“親ガチャ”にはずれた少年が星をつかむまで:パティシエ元世界王者の実話を映画化した『パリ・ブレスト 夢をかなえたスイーツ』
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タイトルの「パリ・ブレスト」とは、シュー生地を車輪にかたどった菓子の名前。1891年にフランス北西部ブルターニュ地方の港町ブレストとパリを結ぶ自転車レースが開催され、その記念に作られた。この物語の主人公である若きパティシエ、ヤジッドが得意とするスイーツだ。
だがこれは日本向けに考案されたタイトルで、フランス語の原題は『À la belle étoile』(満天の星の下で)という。それが第一に想起させるのは星空の下で眠ることで、あとで触れるが、ヤジッドの不遇時代を象徴する言葉選びになっている。星はミシュラン・ガイドなどで知られるように、レストランの格付けを表すシンボルでもある。同時に夢や願いの暗喩でもあるだろう。
ヤジッドは恵まれた星の下に生まれた子どもではなかった。幼い頃、母親に育児を放棄され、里親の下に預けられた。しかしここで愛情を受けて育ったことが、その後の人生を成功へと導く基盤となる。映画には、彼がパティシエを志してから、数々の困難を経て、栄光を手に入れるまでの日々が描かれる。
星とともに語られる物語
ヤジッドには実在のモデルがいる。現在パティスリーの世界でトップクラスの実力を認められ、世界を舞台に実業家としても活躍するヤジッド・イシュムラエン氏だ。19歳でパティスリー世界選手権のフランス代表に選ばれ、21歳の時に世界王座に輝いた天才パティシエとして知られる。
映画の原作は2016年に出版された彼の自伝、『Un rêve d’enfant étoilé』だ。直訳すれば「星と輝いた子どもの夢」。ここでもすでにタイトルに「星」を入れていたことを、イシュムラエン氏はこう説明する。
「私の人生において、星は特別な位置を占めています。劇中に出てくるように、私はよく満天の星空の下で眠ることがありました。また、ガストロノミー(美食)の世界では、星は名誉を表します。私はゼロから出発し、やがて星を獲得していった。“星”という言葉は、こうしたさまざまな要素のシンフォニーなのです」
星空の下で眠った、とは詩的な表現だが、訳あって野宿をしたということだ。彼の幼少期から下積み時代にかけての実人生は、映画に描かれた通り苦難の連続だった。
「映画の最初から最後まで、すべてが実際にあったことです。小さい頃、私は里親の家で育ちました。家には2人のお兄さんがいて、ともに大手スーパーでスイーツを作るパティシエでした。よく一家でお菓子を手作りすることがあり、おばさんの喜ぶ顔を見て、私は心の中でこう思いました。僕もいつか人を喜ばせたいなと。これが幼い頃に抱いた夢でした。本のタイトルは、そんな子どもの夢が星となって輝いたことを表しています。私たちの仕事は、星を手に入れることが優秀さの証ですから」
21歳で世界一の栄冠に輝いた早熟の天才は、その2年後にそれまでの人生を振り返った自伝を出版する。これは成長途上の若者がとる行動としては、異例のようにも思われる。
「今の時代、SNSを通じて即座に栄光を手に入れたいと願う人が増えています。しかしそう簡単ではありません。望むものに到達するには、自分に厳しく、常に学ぶ姿勢、意欲と決意がなくてはなりません。しかしそれさえあれば、不可能ではないのです。それはパティシエの世界に限らず、万事に共通することです。恵まれない環境で育ち、失敗ばかりだった私がどのように成功したか、自分より若い世代に伝えたいという思いがありました」
細部にこだわり製作に参加
ところが映画化の話が舞い込んできても、最初は興味を引かれなかったという。
「映画では原作から情報を足したり引いたりするのが常ですよね。私はその足し引きがいやでした。語るべきことを正しく語る必要があると考えた。そこで共同プロデューサーとして製作に加わることを条件に、企画にOKを出したのです。撮影現場に毎日足を運び、陣頭で指揮をしました。こうして、実際に私に起きたことに忠実な物語となったのです」
菓子作りの場面も自ら監修した。スイーツ好きなら胸を躍らすであろう、この映画の見どころの1つだ。イシュムラエン氏は「細部が完璧さを生み、完璧さは細部(些細なこと)ではない」というレオナルド・ダヴィンチの言葉を好んで引用する。
「この映画の価値は、完璧さの追求にあります。ダヴィンチのこの言葉は、映画作りと菓子作り、両方に当てはまるでしょう。これは人生の価値についても言えます。完璧さを求めるとき、結局物を言うのはいくつものディテールです。人生で重要なのは、完璧さに到達するのが難しいとしても、進歩を重ね、小さな自己ベストを更新していくことなんです」
人生を成功に導くのは責任と忍耐
物語の舞台の1つ、エペルネーは彼が生まれ育った町で、シャンパンの産地として知られる。若きヤジッドはここから電車で2時間以上かけて、パリの三ツ星レストランへ修行に通った。故郷で行われた映画のプレミア上映には、里親一家をはじめ、親しい人々が集まり祝福してくれたという。
―観客の1人として、どんな思いで映画を観ましたか?
「昔を思い出して切なくなり、入り混じった感情が胸に押し寄せてきました。いくつかのシーンはあまりにリアルで、涙をこらえられなかったほどです」
―映画を観ると、若い頃の数年間がその後の人生を決定づけたことが分かります。
「私が初めてシェフパティシエになったのは19歳でした。有名シェフのいる三ツ星レストランです。まだシェフになるには技術的にも人間的にも未熟でした。でもシェフらしく堂々と振る舞った。そのせいで人の3倍は苦しみましたが、それが功を奏したのです」
―その後4年で世界王者になるのも異例のスピードですね。
「初めて出場したのは21歳でした。まだ早いのは分かっていましたが、思い切って挑戦しました。こうしたことすべて、実現できたのは私が責任を引き受けたからです。責任は与えられるものではない、自ら引き受けるものだ、これは私の人生訓です。これまでの人生、ずっとそうしてきました。扉を押し開け、人に会いに行き、自分を変え、自分を超え、入りたい世界に入るためにできることは何でもした。これが私のライフストーリーを作っているのです。大いなる力には大いなる責任が伴う。これはスパイダーマンのセリフだったかな(笑)」
―つらい経験をポジティブな結果に変えることができた一番の力は何だったのですか?
「何より忍耐強さです。私の人生はジェットコースターでした。数えきれない失敗があった。それでも粘り強く続けました。私が実際にしてきた失敗は、映画に描かれているより100倍は多いでしょう」
―世界王者になって、実業家としても活躍していますよね?
「現在、私の店は世界に10ほどありますが、閉めた店もたくさんあります。もしすべて成功していたら、店の数は200に達していたでしょう。たまたまうまくいくことなんてありません。10回のうち8回失敗しても、2回成功すればいい。8回の失敗が教訓として生き、残る2回が輝かしいものになるんです。またうまいこと言っちゃったかな(笑)」
―失敗を恐れることはないですか?
「ないです。失敗をたくさんして、それを糧にすることを学んできたから。でも恐れるのは良いことです。それは謙虚さの表れです。うまくいくように、より慎重に準備することになる。ただし、恐れるあまり、身動きが取れないようではいけません。最後には何とかなる。健康な体があって、生きている限りは」
―でも現実は、多くの若者が途中で夢をあきらめてしまいます。あなたはどうして忍耐強く続けられたのですか?
「私は幼少期にたくさん苦しみました。だから何としてでも成功したかった。母はよく酒を飲み、酔うと私と妹をけなしました。母親から悪く言われたら、自己評価の低い人間か、自我の強い人間に育つ。幸い私は後者でした。後で見ていろよと思えたんです。おかげで、常に物事をもっと良くしようと努力する習慣がつきました。かなり極端ですが、自分が叶えたい夢を全部リストにしたんです。私はまだ32歳ですが、それをすべてかなえてしまった。だから明日死んでも悔いはないんです(笑)」
―もう夢はないですか?
「もちろんありますよ。今の夢はビジネスです。世界中に店を開くこと。私は毎朝、何かすごいことをやっているという特別な気持ちで目覚めたい。やりたいのは、ただお菓子を売って、お金を稼ぐことではありません。私が取り組んでいるのは、人が関わり、人の役に立つプロジェクトです。お菓子作りとは、技能と文化を受け継ぎ、伝えていくことです。味、スタイル、愛情、情熱を伝えることでもあります。世界中でたくさんの人々に出会う。これは素晴らしい体験です」
育った環境が生んだ味覚の哲学
―あなたは超高級ホテルや三ツ星レストランはもちろん、ルイ・ヴィトンやショーメといった高級ブランドとのコラボレーションなど、ラグジュアリーな世界で仕事をしてきました。恵まれない家庭で育ったことが不利だと感じたことはありますか?
「逆に強みだと思っています。私は味覚について超シンプルなビジョンを持っている。それは私の庶民的な出身から来ています。私が作るお菓子は、誰もが好む味です。私が味見をして確かめるのはたった1つのことです。里親のおじさんとおばさんが理解できて、気に入ってくれる味かどうか。彼らは美食については何も知りません。おいしいものを食べるのが好きなだけです。2人は私の仕事にとって重要な基準なんです」
―シンプルさ、それがあなたの菓子職人としての哲学なんですね。
「私は素材の組み合わせと食感について高度な探究を重ね、シンプルでピュアな味を追求してきました。私と同じような“庶民の化学”に通じていないシェフは、たくさんの材料を混ぜる傾向があります。ビーツにコリアンダー、ローズマリー、柚子、わさび、しょうが、ごま…。口に入れた瞬間、何がなんだか分からない。でもお客さんが無知なわけじゃありません。出されたものが突拍子もないだけです(笑)」
「私の菓子作りの哲学は、3つの風味には3つの素材、それだけです。これを私に教えてくれたのは、ジョエル・ロブションでした。日本をはじめ世界中にレストランをオープンして、世界で最も多くの星を獲得した偉大なシェフが違いを見せつけたのは、シンプルな“ピュレ”でした。材料はジャガイモ、バター、牛乳の3つだけ。世界中からこれを食べに人々が高いお金を払って集まってきたのです」
―シンプルに素材の味を追求するのは和食と共通するものがありますね。
「だから私は日本料理が世界で一番好きなんです。もちろん、私が子どもの頃から食べてきたフランス料理は大好きですが、いろんなものが入り過ぎている。有名なブッフ・ブルギニョンなんて、あれこれ入れて15時間も煮込むんです。さっきも寿司屋に行って、目の前で職人さんが1つ1つ握ってくれた寿司をいただきました。所作がとてもエレガントで、いわば食のピアニストだった。味付けは、ほんの少しの塩や醤油に、わさびだけ。シンプルで、ピュアで、クリア。完璧です。私の仕事に対するビジョンとまったく同じなんです」
撮影:花井智子
取材・文:松本卓也(ニッポンドットコム)
作品情報
- 監督:セバスチャン・テュラール
- 脚本:セドリック・イド
- 出演:リアド・ベライシュ、ルブナ・アビダル、クリスティーヌ・シティ、パトリック・ダスマサオ、フェニックス・ブロサール、リカ・ミナモト
- 製作年:2023年
- 製作国:フランス
- 上映時間:110分
- 配給:ハーク
- 公式サイト:hark3.com/parisbrest
- ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国公開中