映画『みんなのヴァカンス』:フランスの奇才ギヨーム・ブラック監督が“群像劇”風に撮るリアルな若者たちの夏
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フランスの映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」をはじめ、各メディアから高い評価を受けたギヨーム・ブラック監督の新作が日本に上陸する。
初期の習作を含まずに、2009年の短編『遭難者』(日本公開は13年)をデビュー作とすると、世に出たのは7本と寡作なブラック監督。しかも7作のうちには、短編や中編、ドキュメンタリーも含まれ、純粋に「長編劇映画」と呼べるのは、今回の『みんなのヴァカンス』が『やさしい人』(13)に続き、ようやく2作目となる。
映画の“尺”をどう考えるか
その長編2作ともきっちり100分。2時間超の映画が少なくない昨今には珍しく、昔ながらのフォーマットに忠実であるかのように見える。しかし特に長さを意識しているわけではないと監督は言う。それどころか、長編と短編、フィクションとドキュメンタリーなどとフォーマットを区別すること自体に抵抗があるようなのだ。
「『みんなのヴァカンス』の撮影が終わって編集に入るとき、この映画は長くなるだろうと思っていました。2時間半とか3時間になってもおかしくないと。『宝島』(18年のドキュメンタリー)を編集している間も、4時間になるかもしれないと思ったんですけどね」
ところが結果的に『宝島』は97分。現時点で100分を超える映画は撮っていないことになる。監督が重視するのは、テンポ、そしてシーンのクオリティだ。
「毎回、もっと長くすることもできたなと思うんです。ところが編集に入って、リズムを考えたとき、私の判断が厳しくなる。物事が動き出すのを早めたいとか、もっとテンポをよくしたいと考えてしまう。そしてクオリティの面で、おそらく他の監督だったら使うようなシーンでも容赦なく切る。編集では素材に対して無情になるんです(笑)。その結果、映画が短くなる傾向はありますね」
「映画は2時間を切るべき」といった強いこだわりがあるわけではない。監督はジャン・ユスターシュによる3時間40分の長尺映画『ママと娼婦』(1973)を好きな作品に挙げてこう話した。
「一映画ファンとしては、長い映画は大好きです。とても強い体験ですから。ただ3時間40分の映画を作るには、その中に強い何かがなくてはなりません。結果としてそこまで長くない映画にするのは、一種の謙虚さの表れだと思います。これは1時間か1時間半で十分だ、それ以上は観客の心をつかみ続けることはできないと。1時間半だって結構な時間です。その中で観客をできるだけ良い気分にしたいんです」
映画の長さを、必ずしも物理的な時間の単位だけで計ろうとはしないようだ。
「最近、38分のドキュメンタリーを作りましたが、38分の間に語ることはたくさんあります。1時間半や2時間かけるより、ずっと多くのことが語れる可能性がある。長くても、退屈させてはしょうがない。観客には与えられた時間の中で最大限のことを体験してほしいんです」
“バカンス群像劇”の成り立ち
監督が言ったように、ストーリー展開のテンポのよさは、『みんなのヴァカンス』にも見事に表れている。
冒頭、主人公のフェリックスが夏の夕暮れ時、お祭り気分にあふれたセーヌ河岸を歩いている。すぐにあたりが暗くなり、同じ川べりのダンス会場が宴たけなわといった風情に変わる。フェリックスはダンスの相手を物色している。ほどなくしてショットが切り替わったときには、もう魅力的な相手とダンスに興じている。この一夜の出会いがわずか3分で語られるのだ。
そこから先の物語は、フェリックスがここで出会ったアルマを、彼女が家族と翌日出かけたバカンス先までサプライズで訪ねる、おかしな「珍道中」として描かれていく。
滞在地が南フランスの田舎町ディーであることを突き止めたフェリックスは、友人のシェリフを誘って、川べりのキャンプとしゃれ込む。移動手段は、ヒッチハイクの現代版、スマホのアプリで探したライドシェアだ。車を運転するエドゥアール、キャンプ場で出会う赤ん坊連れのエレナなど、登場人物たちが徐々に顔をそろえていく。
「まず映画のプロジェクトとして、10人ほどの人物が登場する物語にする必要がありました。どうやって群像劇を作るか、というのが課題になった。ところが私は、取って付けたような設定のシナリオを書くのが苦手です。だからまず1人から始めて、登場人物が雪だるま式に増えていく方法をとりました。出会いがあって、そこに周りの人々が加わって、予測不能なことが起こる。これなら自分にも書けると思ったのです」
撮るのはストーリーではない
フランス特有のバカンス文化を背景として用いながら、描き出すのはあくまで万国共通の人間模様だ。そこに、出自の異なる若者たちを登場させ、その出会いが物語を動かしていく。
「知らない人同士が出会うという状況は、ストーリーを書くのに単純明快なんです。人々が出会った後、何が起こるかを観察して、さまざまなやりとりや反応を想像していけばいい。話の筋がシンプルで具体的であるほど、より深い感情の描写や、ディテールの描き込みができるわけです」
監督にとって、このディテールとは人物そのものであり、あくまで「人と場所を撮ること」に関心がある。物語の筋は二の次だという。
「画面の中に入るものすべてが重要です。この映画の場合は、風景、キャンパー、水浴客などです。背景の川で遊んでいる子どもたちの動きは、役者たちがしていることと同じくらい大事だと考えます。シェリフとエレナが川辺で話すとき、彼女の赤ん坊が遊び、何かを見つめる、そこへ蝶が横切る…、そうしたすべてを私は捉えたいのです」
監督はそのために、試行錯誤を繰り返しながら、対象に応じて入念に画角や撮り方、タイミングを選ぶ。
「私は常に予期せぬものを待っています。偶然を、小さな奇跡をつかまえられるように、すべてを準備しておく。撮影でスタッフが集中するのは、あらゆる作為的なものを最大限消し去ることなんです。映画はどうあがいても人工物でしかない。でもシナリオがあること、さまざまな技術が介入していること、俳優が演技していること、これらを観客になるべく感じさせないようにすることが大事だと思っています。映画と観客の距離をできる限り小さくしたいんです」
こうした独自の撮り方は、小規模な製作体制によってこそ可能になると監督は考える。
「もっと予算のある映画を作る機会はありました。でも意図して避けてきた。私は少人数で、コミュニケーションを重視し、手作り感覚で映画を作ります。撮影の途中でシーンを足したり、土壇場で変更したりすることができる身軽さ、柔軟性が必要なんです」
「ほとんどの監督ができるだけ多くの予算を得ようとする一方で、私はなるべくお金をかけない映画を作ろうとしている。よけいな重圧や責任を負いたくないという思いもあります。ただでさえ、創作の過程で苦しみ悶えているのですから。ただ、お金をかけずに、できるだけ多くの人に観てもらえるにはどうしたらいいか、そこが常に悩みどころです」
役を“肌の色”で決めたりはしない
『みんなのヴァカンス』のプロジェクトは、フランス国立高等演劇学校(CNSAD)から、学生たちをキャストに映画を作ってみないかという提案を受けたのが発端だ。
主役のフェリックスとシェリフは黒人だが、監督が学生の中で最も気に入った2人がたまたまそうであっただけで、物語に合わせて“キャスティング”したのではない。反対に、エリック・ナンチュアングとサリフ・シセの2人を主役にすると決めた後で、どんな映画にするかを考えたという。
「人物の顔や体、声を知ることなしに脚本を書くのは、私にとってあまり自然なやり方ではありません。彼らに出会うまでは何のアイディアも持っていませんでした。物語は全部、学生たちと会って話した後に生まれました」
エリックと最初に会った時のことを振り返る。
「彼はこう言いました。夢はゲーテの『若きウェルテルの悩み』を演じることだ。でもオファーされるのは、ドラッグディーラーかギャング、夜間警備員の役だろう。本当は、恋をした傷つきやすい青年の役をやってみたいんだと」
エリックもサリフも、黒人であることを前面に打ち出した役柄には抵抗を示したという。監督はそれに共感しながら、人種や社会階層の問題がないかのように描くことはできないことを2人に理解してもらった。
「彼らが主人公の映画を撮ると決めましたが、リアルでないなら、やるべきではないと思った。2人に演じてもらう役がどんな人物で何をするのか、それによって何を表現しようとするのか、じっくり考え、本人たちともよく話し合いました」
映画の序盤、フェリックスとシェリフは、パリ郊外に暮らす移民家庭出身の若者の典型的なイメージ通りに映る。
「物語が展開するにつれ、そうした側面は消えてなくなるでしょう。観客が見ているのは、単に恋におちて妄想を抱く2人の若者になる。映画が始まって1時間後には、肌の色は問題でなくなるわけです。脚本を書いた当初は自問自答を繰り返しました。彼らの肌の色が何でもないとは言えないと。しかし1カ月の撮影を終える頃、そういうことを本当にまったく考えなくなっていたのです」
“ナイーブ”に“やさしさ”を描く
こうして『みんなのヴァカンス』は、センチメンタルなタッチで黒人を描いた、フランスでは数少ない映画となった。それでいて人種的マイノリティを強調した「社会派」映画の対極を行き、なおかつリアリティを失うことがない。
「私が常に心がけているのは、登場人物が自分をさらけ出す、予想もできないような面を見せ、物語が進行するにつれて観客が発見していくような映画です。だからといって、最初からそこまで計算して作っているわけでもない。もっと単純に、自分の映画の人物に関心があって、彼らに対して正直になろうとしているだけです。現実においても、人が誰かに関心を持ち、相手を本当に知ろうとすると、そのたびに驚かされる。私も映画で同じことをしようとしているのです」
監督の作品に登場するのは、平凡だが心やさしい人たちだ。何らかの理由によって口論や衝突がありながらも、どこかで“やさしさ”が発揮され、それが事態をうまく収めていく。
「どうも登場人物を意地の悪い人にはできないんです。自分が好きになれるような人たちでないと。彼らには何かしら欠点があるのですが、根は善良です。ただ、日本ではどうか分かりませんが、フランスでは“やさしさ”という言葉はあまり流行らない。ナイーブ(世間知らず、うぶ)と同じ響きがあるんです。ただ私にとって、ナイーブさは最も美しいものの1つです。映画との関係ではナイーブであり続けようと思っています。ナイーブでありながら明晰でありたい。そうすれば観客には、私の登場人物がやさしいのではなく、彼らを取り巻く世界が粗暴なんだと理解してもらえるでしょう」
取材・文=松本卓也(ニッポンドットコム)
作品情報
- 出演:エリック・ナンチュアング、サリフ・シセ、エドゥアール・シュルピス
アスマ・メサウデンヌ、アナ・ブラゴジェヴィッチ、イリナ・ブラック・ラペルーザ - 監督:ギヨーム・ブラック
- 脚本:ギヨーム・ブラック、カトリーヌ・パイエ
- プロダクション: Geko Films
- プロデューサー:グレゴワール・ドゥバイイ
- 共同プロダクション: ARTE France
- 製作年:2020年
- 製作国:フランス
- 上映時間:100分
- 配給:エタンチェ
- 公式サイト:minna-vacances.com
- 2022年8月20日(土)よりユーロスペースほか全国順次公開