映画『あんのこと』:主演・河合優実が入江悠監督と語り合う、主人公のモデルとなった女性の尊厳
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新聞記者が見つけた1人の女性
1人の記者が独自に取材した出来事が新聞に載った。記事は貧困、家庭内暴力、売春、覚せい剤という生き地獄から脱出し、ゼロから「生き直す」若い女性の健気(けなげ)な姿を紹介するものだった。しかしその「いい話」の後日談には、予期せぬ悲しい結末が待っていた。
無念の続報にがく然としたのが、この映画を企画したプロデューサーの國實瑞惠。前の記事を読んだ感動が記憶に残っていたというから衝撃はなおさらだ。時は2020年初夏。新型コロナウイルスが猛威をふるい始めた頃で、出来事にはコロナ禍がもたらした社会の閉塞感が少なからず影響していた。國實はこの経緯を映画化しなければという思いに駆られ、企画を入江悠監督にもちかける。
これまでのキャリアで、実話を映画化したことはなかったという入江。「鈍感なことに、途中から責任の重さに気付いた」と振り返る。脚本を書くには、記者に“逆取材”する以外に手立てはなかった。記者には守秘義務がある。つまりそこから先、彼以外に生前の女性を知る“関係者”にはたどり着けないのだ。
入江 悠 映画ってある意味、こちらから一方的な見方を押し付けるわけですよね。どんなに多面的に描こうとしても、もれてしまうことがある。モデルとなった女性に失礼があってはいけないというプレッシャーはありました。自分がこれだけ責任を感じているということは、河合優実さんも感じているだろうなと…。
香川杏と名付けられた主人公に配役された河合優実は、渡された脚本を読んだ直後、その女性と杏のことを「自分が守らなきゃ」と思ったという。
河合 優実 実際にあった話だと聞いていました。その人がもういないということも。いない人を描くということは、彼女の意志や尊厳が守られない可能性もあるわけです。それを念頭に読んでいたので、読み終わった後にまず「大丈夫。できるだけ守りたいと思ってやります」という気持ちが生まれたのかなと。
着地点を決めずに臨んだ撮影
こうした厳粛な心構えは、制作に関わる全員が共有することになる。だが誰にも答えは見えていなかったという。何しろ監督自身が「着地点を決めない」という特異なアプローチで臨んだのだ。
入江 この杏のモデルになった女性が最終的に亡くなったという事実はあります。そこは一応、脚本にも書いてある。でも彼女がその直前に何を感じていたか、映画としてどこで終わるかは、決めないままでいいんだと思っていました。不安はいっぱいありましたけど。
河合 大きな指針として共有していたのは、「かわいそうな人」という目線で描かないことでした。こういう人物にしようと決めるのは難しいし、そうすべきではないとも思っていましたから。敬意と指針だけを持っていろいろな可能性を探っていく、それを撮影前から撮影中までずっと続けていましたね。
河合もまた、撮影に入る前に記者と長い時間をかけて話し、実在した女性のことを想像していったという。
河合 記者の方には、「彼女を思い出したときに、パッと出てくるイメージはどんなでしたか」と聞きました。そうしたら、「いつもニコニコ笑っていて、照れて大人の陰に隠れちゃうような、幼い女の子のような印象が強いです」って。脚本を読んだり、その人の境遇を聞いたりしただけでは、たぶん出てこなかったイメージだったので、大きなヒントになりました。
入江 杏に関しては、河合さんが感じていることを見させてもらおうと。河合さんの方が年も近いし、たぶん彼女のことをより深く分かってくれるはずだというのがあって。僕はなるべく余計なことを言わないようにしていました。撮影中はあまりリクエストしなくて、申し訳なかったなと思っているんですけど。
杏という人物をみんなで見つけようという姿勢は、カメラテストにも表れた。通常は監督とスタッフだけで行うところを、河合本人が役の衣装とヘアメイクで参加したという。
入江 この時に、ああもう大丈夫だなと。普段の河合さんとは全然違う姿で、その場所で生活している人になっていた。このまま答えを急がずに一歩ずつ進めば、最後までたどり着けるんじゃないか、という手応えはありましたね。
河合 撮影に入る前に「よし、これで決めた」って思えていたわけではなくて。カメラテストの時に、歩いたり座ったりを自分の身体を通してやってみて、そこからヒントを得ることもありました。字の書き方とか食べ方とか、日常的な動作を一通りしてみて、やっぱり自分と違う環境で育った人だなということを1つ1つ確認していって、だんだん役が立ち上がってきたみたいな感覚です。
デビューしてまだ5年とはいえ、映画やテレビなど40作以上にさまざまな役で出演してきた河合。経験を重ねながらつかんできたのは、物語の全体を見て、他の登場人物たちの中に自分の役がどう存在すべきかということだった。それが今回は違ったという。
河合 他の役とか全体とか、いったん脇に置いて、彼女のことだけにフォーカスしようと。途中からどんどんそうなっていきました。それは、答えがなかったということもあります。答えに向かって役をコントロールすることができなかったから、とにかくできるだけこの人に近づいて日々を過ごしてみる、そんな感じでした。
入江 着地点を決めないで撮ることによって、自分にもこれまでと違う発見がありました。河合さんが語ったことにも近いんですけど、ひたすら寄り添うみたいな。いま彼女が何を思っているのか、それだけを考えればいいと。それは監督としてはすごく幸せな時間だったんですよね。重いシーン、つらいシーンはあるんですけど、ひとりの人に寄り添うってこんなに充実した時間なのかって。それが今回得たもので一番大きかったですね。
映画がもたらす幸せな時間
2人は同じ事務所に所属する間柄。初めて会ったのは、デビューして間もない河合が、若手俳優を集めて行われた入江のワークショップに参加した時だった。
入江 まだ10代だったと思うんですけど、その時から光るものはありましたね。でも印象に残っているのは、その時たまたま帰りの電車が一緒で、2人きりになった時のこと。別にこっちから聞いてないのに、あたしってこういう育ちなんです、みたいなことを突然話し始めた(笑)。別に深刻な内容じゃないんですよ。ただそれを急に言ったのが面白くて。いま思い返すと、その感じがすごく杏みたいだったなと。急に距離が縮まるときの人懐っこさというか。
河合 えー、そんな話をしたんですか!? 5年しか経っていないけど、その時はもっと自分に奔放さがあったのかもしれないですね。でも、たぶん分かり合いたいと、“自己開示”をしたんだと思うんです。今回も、監督と撮影前にたくさんコミュニケーションを取れたのは大きかったですね。
入江 演技がうまい俳優さんはいくらでもいると思うんですよ。でも深いところまでコミュニケーションを取り合える人というのは実は多くない。貴重ですよね。河合優実の身体性によって、僕が頭の中で考えていた杏が具体になり、飛躍的に豊かになった。俳優からいろんなことを教わり、脚本を書きながら考えていたことがくつがえって、自分の視野が広がる経験ができる、これは監督として幸せですよね。それが今回できたのは河合さんのおかげです。
河合 入江さんの脚本を読んだときに、内容以前の気迫みたいなものをキャッチしていたので、それを信じようと思えたんです。主演って、その映画に長い時間関わるから、どこか自分の身体を演出するところもあって、どういう映画にしようという意思が作品に反映されると思うんです。でも今回はぜんぶ監督に預けて、そこにいるだけみたいな、自分の芝居に徹することができた感じがしますね。
入江 冒頭の杏が歩く場面で、ちょっと背をかがめている感じとか、歩幅とか、髪を切るとこんな風に顔が見えてくるんだとか…。カメラマンの浦田秀穂さんも指摘されていましたけど、彼女が前向きになって、どんどん表情が柔和になっていく。その表情が撮れるだけでスタッフはうれしいものなんですよね。
こうして撮影の日々は、スタッフや共演者が、杏と喜怒哀楽を共にしながら過ごす時間になった。観客もその時間が凝縮された114分を過ごし、スクリーンの中の杏を見つめて、感情を揺さぶられる体験をすることだろう。
入江 今回の作品では、語ることの力をすごく感じました。モデルになった女性は亡くなられていますけど、その人について語る、思いをはせる時間が大事なんだなと。撮影前も、現場に入っても、みんながずっと杏という子のことを語っていたんですよね。「杏ってどういう子なんだろう」、「杏だったらどうするだろう」と。『あんのこと』というタイトルは、最初に仮で付けておいて、後で考えるつもりだったんですけど、ああいう現場を過ごしたら、編集の時にこのままでいいなって思えた。今度は映画が”杏のこと“を語り続ける。ここから観客とのコミュニケーションが始まるんですね。
近年、若い世代の一部には、鑑賞後に心を強く揺さぶられ、強烈な余韻が残る映画を避けたがる傾向があるらしい。そんな人たちには残念だが、『あんのこと』はまさにそういう映画だ。だが観た後に残る重く切ない感情は、その人の中できっと形を変えた何かへと昇華していくだろう。
河合 映画を観て、どこかに救いを感じることはできます。ただ、亡くなった人に対しては、意味を成さないかもしれない。でも私が生前の彼女を演じ、たくさんの人と映画を作り、これからいろんな人が観ることになる。そうやって杏の痛みや幸せをみんなで共有することは、もしかしたら救いになるのかなって思いました。
入江 映画って現実を忘れるためにハッピーなものもあっていいと思うんですけど、それだけじゃないですよね。映画から反射されるものによって、現実に新たに気付くみたいなこともあるじゃないですか。 僕は“救いのない映画”こそ、救いになると思っています。自分がそうやって救われて育ってきた人間なので。僕は杏の生き方にすごいエネルギーを感じました。彼女が前を向いた姿勢から、何かとてつもないものをもらう人が、それは若い観客かもしれないですけど、絶対いるはずだと思っていて。そういう人に1人でも出会えたら幸せです。
河合 撮影現場でスタッフの方々と、杏に近い境遇の人たちはこの映画にはたどり着けないんだよねって話していたんです。皮肉なことに、「これはあなたたちの映画だよ」っていう相手には届かない。だからこそ、映画を観た人には、そういう人たちの人生に思いをはせ、想像してほしいですね。杏のような子が、同じ町や同じ電車の車両にいるんだなって。
インタビュー撮影:花井智子
[河合優実]スタイリスト:杉本学子(WHITNEY)、ヘアメイク:上川タカエ(mod’s hair)
取材・文:松本卓也(ニッポンドットコム)
作品情報
- 出演:
河合 優実 佐藤 二朗 稲垣 吾郎
河井 青葉 広岡 由里子 早見 あかり - 監督・脚本:入江 悠
- 撮影:浦田 秀穂
- 製作総指揮:木下 直哉
- 企画:國實 瑞惠
- エグゼグティブプロデューサー:武部 由実子
- 製作:木下グループ 鈍牛倶楽部
- 制作プロダクション:コギトワークス
- 配給:キノフィルムズ
- 上映時間:114分
- 公式サイト:annokoto.jp
- 新宿武蔵野館、丸の内 TOEI、池袋シネマ・ロサほか全国公開中