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映画『キリエのうた』:岩井俊二がアイナ・ジ・エンドと広瀬すずのコンビで描く“歌がつなぐ希望”

Cinema

岩井俊二監督の最新作は、『スワロウテイル』(1996)や『リリイ・シュシュのすべて』(2001)、『ラストレター』(20)でタッグを組んだ小林武史と奏でる音楽映画。楽器を持たないパンクバンド「BiSH」を経てソロで活躍するアーティスト、アイナ・ジ・エンドを主演に迎え、歌の力で人生の一歩を踏み出す女性の物語だ。唯一無二の歌声を生んだ背景の謎を追いながら、そこに渦巻く人間模様を松村北斗(SixTONES)、黒木華、広瀬すずら多彩なキャストで描く。

歌うことでしか“声”を出せない、路上ミュージシャンのキリエ(アイナ・ジ・エンド)、失踪したフィアンセを探し続ける夏彦(松村北斗)、小学校教師の風美(ふみ/黒木華)、キリエのマネージャーを買って出るイッコ(広瀬すず)。出会いと別れを繰り返す4人の、13年にわたる壮大な物語が、約3時間かけて綴られる『キリエのうた』。

イッコ(広瀬すず)は新宿の路上でキリエ(アイナ・ジ・エンド)の歌と出会う ©2023 Kyrie Film Ban
イッコ(広瀬すず)は新宿の路上でキリエ(アイナ・ジ・エンド)の歌と出会う ©2023 Kyrie Film Ban

舞台を、石巻、大阪、帯広、東京と自在に行き来させながら(新宿の路上で、キリエが最初にイッコに聴かせた曲名が『名前のない街』というのも示唆的だ。彼女は「知らない世界知りたいの」とシャウトする)、さらには時系列もバラバラの複雑な構成だが、岩井俊二監督らしい縦横無尽な世界観は、観る者の視界を広げて、世界の奥行きを感じさせる。作中、印象的なシーンがある。4世紀末につくられた古墳近くの、おおきな木の下で、これまでの自分の人生について「どこから話せばいいか」と戸惑う夏彦に、初対面の風美は「どこからでも。好きなように」と微笑む。デリケートな会話のように、彼らの物語は、さりげなく、やさしく紡がれていく。

場所や時間に加えて、登場人物たちの名前も自由奔放だ。東京で再会したとき、キリエとイッコは、以前とは異なる名を名乗っていた。小塚路花(るか)、広澤真緒里という過去を捨てたことにわだかまりを見せることなく、むしろよろこびをもって、お互いの新しい名を受け容れるふたり。夏彦や風美は、SNSのアカウント名を駆使して、遠く離れた場所にいる人と出会う。キリエの音楽仲間となる松坂珈琲(笠原秀幸)や風琴(ふうきん/村上虹郎)、山茶花(さざんか/霜降り明星・粗品)らは、それぞれアーティスト名で活動している。

夏彦(松村北斗)は「イワン」と呼ばれる少女(矢山花)を保護する小学校教師の風美(黒木華)に自身の過去を打ち明ける ©2023 Kyrie Film Ban
夏彦(松村北斗)は「イワン」と呼ばれる少女(矢山花)を保護する小学校教師の風美(黒木華)に自身の過去を打ち明ける ©2023 Kyrie Film Ban

自分が好きにつけた名前で、銘々が不便なく暮らす状況下で、「イワン」と呼ばれる少女(矢山花)の本名が判明した後、彼女の身に起こる悲劇が語られるところは、岩井映画らしいポイントと言えるだろう。例えば『スワロウテイル』の資本主義や『リリイ・シュシュのすべて』のいじめなど、岩井映画では常に、フィクションの中に、リアルな社会的テーマが落とし込まれてきた。本作の、本名ひいては戸籍制度に対する岩井監督の冷徹な眼差しには、震災後の日本を描いた『リップヴァンウィンクルの花嫁』(16)に通底するものを感じる。

また、本作の登場人物たちの肩書きや関係性も、社会の枠組みから少し外れている。まだプロデビューしていないキリエ、音楽業界に無知なイッコ、いつもランドセルを背負っているのに学校に行っていない少女、血のつながらない妹、未婚だが家の鍵や財布を預かるカップル……。原作小説(文春文庫)によれば、夏彦も 、育児に興味のない母親と離れ、祖父母の家で少年時代を過ごしている。あるいは、児童にも保護者にも頼りにされていない教師や、男の心変わりで家計が一変してしまうスナックのママなど、よるべない人々ばかりだ。

イッコはキリエをアーティストとしてプロデュースしていく ©2023 Kyrie Film Ban
イッコはキリエをアーティストとしてプロデュースしていく ©2023 Kyrie Film Ban

かような個人と個人を、キリエの力強い歌がつないでいく。歌を「人の人生変えたりするもの」と言うイッコは、キリエのアーティスト人生を、魔法のようにプロデュースする。客寄せのために有名なカバー曲を盛り込んだセットリストや、ステージ場所の開拓、グッズ制作や動画のアップ、オーディションのセッティングなど、キリエひとりでは思いもつかなかった、さまざまなアイデアを出して、光を当てていく。なかでもいちばんの手腕は、あざとい演出として考案されたステージ衣装だ。ライブが行われる現場で、トレードマークの青いワンピースに着替えるキリエのパフォーマンスを、風琴は「あれに着替える瞬間に、キリエはミューズに変身する」「奇跡の瞬間」だと熱弁する。

実は、本作は「奇跡の瞬間」から始まり、「奇跡の瞬間」で終わる映画とも言える。冒頭は、イッコが初めてキリエの歌声を聴いたとき。原作小説には、そのときの心情がこう書かれている。「こんな歌の上手い子に出会ったことがないと思った。自分もかなり自信があったが、その自信は過信だったと素直に思えた。ずっと聴いていたかった(以下略)」。キリエの歌声に、自分の知らなかった、広大な世界を見たのだろう。イッコはその数ヶ月後、地元を出ていく。映画では二度、このシーンが登場するが、憧れを体現したような広瀬のピュアな眼差しは、雪の白さよりも眩い。もうひとつの奇跡は、野外フェスのステージに立ったキリエが、群集の前で『キリエ・憐れみの讃歌』を堂々と歌いあげた瞬間だ。映画を観ている私たちは、映画の中の登場人物たちと一緒に、美しいミューズが誕生する奇跡を目撃することになる。

キリエは路上ミュージシャンの風琴(村上虹郎)と出会い、音楽仲間の輪を広げていく ©2023 Kyrie Film Ban
キリエは路上ミュージシャンの風琴(村上虹郎)と出会い、音楽仲間の輪を広げていく ©2023 Kyrie Film Ban

東日本大震災から12年、本作で岩井監督は、現代日本を取り巻く絶望のムードに呑まれることなく、生きる希望を探ろうとしたのではないだろうか。幽霊を召喚するお盆の儀式(ユニークなシーン!)が盛大に行われるこの国で、いつかまたイッコがキリエと、夏彦がフィアンセと、出会うかもしれない可能性に、筆者は救いを感じた。

そして2010年、狭い台所でも、プラットフォームでもところ構わず、習いはじめたバレエに夢中だった少女が、密やかに踊り続けていたら、図らずもおおきな海へとたどり着いたように。遮るもののない浜辺でダイナミックに踊るたしかな姿は、13年の軌跡である。パワフルなダンスシーンで流れる『ひとりが好き』の歌詞が、映画を観終わったいまも耳に残る。どこにいても、どんなときも、自分の“声”で語ることを、簡単に手放してしまわぬように。そんなエールが聴こえてくるような、タフでチャーミングな映画だ。

©2023 Kyrie Film Ban
©2023 Kyrie Film Ban

©2023 Kyrie Film Ban
©2023 Kyrie Film Ban

作品情報

  • 原作・脚本・監督:岩井 俊二
  • 企画・プロデュース:紀伊 宗之(『孤狼の⾎』シリーズ『シン・仮⾯ライダー』『リボルバー・リリー』他)
  • 出演者:アイナ・ジ・エンド 松村 北⽃ 黒木 華 / 広瀬 すず
  • 制作:ロックウェルアイズ
  • 配給:東映
  • 製作年:2023年
  • 製作国:日本
  • 上映時間:178分
  • 公式サイト:https://kyrie-movie.com/
  • 2023年10⽉13⽇(⾦)全国公開

予告編

バナー写真:映画『キリエのうた』アイナ・ジ・エンド(中央)、松村北斗(SixTONES)、広瀬すず ©2023 Kyrie Film Ban

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