キアロスタミさんの思い出:日本における「イラン映画の母」が語る巨匠の素顔
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ドキュメンタリー的な手法を用いながら詩情あふれる独自のスタイルを確立し、世界中の人々を魅了したイランの映画監督、アッバス・キアロスタミ(1940-2016)。没後5年になるが、世界中の映画作家たちに与える影響は、絶えることがない。臨終の地となった映画の都フランス・パリでは、今年5月から7月にかけて回顧展「友だちのキアロスタミはどこ?」が大々的に開催され、幅広い層にさらなる発見をもたらした。
小津安二郎への敬愛を公言し、日本文化に親近感を抱いたキアロスタミ監督だが、その作品が日本にお目見えしたのは、デビューから20年以上を経てようやく1993年のこと。本国で87年に公開された『友だちのうちはどこ?』が、当時の新作『そして人生はつづく』(92)とともに初上陸し、たちまち映画ファンの心をつかんだ。それ以来、日本とは相思相愛の間柄と言っていい。
キアロスタミの日本滞在に不可欠な存在
キアロスタミ監督は生前、映画祭からの招待や自作のプロモーションで何度も日本を訪れた。その通訳・アテンドとして常に傍らにいたのが、イラン出身のショーレ・ゴルパリアンさんだ。1979年から10年間日本に暮らした後、イランに帰国し、国営放送局で日本のテレビドラマや映画の字幕翻訳に携わり、再来日した92年から今度は日本でイラン映画の字幕を担当する。
キアロスタミ監督が初めて来日したのも同じ92年。上記2作品の日本初公開を翌年に控えたタイミングだった。以来ほぼ20年にわたって、二人の付き合いは続く。ショーレさんがこの秋に上梓した『映画の旅びと イランから日本へ』(みすず書房)には、自身の生い立ちや日本との関わり、イラン映画の解説のほか、キアロスタミ監督との思い出がユーモアを交えてたっぷりと紹介されている。親しい人以外には心を開かなかったというキアロスタミ監督の素顔や撮影の裏側が垣間見える、貴重なエピソードばかりだ。
「本当はキアロスタミさんの話だけで1冊の本になるくらい。いや、1冊では書けないくらい、もっともっとあります(笑)。監督が日本に来たのは20回以上になりますが、通訳ですから、仕事をしているときだけでなく、ご飯を食べるときもずっと一緒でした。私がイランに帰るときも、必ず日本のお土産を持ってキアロスタミさんの家に会いに行きました」
ショーレさんが日本映画『沈まぬ太陽』(若松節朗監督、2009)のロケでイランに行ったときは、夜までスケジュールが詰まっていたが、一日の仕事が始まる前の早朝にわざわざ会う時間を作って、一緒に朝食をとるほどの仲だった。
「キアロスタミさんが写っている写真を見れば、これはあのときに買ったシャツだなとか、顔の皮膚がピクッと動くのを見ただけで、ああまた神経痛が出ているなとか、すぐに分かるようになりました。それくらい一緒にいた時間が長かったんですね」
日本で撮影した労作が最後に
固い信頼の絆で結ばれた二人だったが、仲が悪くなってしまったこともある。日本のキャスト・スタッフと日本で撮影した『ライク・サムワン・イン・ラブ』(12)の時だ。ショーレさんは監督補として参加した。
「私は間に入っているじゃないですか。日本のスタッフを守りたかったし、キアロスタミさんも守りたかったので、すごく大変な思いをしました。監督の要求をスタッフに伝え、スタッフができないと言ったのを監督に伝えると、キアロスタミさんは私に『日本人になったな!』と言って怒るんですよ。そんなことが毎日のようにありました」
撮影中、監督は終始不機嫌だったというが、それは日本とイランで映画作りの方法がまったく違ったからだ。
「日本のスタッフは、現場で起こる偶然に対応できません。イランの映画撮影、特にキアロスタミ・スタイルは、現場で考える、その場で起こる偶然をすぐにつかまえる、というやり方なんです。でも日本では、すべてがキチッと決まっていて、決められたところにカメラを置いて、書かれた通りに役者がセリフを言う。エキストラもカチカチに歩く。路上での撮影は、あまりに制限が多かった。その場で何も変えられない。それはキアロスタミさんにとって大変なことだったんです」
日本での撮影中、おそらく監督の体調にはすでに異変が生じていたのではないかとショーレさんは振り返る。撮影後、誤解が生じて二人の間が疎遠になったまま、4年後にキアロスタミは帰らぬ人となってしまう。思いもかけず、『ライク・サムワン・イン・ラブ』は監督の遺作になった。その悲しい別れについては、『映画の旅びと』で読んでほしい。
あの手この手で生み出すリアリティ
アッバス・キアロスタミは1940年、テヘランに生まれる。美術大学を卒業後、児童青少年知育協会でイラストやデザインの仕事をしながら、ドキュメンタリーや教育映画を撮り始める。最初の短編『パンと裏通り』(1970)から17年を経て、『友だちのうちはどこ?』で世界的に知られるようになった。
『友だちのうちはどこ?』は、間違って友だちのノートを家に持ち帰った少年が、その日のうちにノートを返そうと、隣村まで友だちの家を探し歩く物語。イラン北部の小さな村、コケールとポシュテで撮られた。
数年後、その地方を大地震が襲う。村人たちの安否を確認しに監督と息子が村を訪れる、という設定の物語が『そして人生はつづく』だ。その中に、地震の数日後に結婚したエピソードを話す青年が登場する。今度は彼を主人公にして、実は妻役の娘にプロポーズしたが断られていた、という話が展開するのが、『オリーブの林をぬけて』(94)。この3つが「コケール三部作」(あるいは「ジグザグ道三部作」)と呼ばれる。
キアロスタミ作品の特徴の一つは、キャストのほとんどが演技の素人だということだ。しかし、その場で起こったことをただ撮っているように見えて、すべて綿密に計算し尽くされているのだという。キアロスタミは偶然を待ちながら、それが実際に起こるように導いていくのも怠らない。
「相手は演技の素人ですから、いろいろなトリックを使うんですよ。うまくだまして、リアルなリアクションを引き出すんです。キアロスタミさんはそういう魔術というか、催眠術のようなテクニックを使いましたね。彼は私が会った映画監督の中でも、特に頭のいい人でした。すぐに偶然をつかまえて撮るというのは、ものすごく頭の回転が速くないとできませんから」
子どもが泣くシーンでは、本当に泣いてしまうような状況を作る。もちろん子どもをいじめるようなことはせず、切ない感情が自然と湧き上がってくるように仕向けるのだ。いたずら好きだというキアロスタミ監督は、小さなアイディアを次々と思いつく発想力とともに、その思いつきが結果へとつながっていくまでの成り行きを見つめる観察力にもすぐれていた。
「渋谷のスクランブル交差点で大勢の人が行き交う中を歩いていて、キアロスタミさんはこんなことを言いました。この中で一輪の花が道に落ちていることに気付けたら、映画監督になれるよ、と。彼には小さいものを見逃さない才能があったんですね」
巨匠の死が開く新たな時代
そんなキアロスタミにとって、ディテールに目を凝らす日本人は理想的な観客だったとショーレさんは言う。例えば『風が吹くまま』(1999)には、地面を這う昆虫(フンコロガシ)の映像が出てくるが、監督が登壇した上映後の質疑応答で、そのカットを使った理由を質問してきた観客がいたそうだ。
「キアロスタミさんは困った顔をして、私の耳元で言うんです。『分からないよ。たまたま撮ったから使っただけだよ』って(笑)。日本人ほど小さなことを見逃さずに映画を観ている人たちはいないのではないかと、キアロスタミさんは言っていました。私もそう思います。本人も目についたいろいろな小さいものを映画に入れる人だったから、日本人の物の見方が好きだったんですね」
もともと日本人とイラン人の感性には共通点が多いとショーレさんは指摘する。それは昔からイランの一般大衆に日本のドラマや映画が親しまれてきたことにも表れている。特に1979年のイラン革命以後、禁止されたハリウッド映画に代わって、人々は「おしん」に代表されるテレビドラマや、溝口健二、小津安二郎、黒澤明、小林正樹らが監督した黄金時代の日本映画に夢中になった。
映像作品がつなぐ日本イラン間の理解は、キアロスタミをきっかけにようやく双方向になった。彼の作品がこれほどまでに日本人に愛されたのは、キアロスタミ特有のミニマリズムに日本人が昔から親しんできた文化と共鳴するものがあり、彼の「生と死」を静かに見つめるまなざしが、日本人の心に沁みるのではないかとショーレさんは分析する。
「キアロスタミさんの死生観は、とりわけ自殺をテーマにした『桜桃の味』(97)に表れていると思います。彼はあの映画で自殺を礼賛しようとしたのではないと言っています。ただ、われわれには出口(死)があるからこそ、人生のさまざまな苦難にも耐えて、生きていけるんだと。そんな風に死と生を考えた人だったんです」
生前、イラン国内でキアロスタミの作品は、ヒットした『友だちのうちはどこ?』やカンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した『桜桃の味』を除き、一般層まで広く観られていたわけではなかったという。しかし巨匠の死がもたらしたあまりに大きな喪失とともに、逆に新たに存在感を獲得したところもあるようだ。
キアロスタミの墓は、『桜桃の味』のロケ地の近くにある。いつしか彼の墓前には、若者たちが集まるようになった。ギターを弾いて、朝まで歌い明かすという。やがて住民から苦情が出て墓地の周りには高い塀がめぐらされ、門が取り付けられた。キアロスタミは死後、芸術を愛するイランの若者たちのアイコンになったのだ。
そんなキアロスタミ再発見の波が、日本の若い世代にも起こってほしい。シンプルながら深い洞察に富んだ美しい映像は、想像力がもたらす自由の喜びを教えてくれるだろう。
取材・文=松本 卓也(ニッポンドットコム)
バナー写真=アッバス・キアロスタミ監督『オリーブの林をぬけて』©1994 Ciby 2000 - Abbas Kiarostami
そしてキアロスタミはつづく デジタル・リマスター版特集上映
上映作品
- 『トラベラー』 1974年/イラン/モノクロ/35mm/72分
- 『友だちのうちはどこ?』 1987年/イラン/カラー/83分
- 『ホームワーク』 1989年/イラン/カラー/77分/ドキュメンタリー
- 『そして人生はつづく』 1992年/イラン/カラー/95分
- 『オリーブの林をぬけて』 1994年/イラン/カラー/103分
- 『桜桃の味』 1997年/イラン・フランス/カラー/99分
- 『風が吹くまま』 1999年/イラン・フランス/カラー/118分
公式サイト:kiarostamiforever.com
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