退位礼正殿の儀」を除き、皇室行事として「陛下のお考えも踏まえて」国費を使わず、天皇家の私的費用の「内廷費」で支出することになった。宗教色のある行事も含まれている点を配慮されたという。

最後まで、国民の負担を少なくしたいという、陛下らしいお考えだ。これは、秋篠宮さまの大嘗祭(だいじょうさい)に関する「絶対に行うべきだが、宗教色が強く、国費を使うのは適当か」との発言と通じるものがあると筆者は感じる。退位に関する儀式はきちんと行うが、皇祖・天照大神(あまてらすおおみかみ)に通じる宗教色の濃いものもあり、国費はできるだけ使うべきでないというけじめを、陛下はご在位の最後に示されたのだと思う。

164か国が参列した昭和天皇の大喪

ご在位30年式典が行われたちょうど30年前、1989年(平成元年)2月24日に昭和天皇を葬送する「大喪」が行われた。氷雨が降り、葬場の新宿御苑は日中でも気温3度程度のとても寒い日だった。

ミッテラン・フランス大統領、ブッシュ米大統領ら164カ国の弔問使節や、国内各界の代表ら約1万人の参列者が見守る中、日本の伝統を印象付ける葬列が始まった。国際的な葬儀としては119カ国が参列したチトー・ユーゴスラビア大統領の葬儀(1980年)を大きく上回る史上最大規模となった。

昭和天皇の柩を載せた「葱華輦(そうかれん)」と呼ばれる大きな輿(こし)が、黒い古装束姿の皇宮護衛官51人に担がれて進み、両陛下らが続いた。鳥居が建ち、神道の祭具「真榊(まさかき)」が飾られた葬場殿で、陛下が「誠に悲しみの極みであります」と御誄(おんるい=弔辞)を述べられた。皇族方の拝礼が終わると門が閉められ、約10分の休憩となった。

この葬儀は2部制だった。前半は皇室行事の本葬に当たる「葬場殿の儀」で、神道式の葬送儀式。後半は宗教色を除いた国の行事「大喪の礼」。閉められた門の中では、急いで鳥居や真榊が撤去されていた。再び開門して、小渕官房長官が開式を宣言し、参列者全員による黙とうや、延々と続く外国使節、一般参列者の拝礼が行われ、午後1時過ぎ、合わせて2時間半余の葬儀が終わった。柩は夕方、東京・八王子の武蔵野陵(むさしののみささぎ)に埋葬された。

古装束の皇宮護衛官に担がれ葬場殿へ向かう葱華輦=1989年2月24日、東京・新宿御苑(時事)
古装束の皇宮護衛官に担がれ葬場殿へ向かう葱華輦=1989年2月24日、東京・新宿御苑(時事)

政教分離論争の焦点になった鳥居の設置

大喪で激しい論争が展開されたのが、葬場殿での鳥居の設置だった。神社のシンボルである鳥居は絶対に欠かせないと主張する保守派と、憲法の政教分離原則から神道色の強い葬儀は認められないという護憲派の対立だった。筆者の当時の取材では、当初は鳥居設置を計画していた宮内庁は、昭和天皇が倒れた1988年秋になると、「憲法の関係で鳥居の設置は無理になった。前回の大正天皇の大喪との大きな違いは鳥居がないことだ」と幹部の大方が言っていた。鳥居はなしで行われると思われたが、翌89年1月後半になると一転して鳥居が建つことに決まった。

特に宮内庁の担当者らが驚き、怒っていたのは、首相官邸サイドが「鳥居を設置するのは、宮内庁側の要望を受け入れたからだ」と説明したためだ。「鳥居が“復活”したのは保守派が押し返したからであり、それを宮内庁のせいにされるのは我慢できない」という声を宮内庁内で何度も聞いた。

「政府と宮内庁が対立」と報じられる中で、宮内庁の藤森長官は記者会見で「鳥居を要望したのは宮内庁側だ」と述べ、政府との対立はないことを強調した。大喪を直前にして事態は収拾されたが、宮内庁の幹部がこう解説してくれた。「鳥居にこだわる保守派の巻き返しに困った官邸が、最後に頼りにしたのは、官房副長官から宮内庁入りした藤森さん。官邸の苦しさが分かっているから、藤森さんは調整役を務めて、鳥居は宮内庁が要望したことにしたのでしょう。官邸と宮内庁が一体となってお代替わりがスムーズに進むように送り込まれた藤森さんならではの仕事だった」。こうして、“妥協の産物”とも言われた高さ2.9メートルの小さな鳥居が登場し、途中で撤去されることになった。

大喪会場の葬場殿=1989年2月24日、東京・新宿御苑(時事)
大喪会場の葬場殿=1989年2月24日、東京・新宿御苑(時事)

参列者や外国特派員らに現場で大喪の感想を聞いてみたら、宗教色のある前半の皇室行事の方が、日本の伝統が感じられて興味深かったという声が多数だった。これに対し、政府が無宗教にと神経をとがらせた「大喪の礼」は無味乾燥だと、あまり評価されていなかった。「葬儀に宗教色がある程度出るのは仕方ない。天皇の葬儀に鳥居を建て、神道で行ったら、軍国主義が復活すると心配する人はいないのでは」と政教分離論争を笑う人もいた。

大喪の日程決定をめぐる歴史の偶然

大喪の日は、宮内庁では昭和天皇が亡くなられたから48日目を目安としていた。明治、大正天皇の前例が45-46日目で、陵の工程からもこのぐらいが必要だった。ところが、48日目(2月23日)は新皇太子(浩宮さま)の誕生日で当然ながらはずされた。大喪の翌日も陛下や皇族が参列する行事があるため、2日間空いている日を選択しなければならない。となると、2月21日か同24日だが、21日は江戸時代後期の第120代、仁孝天皇の命日で天皇例祭があるためはずされ、24日に決まった。

現陛下の退位の意向を2年半前に聞いて、筆者は昭和の終わりに耳にした仁孝天皇を思い出し、歴史の“偶然”に驚いた。今回の陛下が202年ぶりの退位だが、前回、1817年に光格天皇が譲位して皇位を継承したのが仁孝天皇だったからだ。仁孝天皇は、孝明天皇や皇女和宮の父で、明治天皇の祖父にあたる。同じ形で即位の仁孝天皇の命日と新天皇の誕生日が交錯して、昭和天皇の大喪の日程決定が決められていたのである。

「将来の天皇誕生日となる日に、大喪はできない」と日程調整に懸命だった当時の宮内庁担当者の姿を思い出す。あれから30年、ご在位30年式典は立派に行われたが、別の日にずらすことはできなかったのだろうか…。

「また一つ、昭和は遠くなりにけり」。筆者の独り言である。

(2019年3月12日 記)

バナー写真:天皇陛下在位30年記念式典を終え、会場を後にされる天皇、皇后両陛下=2019年2月24日、東京・国立劇場(時事)

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