映画『冬時間のパリ』:鬼才オリヴィエ・アサイヤスがコメディーで見せる「デジタル時代を生き抜く大人の知性」
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オリヴィエ・アサイヤスは1986年のデビューから2016年の『パーソナル・ショッパー』まで、30年間で16本の長編劇映画を監督してきた。シナリオもすべて自身で手掛けている。それぞれのジャンルやテーマ、作風は実に多彩で、その時々に応じて自分の中から湧き出る創造性に、軽やかに身を委ねてきたように見える。
「私は2つの作品を同時に進めるのが好きではありません。映画を撮るときは、ある着想に始まって、それをとことんまで押し進めていきます。だから1つ終えると、徹底的にやり尽くしたという感じがして、また一から新しいことに挑戦したくなる。これをやったから次は何をやろうとか、戦略的に考えたことは一度もありません。ただ新しい方向性を試すんです。ひらめきや直感といった、私の中で響く何かに導かれていきます。それが登場人物や物語に生命を吹き込んでいくのです」
前作の『パーソナル・ショッパー』は、ハリウッドで活躍する若手女優クリステン・スチュワートを主演に迎え、孤独な若い女性が不可視の存在と対話する、超次元的な体験を描いた。少ないセリフで不安をあおる、暗く重たい物語だったが、続く最新作『冬時間のパリ』は、それとは打って変わり、とめどない会話で展開していく軽妙なコメディーだ。
「『パーソナル・ショッパー』の完成後、次に自分がどの方向に行きたいか、よく分かりませんでした。実はそれ以前に、1シーンだけ書いたものがあった。ある朝、パッと思いついて、作家と編集者の会話を書いたんです。まだストーリーもなく、次のシーンがどうなるか、まったくアイディアがなくて、そのまま放ってあった。これが後になって、『冬時間のパリ』の最初のシーンになったのです。物語はすべてこの会話から派生しています。この2人の人物に導かれながら、物語が少しずつ私の中に浮かんできたのです」
『冬時間のパリ』の冒頭のシーンとは、出版社を営むアランに、作家のレオナールが訪ねてきて、以前に渡してあった原稿の出版について相談を持ちかける長いやりとりだ。会話から感じられるアランの態度はどこか冷淡で、二人がどこまで深い付き合いなのかは分からない。監督がここから物語をふくらませていったように、二人やその周囲の人間関係は、場面の進行とともに、少しずつ明かされていくのだ。
レオナールが書くのは、実体験に基づく赤裸々な性描写を含む私小説。アランに出版を手掛けてもらった過去の作品は一定の評価を受けたものの、その後は作家として伸び悩んでいるらしい。レオナールは小説を書くこと以外、現実生活への対処が苦手で、子どもっぽいところが抜けない。一緒に暮らすヴァレリーは対照的なタイプ。政治家の秘書をしており、友人たちが「外野」から言い放つ政治批判にうんざりしている。おそらく家計を支えるのは彼女なのだろう。レオナールに対する当たりがきつい。
アランの妻でテレビの人気シリーズに出演する女優のセレナは浮気しており、その相手がほかならぬレオナールだった。アランがそれに気付いているのかは明らかでないが、妻との会話の中で、彼女が肩を持つレオナールの原稿を「女性をモノとして扱っている」と酷評する。その一方で、アラン自身もデジタル化事業の担当で雇った若い女性と関係を持っているのだが…。
このようにもつれた人間関係を描きながら、物語を動かしていくのは、いかにもパリのインテリ層の間で飛び交いそうな皮肉の利いた会話だ。人々は、出版やテレビ、政治といったそれぞれの職業に関係する話題をめぐって、思い思いの持論を展開する。そのたびに、かつて世の中の中心を担っていた仕事が隅に追いやられ、時代の急激な変化への対応を迫られつつある現実を思い知るのだ。
「私は20年ほど前にも、出版業界を背景にした物語を書きました(『8月の終わり、9月の初め』、98年)。登場人物の感性や人間性の面ではほとんど変化がないのですが、この20年間で世界の現実が劇的に変わりました。今回はまさにそこに興味を持ったのです。私がかつて生きた時代と、いま進行しているデジタル革命の時代を、さまざまな観点から対置してみたいと。人類の文明はこれまで文字を中心に成立してきましたが、それが根本から覆されつつある。つまりこれは、私たちの歴史やアイデンティティに関わる問題です。私たちが不動にして永遠だと思っていた価値が揺らいでいるのですから」
出版の世界でいえば、書籍のデジタル化はもちろん、ビッグデータを用いたマーケティングは時代の趨勢(すうせい)だ。創作活動にすら人工知能(AI)が参入する日が来ると言われている。どんな本が売れるか、人が職業経験で培ってきた「勘」など頼りにならない…。そんなことを断言するのは、物語の中で唯一デジタルネイティブ世代に属するロール。もはやアランの手には負えない、有能すぎるアシスタントだ。
「彼女は登場人物の中でもっともプラグマティックです。自分たちが生きている世界について、彼女の見方は、もっとも残酷であると同時に、もっとも明晰です。彼女の言うことに耳を傾けたくなくても、そうせざるを得ない。彼女を通して語られるのは、この世界の真実だからです」
問題は単なる旧世代と新世代の間の溝にとどまらない。旧来のさまざまな価値が問い直される過渡期にあって、アサイヤス自身はこの「世界の真実」に対してどういう立場をとるのだろうか。
「正しいとか、間違っているとか、評価を下すことに関心はありません。私は映画を撮るという大きな恩恵に浴しています。こうした問題について、さまざまに異なる角度から語ることができるわけです。私にとって何が重要か、登場人物それぞれが言い表してくれています。デジタル革命を通じた世界の変容といった複雑な問題に直面したとき、真実は決して一つではありません。映画は、相反する人物を登場させることによって、こうした複雑性を表現することができる芸術なのです」
興味深いのは、テクノロジーの進化に揺らぐ人々を登場させながら、描かれたのが不安に満ちた未来を予感させる暗い世界とはならなかったことだ。
「人工知能は、膨大な情報を処理して、人類が抱えるさまざまな問題に解決策を導き出してくれます。それが人間を本性から変えてしまうことにはならないと思うんです。ポストヒューマンの時代などと言われますが、私は人類の未来について何も恐れていません。人間性への大きな信頼があります。人間には、自分たちにとってよいもの、有益なものを選び取る能力があると思うからです」
アサイヤスのこうした人間性への信頼は、『冬時間のパリ』で描いた人物たちに投影されている。複雑化する世界を背景に、あちこちで生じてくる対立や矛盾を通して、それらを何とか解消していく人々の姿が浮かび上がる。人生の半ばに差しかかった2組のカップルは、互いの感情に深入りせず、相手に多くを要求せず、相手の自由をあっさりと受け入れる。それは一見すると煮え切らない態度のようでいて、テクノロジーがいかに洗練されようとも追いつけない、人間の高度な知性に違いない。折り合いをつけながらも自分らしく生きる、自由な大人の知性だ。
インタビュー撮影=花井 智子
インタビュー(フランス語)・文=松本 卓也
作品情報
- 監督・脚本:オリヴィエ・アサイヤス(『夏時間の庭』、『アクトレス 女たちの舞台』)
- 出演:ジュリエット・ビノシュ、ギョーム・カネ、ヴァンサン・マケーニュ、クリスタ・テレ、ノラ・ハムザウィ、パスカル・グレゴリー
- 製作国:フランス
- 製作年:2018年
- 上映時間:107分
- 配給:トランスフォーマー
- 公式サイト:http://www.transformer.co.jp/m/Fuyujikan_Paris/
- 12月20日(金)Bunkamuraル・シネマほか全国順次ロードショー