
映画『市子』:プロポーズ翌日に恋人が消えた? 主演・杉咲花を輝かせる若葉竜也と戸田彬弘監督の迫真力
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自作の戯曲を映画化するには
原作の舞台「川辺市子のために」が初演されたのは2015年のこと。「存在しているのに、存在していないことにされている人の話が書けないだろうか」と考えた戸田監督はある日、「少年期に、途中で“下の名前”が変わった友人もいた」ことを思い出す。
「自分の責任ではなく、社会や制度、家庭環境などによって生きづらさを抱えていた人たちがいたこと」に気づき、名前を変え、年齢を偽り、社会から逃れるようにして生きながらえてきた女性の半生を物語に書いた。
両親の離婚などによって「上の名前=苗字」が変わること自体は、それほど珍しくない。だが、「下の名前が変わる」とは、いったいどういうことなのか。その答えこそ、まさにこの物語の「ミステリーの真髄」となる、重要なモチーフなのだ。
戸田彬弘監督『市子』の主人公を演じる杉咲花 ©2023 映画「市子」製作委員会
劇団の旗揚げ公演作品となったこの戯曲は、サンモールスタジオ選定賞2015最優秀脚本賞を受賞。「実在する人物の半生がモデルになっていると錯覚するほどリアルだった」と評された。
今回、戸田はこの作品を自ら監督として映画化するにあたって、戯曲を書く際にも作成した市子の年表をさらに緻密にブラッシュアップする。市子の生年にあたる1987年から、長谷川と出会い2015年に失踪するまでの年月を、時代ごとに現実の日本の社会情勢を反映させて書き出した。何度も時系列を入れ替える手法を用いて、市子と関わりのあった人々の証言をもとに、彼女の複雑な人物像を浮き彫りにしていく。
コロナ禍を挟み、決定稿まで24回の改稿を重ね、2年近くかけて台本を練り上げたという。異なる表現媒体で同じテーマの作品を生み出す過程について、戸田監督はこう振り返る。
戸田 彬弘 同じ演目や役柄でも、もちろん俳優さんによって表現は変わってきます。何より舞台と映画では、作品が生まれる状況からして圧倒的な違いがありますよね。稽古場で何度も何度も反復し、1つのゴール地点を皆で共有しながら作り上げて本番に乗り込む演劇と違って、映画は二度と再現できない瞬間をカメラに収めたもの。撮影当日のロケ地の天候や、前後のシーンの撮影状況など、さまざまな影響があります。ですから、できる限り役者に何度も同じ芝居を求めることはせず、現場で起きるすべての物事に対してポジティブに捉えるように心がけています。
若葉が「台本をあまり読まない」理由
主役には、NHKの朝ドラ「おちょやん」(20)で主演経験のある杉咲花に白羽の矢を立てた。「関西弁が話せる上に、語らずに目や佇まいで人の深みを体現でき、高校生から28歳までを演じられる女優」という視点からだ。直筆の手紙で映画『市子』に込めた熱い思いを伝えたという。杉咲もそれに全身全霊で応えるように、すさまじい熱量で市子を演じきった。
一方、失踪した市子の行方を追う物語の主軸となる恋人の長谷川義則を繊細に演じているのが若葉竜也だ。「おちょやん」や『杉咲花の撮休/第2話・ちいさな午後』(23/WOWOW)で杉咲と共演した経験を持つ。「戸田組」で再共演を果たした印象を尋ねると、「杉咲さんをはじめ、あの現場にいる1人1人が、プロとして思考を巡らせていたような気がします」との答えが返ってきた。
高校生から28歳までを杉咲花が全身全霊をかけて演じきる ©2023 映画「市子」製作委員会
若葉竜也 役者や監督はもちろんのこと、現場のあらゆる部署のスタッフの向き合い方がすごくクリエイティブだったことが、僕のなかではとても印象的で。ただ言われたことをやるのではなく、常にいろんなアイデアが飛び交っている現場だなと感じました。
若葉演じる長谷川は、ある事件をきっかけに市子を捜索している刑事の後藤(宇野祥平)と共に市子の足跡を追う。彼女の幼なじみや高校時代の同級生、バイト先の同僚などの証言により、かつての市子は違う名前を名乗っていたことが判明する。そして、一枚の写真の裏に書かれた住所から、市子の母・なつみ(中村ゆり)のもとへたどり着く。
若葉 宇野さんも中村さんも共演したのは初めてでしたが、同じ役者同士、芝居を交わさずとも現場に佇んでいる時の視点を見れば、これまでどういうことをやってきた人なのか大体分かるんです。自分がいかに目立つかとかではなく、自分がどこに立っていれば映画がよくなるかが分かっている方々なので、僕はすぐ信頼できました。
戸田 役作りの具体的なアイデアって、役者の皆さんはあまりしゃべらないものなんですけど、若葉くんの場合は結構しゃべってくれて。台本もあんまり読まないようにしていましたよね?
若葉 そうですね。市子の過去に触れるパートについては、現場に入るまで、確か2、3回ざっと流し読みしたくらいです。
戸田 演劇の場合は基本的に通し稽古をするので、共演者のセリフもすべて入ってしまうものなんです。若葉くんのアプローチは「映画ならではで面白いな」と感じる一方で、「怖くないのかな」とも思っていて。
長谷川と共に市子の行方を追う刑事・後藤を演じるのは宇野祥平 ©2023 映画「市子」製作委員会
若葉 いや、とてつもなく怖いですよ。でも、先ほど戸田監督も話していたように、映画は演劇と違って、「奇跡」みたいな瞬間が1回撮れたら勝ちだと僕は思うので。その奇跡を1テイク目で出そうが、30テイク目で出そうが、完成した映画を観ている人には関係ない。その1回を撮れる監督と、その1回を叩き出せる役者が出会ったときに、本当にいいシーンが生まれると僕は思っていて。これは僕の経験上ですが、役者が自信満々の状態で芝居をするよりも、ともすれば、「セリフを覚えてないだけなんじゃないの?」って周りから思われかねないくらいの安定しない状態でやったときに出てくるものの方が、「奇跡」が起きる確率が高いから。どうしたって恐怖との戦いにはなってくるんですよ。
戸田 でも、若葉くんはセリフを覚えていないわけではなかったですよね?
若葉 はい。セリフは入れます。ただ準備としてセリフを忘れる時間を作ります。セリフを一字一句完璧に覚えることより、その奇跡みたいな瞬間を拾い上げる作業こそが、映画にとっては一番大事なことだと思っているので、僕はあえてそうしているんです。戸田組は現場から上がってくるいろんなアイデアを柔軟に取り込んだ上で監督がその都度、的確にジャッジしてくれたので、 僕としてはすごくやりやすかったです。「映画という料理」をおいしくするためにそれぞれの役者が素材を持ち寄って、それを監督が取捨選択しながら調理する。そのためにも、役者は「なぜ自分がここにいるか」をきちんと理解した上で、出口まで監督と一緒に走り抜くことが求められる。
「今日は気分が乗らないから、いいパフォーマンスが出せなかった、みたいなことは絶対ないようにしている」という若葉。役者としてのプロ意識の高さと、戸田組の相性のよさがうかがい知れる。
市子の母・川辺なつみを演じる中村ゆり ©2023 映画「市子」製作委員会
監督と俳優にとっての「リアル」とは
映画の終盤近くに描かれる、失踪する前の市子と長谷川との3年間に及ぶシーンは、若葉がクランクインした日に1日で撮影されたというが、いくら過去に共演経験があるとはいえ、恋人同士として過ごした3年もの月日の流れを現場入り直後に体現するのは並大抵のことではないはずだ。その場面の2人の芝居がいかに素晴らしいかについては、ぜひとも映画で確かめてもらいたいが、若葉はその理由をこともなげにこう言った。
若葉 多分、クランクイン直後で心身共に疲れてなかったからじゃないですか(笑)。それがスクリーンにもそのまま映っているから、結果としてああいう芝居になった。でも、現場に入って数日経つと、肉体的にも、精神的にもだんだん疲弊していくんです。その過程が、長谷川がたどる道筋と、うまい具合にリンクしたんだと思います。今回はそのやり方が、嘘がなくて一番いい方法だった気がします。
戸田 市子の年表順に撮影を進めていったので、杉咲さんは若葉くんよりも少し先に現場入りしていて、しばらく高校時代のシーンを撮っていたんです。市子がずっと求めていたものがやっと手に入って幸せな日々を生きられる。そんな若葉くんとの撮影を、杉咲さん自身も心待ちにしていたので、それもうまく乗っかったんじゃないかと。その翌日に撮ったプロポーズシーンを境に、現場でも2人はしばらく会わなくなっていくので。
自身について「頭の中で作り上げたものをスタッフやキャストに再現してもらいたいタイプの演出家や監督ではないかもしれない」と語る戸田監督。特に今回の『市子』に関しては、こんな狙いがあった。
戸田 観客に「市子は特別な人間ではなく、自分たちと同じ世界にいる存在なんだ」と感じてもらえるような作品にしようと。だからカメラワークにしても、俳優の演出にしても、細かく段取りを決め、芝居をチョイスし、何テイクも重ねていくと“生々しさ”が消えてしまう気がして。たとえ多少ピントが甘くとも、できる限り最初のテイクを生かして現場で生まれるリアルを大切にしました。
そう考えたのは、『市子』が民法やネグレクト、ヤングケアラーなど、現代社会が抱える問題をはらんだ映画だからだ。
戸田 市子が生きてきた背景や、それまでに取ってきた行動をすべて知った上で、「皆さんは彼女をどう思いますか?」と、観客一人ひとりに問いかけたい。彼女のことを許せないと思うのか。それとも許せるのか。そもそも「正しさ」とは何なのか。これ以上、市子のような人間を生まないためにはどうすればいいのか。身近な人のことでさえも理解するのは難しく、「正しさ」だけでは決して測れないことがあることを、映画を観て考えてくれたら嬉しいです。
若葉も観客に「これは対岸の火事ではない」と思ってもらえるように、想像力を喚起できたらと話す。ただ、“戸田組の一員”として、観た人全員から「すごくいい映画だった」と言われたい反面、“最上竜也”(本名)としては違う思いもあるという。最後にこう胸の内を明かした。
若葉 「誰にでも」じゃなく「誰かに」でいい。虚無感に苛まれている、寂しくてどうしようもない誰かに、この映画が思いきり突き刺さればいいって。この作品に限らず、映画を作っている時はもちろん6割くらいは「大ヒットしてほしい」と思っていますけど(笑)、残りの4割くらいは、そのたった1人の誰かのためにいつも映画を作っているような気がします。
〈若葉竜也〉ヘアメイク=FUJIU JIMI/スタイリスト=Toshio Takeda(MILD)
撮影=花井 智子
取材・文=渡邊 玲子
作品情報
- 出演:
杉咲 花 若葉 竜也
森永 悠希 倉 悠貴 中田 青渚 石川 瑠華 大浦 千佳
渡辺 大知 宇野 祥平 中村 ゆり - 監督:戸田 彬弘
- 原作:戯曲「川辺市子のために」(戸田 彬弘)
- 脚本:上村 奈帆 戸田 彬弘
- 音楽:茂野 雅道
- 配給:ハピネットファントム・スタジオ
- 製作国:日本
- 製作年:2023年
- 上映時間:126分
- 公式サイト:https://happinet-phantom.com/ichiko-movie/index.html
- 12月8日(金)テアトル新宿、TOHOシネマズ シャンテほか、全国公開