満蒙開拓平和記念館(長野県):本人が語る76年前の「地獄の逃避行」 国策による苦難の歴史伝える
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二度と戦争をしないため
「私たちの開拓団(大古洞開拓団)(※1)は終戦時、そこにしばらく『籠城』する方針を決めて、翌年5月ごろにハルピンに向けて移動しました。移動する前に、ソ連軍が来て村の女性を強姦した事件があった。これは本当に衝撃で、女性たちはしばらく夜が明けると子どもを連れて集落の外の畑などに逃げ、ソ連兵が帰ると私たち子どもが屋根の上から旗を振って合図をすると、そんなことをしばらくやっていました…」
満蒙開拓平和記念館では月2回、元開拓団員が「語り部」として70年以上も前の当時の模様を証言している。梅雨空の土曜日、7月10日にマイクを握ったのは、岐阜県揖斐郡池田町在住の北村栄美さん(87)。家族とともに7歳で渡満し、11歳で終戦を迎えた。
家族8人のうち、生きて日本に引き揚げることができたのは5人。父親は終戦直前の「根こそぎ動員」で召集され、シベリア抑留後に朝鮮で死亡したと聞かされているが、確認はできないままだ。入営のために村を去っていく父の背中に向かって母が言った「あの人は、もう帰ってこんだろう」という言葉が忘れられないという。
2021年が「渡満からちょうど80年」の北村さん。この日は息子の彰夫さんの運転で、片道2時間以上かけて記念館にやってきた。なぜ、今も語り部活動を続けるのか。その問いに「話せる人も年々少なくなっているし、歴史を風化させたくないとの思いが強くあります。二度と戦争をしないためにこの記念館で勉強するのは大事なこと。きちんと聞いてくれる人の前では、精一杯のことはしたい」と話す。
3万人を満州に送った長野
1936(昭和11)年、広田弘毅内閣の下、関東軍が立案した満州農業移民の大量送出計画が国策として決定された。その背景には「満洲国」の治安維持や、ソ満国境の防衛力強化といった軍事目的があった。「移住すれば20町歩(ヘクタール)の地主になれる」と大々的に宣伝され、政府は町村単位の開拓団送出に補助金を出してこれを奨励した。
日本全国で約800の開拓団、青少年義勇軍を含めて27万人が満州に渡ったが、その中でも長野県から(3万3000人)が突出して多かった。その理由として、世界恐慌(1929年)後の生糸価格暴落により養蚕業が衰退して農村が困窮したこと、地元の行政・教育界の指導者に満蒙開拓の推進者が多かったことなどが挙げられている。県内では南部の飯田・下伊那地区が最も多くの開拓団を送り出した。
「この地域にとって、開拓団をめぐる問題は長い間、生々しい記憶としてずっと目の前にあったんです。敗戦から引き揚げまでの悲劇にとどまらず、ゼロから始まった戦後開拓、残留孤児・残留婦人の帰国運動と続いていきました」と、記念館の寺沢秀文館長は口を開いた。
残留孤児を祖国へ
同館から歩いてすぐ、「中国残留孤児の父」と呼ばれた山本慈昭氏(1902-1990)が住職を長く務めた長岳寺がある。山本氏は阿智村などが編成・送出した「阿智郷開拓団」の国民学校教師として、1945年5月に渡満。わずか3カ月後にソ連軍の侵攻があり、シベリアに連行された。47年に帰国したが、そこで妻と娘、そして多くの教え子たちの死を知らされた。
58年に日中関係がほぼ断絶し、現地に残留した開拓団関係者(残留邦人)の引き揚げや、死亡者の慰霊、遺骨収集などを探る動きは暗礁に乗り上げる。寺沢館長によると、当時中国側に日本人残留孤児の帰国を訴えたところ、「その前にやるべきことがある」と、戦時中に日本に強制連行され、鉱山・ダム建設現場などで死亡した中国人の遺骨収集、慰霊の必要性を指摘されたという。
山本住職らは63年に日中友好協会飯伊支部(飯田日中友好協会の前身)を結成し、平岡ダム(長野県天龍村)工事で命を落とした約80人の遺骨収集と慰霊法要を実施。64年に遺骨返還のために訪中し、周恩来首相と面会する。
翌65年から山本住職のもとに、日本での肉親捜しを依頼する中国からの手紙が届き始める。72年の日中国交正常化を経て、残留孤児帰国運動は本格化。80年に訪中してまとめた孤児300人の記録が大きな反響を呼び、81年の国による調査実施・帰国支援につながった。飯田日中友好協会がまとめた年表によると、1980年から2000年ごろまでの活動は、大半が帰国者の受け入れ支援・交流活動で占められている。
「触れられたくない」物語
21世紀に入り、残留孤児・婦人の帰国がピークを過ぎると、満蒙開拓の語り継ぎ事業にも目を向け、2003年には元開拓団員60人による「語り部の会」が発足した。記念館建設計画が同協会を中心に具体化したのは06年のこと。長野県や近隣町村の支援を受けて用地取得や資金調達にめどが立ち、民設民営で13年にオープンした。
戦後68年で建てられた、全国で唯一の「満蒙開拓」に特化した展示・伝承館。寺沢館長は「この施設をつくることができたのは、戦後も現実の問題としてあった開拓団をめぐる動きが、ようやく『歴史』に転換したからではないだろうか」と振り返る。
開拓団をめぐる史実は、その立場によっては「触れられたくない」物語でもあった。例えば、終戦直前の関東軍の行動は「年配者と女性、子どもが残された開拓団を置き去りにした」と強く非難された。戦争中、国策遂行のために「移民推進の旗を振った」地元の指導者、教師らも多くいた。命からがら引き揚げてきた開拓団員も、戦後は「日本の中国侵略の一翼を担った」という後ろめたさを背負うことになった。
寺沢館長は戦後生まれだが、引き揚げ後に父母が再入植した山深い開拓地で育っている。父親は生前、「ここに再入植し、今度こそ本当の開墾の苦労をする中で、大切な畑や家を日本人に奪われた中国人たちの悲しみ、悔しさが改めてよく分かった。あの戦争は日本の間違いであった」と話した。満州の開拓団の土地も家もその多くは、日本が半ば強引に安値で中国人から買い上げたものだったという。「この言葉が、ボランティアとしてこの活動を行う私の原点。開拓団員の犠牲の伏線に『加害』の側面があったことは、忘れてはならないと思っています」
語り部を支えるボランティア
「私たちは、国策を掲げる政府にだまされ、満州に捨てられたんです。戦争の地獄から這い上がった生き証人です」――。南木曽町の可児力一郎さん(89)は、強い口調で語りかける。13歳で終戦。「生き延びるために」中国人家庭に身を寄せ、使用人として極貧生活を送る。1958年にようやく帰国できた時には、26歳になっていた。地元で営林署に勤務後、ヒノキの箸など木工芸品製造業を興して成功を収めた。
可児さんは都合がつく限り、週末の土曜、日曜には案内ボランティアとして記念館に足を運ぶ。開拓地から現在旧満州で唯一の日本人公墓がある黒竜江省方正まで、24日間に及ぶ自らの「地獄の逃避行」とその歴史背景を語ることで、一人でも多くの人に戦争の悲惨さを伝えるためだ。
もう一つ可児さんが伝えたいのは、終戦後の中国での生活は辛いことばかりだったが、その中でも親切にしてくれた中国人がいたということだ。「満洲国の『五族協和』なんてとんでもない話で、日本人は一等国民、朝鮮人は二等、中国人は三等と、もうあからさまの差別。だから暴動が起きるのは何の不思議でもない」「それでも義理人情に厚く、寛大な心の中国人がいたから、僕たちは生き延びてこられたと思っています」
記念館では、北村さんや可児さんのような「語り部」と、各種事業を支えるボランティアグループ「ピースLabo.」を組織。地元だけでなく長野市や東京、関西などからもメンバー登録があり、常時20人が活動している。歴史の伝承・展示、学習会開催という活動のほか、毎年8月には敷地内に建立された「鎮魂の碑」前で慰霊祭を行うなど、元開拓団員とその家族を結ぶ拠点としての役割も果たしている。
取材・文・写真 石井雅仁(ニッポンドットコム編集部)
参考文献
- 『満蒙開拓平和記念館(図録)』(同記念館、2020年10月改訂版)
- 『風雪に耐えて咲く寒梅のように―二つの祖国の狭間に生きて』(可児力一郎著、信濃毎日新聞社、2003年)
満蒙開拓平和記念館
- https://www.manmoukinenkan.com/
- 所在地:長野県下伊那郡阿智村駒場711-10
- 電話・ファクス:0265-43-5580
- 開館時間・休館日:午前9時30分~午後4時30分(入館は午後4時まで)、毎週火曜日休館(祝祭日の場合は開館、翌日休館)
- 料金:一般600円(団体500円)、小中高生300円(団体200円) 団体は20人以上(2021年7月現在)
バナー写真:満蒙開拓平和記念館の外観。道路沿いには中国東北部を思い起こすポプラが植えられている。
(※1) ^ 長野県下伊那郡町村会が送出母体となり、その出身者で編成された。在籍総人数970人のうち、出征者を含む400人以上が死亡。1946年10月、11月ごろに引き揚げ。