映画『彼女のいない部屋』:マチュー・アマルリックが離ればなれの家族を通して描く想像の力
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『彼女のいない部屋』は、音楽が先行する印象的なタイトルバックで幕を開ける。黒い背景にオープニングクレジットが現われたかと思うと、そこに陽光が射す。ただの黒ではなく、木の枝と葉が作る陰だったのだ。監督のマチュー・アマルリックがブルターニュ地方の自宅の庭で、息子の手を借り、枝を開いたり閉じたりしてもらいながら撮ったという。
アイディアを出したのは、長年にわたり監督の作品でタイトルデザインを手がけてきたオリヴィエ・マルケジー。フランス発の映像作品で特異な存在感を放つスペシャリスト集団「ブリガード・デュ・ティトル」(タイトルの旅団)を率い、アマルリックからは撮影前にシナリオを渡されるほど信頼を得ているデザイナーだ。
このオープニングの数秒で音と映像の美に対するこだわりは相当のものだと感じる。アマルリックは常に細部にまで徹底して意識を払い、手作り感覚を大切にしながら、ほぼ同じ仲間と映画を作り続けてきた。ところが作品の「美的なテイスト」について問うと、返ってきたのはこんな答えだ。
「考えない。少なくとも、美的という言葉を僕らは使わないんだ。どんな音にするか、どんな映像にするか、音声のオリヴィエ・モーヴザン、撮影のクリストフ・ボーカルヌと一緒に探していくだけだ。今回の撮影前、僕は彼らにこう言った。この映画を映し出すのはクラリスだ。彼女が映像を作るんだと」
クラリスというのは、この物語の主人公だ。謎めいて聞こえる監督の言葉は、映画を観れば本当の意味が分かるのだが、ここでは核心に触れないように、発言を選り分けながら書き進めなければならない。
「クラリスには、1970年代のアメリカ映画のテイストがあるんじゃないかって考えた。彼女は自分を『雨のなかの女』(フランシス・フォード・コッポラ監督、1969年)のヒロインのように考えているかもしれないと。ある日突然、車に飛び乗って家を出ていく女性だ。僕はまずこの映画をクリストフに観てもらった。美的感覚について言うなら、こんなところから出発したんだ」
家を出て狂気と戯れる女
物語に描かれるのは、ある4人家族だ。妻であり母であるクラリスは、夫、娘、息子の3人と離ればなれでいる。映画の冒頭、彼女は家族の思い出が写ったポラロイド写真を使って、神経衰弱ゲームをしている。ゲームといってもそこに楽しさはない。まさしく神経をすり減らしているかのようにいらだち、「やり直し、やり直し…、やり直さなきゃ!」と叫ぶ。
それからオープニングのタイトルが日射しの手前に現われて画面が暗転すると、今度は明け方だ。クラリスは意を決して家を出る。彼女に何があったのか。物語はその謎に沿って進んでいく。
原作はフランスの女性作家クロディーヌ・ガレアが2003年に書いた戯曲『Je reviens de loin』(私は遠くから戻ってきた)。これを読んで魅了された監督は、わずか9日でシナリオの初稿を書いたという。そして書き上げる前、クラリス役にヴィッキー・クリープス(『ベルイマン島にて』)の起用を思いつき、本人に会った。
「これこそ出会いと呼ぶべきものだった。彼女の存在がシナリオに広がりと奥行きを与え、魔法をかけた。シナリオは紙に書かれたものに過ぎない。彼女はそこに肉体と感情とゆらぎをもたらしたんだ。心理、定理、原理、理性...そうしたすべての対極にあるものを」
ヴィッキー・クリープスはルクセンブルク生まれ。フランス語を流ちょうに話すが、ネイティブではない。原作ではフランス人だった主人公が、映画ではドイツ語を話す外国人という設定になった。
「彼女がフランス語を話すときのなまりが好きだ。それから、映画の中で言語を混ぜるのも好きなんだ。素晴らしい効果が生まれる。それで主人公をカミーユからクラリスに変えた。ロベルト・ムージル(※1)に対する僕の執着だね。『特性のない男』に登場する正気を失った女性の名前なんだ。狂気に陥らないために狂気と戯れる女性を描きたかった。人は誰しも、日々そうやって自分を守っているんじゃないかと思ってね」
ピアノが奏でる物語の旋律
クラリス役が決まると、アマルリックは考えた。「彼女にぴったりの夫を見つけてあげなきゃな」。夫マルク役にアリエ・ワルトアルテを選んだ決め手についてこう話す。
「夫婦なのに、一緒にいる場面はほとんどない。最初は2人が出会うディスコのシーンしかなかったんだ。でもそれじゃあんまりだと思い、最後の最後になって1つのベッドにいるところを撮った。観客には、2人が離ればなれでいることのつらさが伝わらなければならない。肉体的(物理的)な欠如を感じてもらわないと。アリエはその点で並外れて身体的な存在感を持った男だ」
夫婦の間には一男一女がいるが、監督は姉のリュシーに重要な役割を負わせる。弟ポールのキャラクターに姉ほどの陰影が描かれないのにはわけがある。これは母の物語で、男の子は母にとって未知の存在なのだ。リュシーはピアノを習っていて、監督の映画作りにおいて不可分な要素である音楽が、この作品でも中心的な位置を占める。
「子どもにピアノを習わせる母親には、期待や失望といった特有の思いが生じるはずだ。僕もピアノを習っていたからよく分かる。15歳でやめてしまって、その後悔をずっと引きずっているんだ。今回は作品の中に音楽史を持ち込む試みをやってみたかった」
ラモー、ベートーベン、ラフマニノフ、ドビュッシー、シェーンベルク、リゲティ......。バロック、古典派から現代音楽まで、オープニングとエンディング以外のピアノ曲は、リュシー役を演じた2人の少女が実際に弾いた演奏のライブ録音だという。序盤で「エリーゼのために」をたどたどしく練習していた幼いリュシーが、いつしか「ピアノソナタ第一番」を弾きこなし、やがて15歳に成長して演奏で自分を表現できるようになる。これらの音楽によって映画の旋律そのものが奏でられていく。
現実と想像が等距離の世界
スクリーンには、家を出たクラリスの旅先での様子と、彼女のいない家族3人の生活風景が交互に映し出される。それぞれの時間、空間、視点はばらばらに見える。その相互関係は少しずつ、微細で断片的な手がかりとともに明かされていく。
「これは現実と虚構が入り混じる物語なんだ。クリストフと僕は、現実と“想像されたもの”を等距離に、同じやり方で撮ろうと決めていた。それはわざわざ話すまでもなかった」
例えば時系列が入り組んだ作品では、回想シーンの色調や撮り方を変えて、観客に分かりやすいように視覚的な違いをつけるのがよくある手法だ。しかしアマルリックと撮影監督のクリストフ・ボーカルヌにとって、それを使わないことこそ自然な選択だった。そこがこの映画の核心になっている。単純に時間と空間の問題ではないのだと。
「愛する人との別れに気も狂わんばかりになって、死んでしまうんじゃないかと思う。極限の苦しみの中にあって、愛する人を強く思う。そんな時、想像の中で相手は実在しているんだ。フィルターなんてかかっていない」
そのかわり、映像や音の断片の重なりや、微妙なずれ、背後に繰り返されるフレーズ、その配列に細心の配慮がなされている。クラリスと家族3人に何が起きているのか、観客は迷路に入り込み、推理、懐疑、否定、発見の一進一退を繰り返しながら、少しずつ見えてくるものを受け止めていく。
まぶたの裏に見えるもの
撮影は3回に分けて行われた。2019年春に始まり、その後、間をおいて秋と冬のシーンを撮った。
「次の撮影が始まるまでの間に編集をした。これが僕の好むやり方だ。いったん観客になって、自分の反応を確かめてみる。そこから次の撮影を考える。3回目の撮影では、ヴィッキーにこう言った。きみが悲しむのをもう見たくない。だから忘れよう。ここからは楽しいことをやろうと。この映画において美しいのは、その明暗の対比なんだ」
こうして私たちの目に、ヴィッキー・クリープスという女優の身体と声を通して、輝くような生の歓喜と死を見つめる静けさが同居した、忘れがたい一人の女性の姿が焼き付けられる。世の中に家族が登場する映画は山ほどあるが、これはそのどれとも違っている。
「家族をテーマに映画を作ったわけじゃないからね。この映画にジャンルを与えるとしたら、幽霊映画かメロドラマだ。観客には、この夫婦がどれほど愛し合っていて、肉体的な喜びを求め合うのが好きかを感じてほしかった。そこに子どもたちもいる。愛し合う行為から子どもが生まれるのだから。確かにこれを家族と呼ぶんだろうけどね。でもそれより、僕が原作を読んで感動したのは、主人公がとった行動、想像するという行為そのものなんだ」
インタビュー撮影=花井 智子
取材・文=松本 卓也(ニッポンドットコム)
作品情報
- 監督: マチュー・アマルリック
- 出演:ヴィッキー・クリープス(『ファントム・スレッド』『オールド』)、アリエ・ワルトアルテ(『Girl/ガール』)
- 製作年:2021年
- 製作国:フランス
- 上映時間:97分
- 配給:ムヴィオラ
- 公式サイト:https://moviola.jp/kanojo/
- 全国順次公開中
予告編
(※1) ^ ロベルト・ムージル(1880-1942) オーストリアの作家。未完の大作『特性のない男』で世界的な評価を受ける。マチュー・アマルリックは現在、同作を映像化するプロジェクトに挑んでいる。