映画『茜色に焼かれる』:コロナで「ボロボロ」、絶望の中で石井裕也監督が見上げる空の色
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コロナ以前には存在しなかった物語
相手を選ばず感染を拡げる新型コロナウイルス。しかしそれが与えるダメージは、万人に等しいわけではない。無症状の人もいれば、重篤化して死に至る人もいる。経済的なダメージも然り。生活基盤の不安定な非正規労働者やシングルマザーが狙い撃ちにされ、致命的な困窮にあえいでいる。
その状況を誰よりも先駆けて映画の中で描いてみせたのが、このところ相次いで作品を発表している石井裕也監督だ。最新作『茜色に焼かれる』は、コロナ禍の現在という時代設定に挑んだ人間ドラマで、昨年8月の下旬から1カ月余りで撮影され、異例のスピードで劇場公開を迎えた。
実は石井監督にはもう1本、7月に公開を控えている作品がある。オール韓国ロケで、昨年2月から3月にかけて現地のスタッフとキャストにより撮影された『アジアの天使』だ。これを撮り終えた時点では、『茜色に焼かれる』は監督の頭の片隅にすら存在していなかったという。
韓国での撮影は、コロナの感染が急拡大し始めた頃。撮影後もソウルに留まって編集作業に入る予定を変更し、急きょ帰国せざるを得なくなった監督は、一緒に日本に戻った出演者の池松壮亮らとともに、郊外の一軒家を借りて2週間の自主隔離生活を送った。『アジアの天使』制作の裏話からここまでの経緯は、昨年9月に出版された著書『映画演出・個人的研究課題』(朝日新聞出版)にくわしい。
この2週間の共同生活が終わる頃、最初の緊急事態宣言が出た。そこから数カ月、次作の制作に踏み切るまでの心の動きを、石井監督に振り返ってもらった。
「緊急事態宣言が出て、今年はもう映画は撮れないな、やるべきものもないなって。休もうと思っていた。それが6月くらいに突然、撮りたくなったんですよ」
亡くなった母の年齢に追いつく
昨年の4月、5月といえば、未経験のパンデミックに誰もが動揺し、行動を制限されて多くは家にこもりながら、結論も出ぬままにあれこれと考えをめぐらせていたであろう時期だ。
「ものすごい無力感に襲われていました。ウイルスが環境破壊などでもたらされたという話もあったじゃないですか。それも含めて、大きな話をしてしまいますけど、人間が存在することの悲しさ、むなしさを感じてしまったんです」
映画館は休館を迫られ、数々の映画が公開の延期を余儀なくされた。予定していた撮影がキャンセルになり、途方に暮れた映画関係者も少なくなかったろう。
「映画なんて不要不急と断定されたようなものでしたからね。今まで自分たちが必死にこれが正しいと信じてやってきたものが、実はそんなに価値がなかったんだと言われたような気分でした。自分がいる場所そのものが脅かされたような…、そこまで考えちゃったんですよね」
そんな虚無感を振り払って、再び映画に向き合わせたのは、亡き母への思いだった。石井監督は7歳のときに母を亡くしており、それから30年が経つ。これまでもその影響がうかがえる作品を撮ってきた。
「母親が死んだ年齢を自分が越えた。人から見たら別に大したことじゃないかもしれないんですけど、自分の中では大きかったんですよね。これまで、36歳で死ぬ人生があるっていうのを強烈に意識して生きてきた。極端なことを言うと、36歳で一度人生を終わらせないといけない、そんな時間の感覚の中で生きてきたので」
コロナ禍で揺らいだ存在への疑念に、母親という「自分の存在の一番大きな根拠」で答えようとしたのだ。
「この歳になって死んだ母親の話をするのも恥ずかしいんですけど、今、仮に母親が生きていたとして、幸せだとか、生きててよかったとか言うかなと。そういう心の中での対話があったんです。その母親から生まれ出た自分としては、嘘でもいいから言ってほしいんですよね、生きててよかったし、あんたを生んでよかったって」
コロナ禍を生きぬくシングルマザーに託す思い
やがて生み出されたのが、『茜色に焼かれる』の良子という主人公だ。7年前に夫を交通事故で亡くし、シングルマザーとして一人息子の純平を育てている。事故の加害者は、高齢の元高級官僚。アクセルとブレーキを踏み間違えて事故を起こしたが、アルツハイマーと診断されて罪を免れた。良子は、「謝罪の言葉がない」のを理由に、賠償金を受け取ろうとしない。
良子が経営していた小さなカフェはコロナ禍で破綻。市営団地でつましい生活を送るが、義父の老人ホーム費や、亡夫が別の女性との間につくった娘の養育費まで負担しているため、パートのほかに、こっそりと風俗店でも働かざるを得ない。
「最初に思い浮かべたのは、コロナ禍でこれだけ理不尽にいろんなものが剥奪されていく状況の中、それでも懸命に生きている姿でした。そういう燃え上がるような生、それが今だからこそ撮れると思いました。30年前に死んだ母親を現代によみがえらせて、彼女につらさや悲しみを与えて、それでも必死に生きていく姿を見せてくれと。そういうイメージでした」
良子は独特の倫理観、正義感をもちながら、そのくせ世の中の流れに真っ向から逆らおうとはせず、屈辱的な仕打ちを受け流し、つらい気持ちをため込んでいく。
「去年、コロナでみんないろんな制約を課せられたと思うんですけど、それでも一部の人たちはズルをしてうまくやっていた。なめられてるな、馬鹿にされてるなって、感じなかった人いるのかな? だけど多くの日本人は、そういう怒りを表現できない。だから時間をかけてゆっくりと『なかったこと』にしていくしかない。でも本当にそれでいいのかって…」
面と向かって怒りを表す代わりに、陰でこそこそと鬱憤を晴らす陰湿な社会。この物語で、良子と純平が対決を迫られるのも、ルールを振りかざして他人の行動にやたらと干渉し、弱者を叩きのめす薄情な世間だ。
「ものすごくギスギスしていますよね。正しい情報も相手の感情もすべて遮断して、自分の都合のいいように考える人が多い。そういう社会になってきているのは間違いなくて、そのことに対する問題意識というのは当然あるんです。でも人間という観点で考えたら、まあそうなるのは当たり前で、そうしないと生きていけないのが現代なのかなとも思ってしまう」
石井監督は夏目漱石の『行人』から引いて、良子にこんなことを言わせる。「まともに生きてたら、死ぬか、気が違うか、そうでなければ宗教に入るか、この3つしかないでしょ」と。つまり彼女は、真っ当に生きようとすれば馬鹿を見ると分かっている。しかしそれでも、ズルをせず、分かったふりをせず、愚直に考えながら生きるのが良子のささやかな抵抗なのだ。
希望に向かってまっすぐ立つ
「生きることが、はっきり言ってつらいですよね、今。ボロボロですよ、ボロボロじゃないふりをしていますけど。それ以前からボロボロだったのが、コロナによって暴かれた。それでも何でもないふりを強いられるじゃないですか。普通に社会は回っているよねっていう態度でいなきゃいけないのは、まあちょっとしんどいですよね。こんなにいろんなものが奪われたのに…」
こうして石井監督の言葉を聞いていると、序盤からずっと苦しい胸の内をしまい込んできた良子が、物語の中盤に差し掛かり、ある夜、心を許した風俗店の同僚を相手に、堰を切ったように語る場面と重なってくる。誇張抜きに、石井監督はこの映画を撮らずして生きていけなかったのだろうと思わせる。
「今までの人生で、希望という言葉を使ったことなんてほとんどなかったし、信用ならないものだと思っていました。だけど冷静に考えてみると、そういう手垢が付きまくって、言うのもはばかられるような言葉の中にこそ、本当に人間に必要なものがあるのは間違いないじゃないですか。今まではそれを、手を変え、品を変え、愛とか希望とかいう言葉を使わずにやってきた。でも、それまで信じてきたものとか、価値観がグラグラに崩れかかっている不安定な状況になって、そんな気障ったらしい態度を捨て、もう正々堂々と、愛と希望に立ち向かわないといけないなと思った」
最初の緊急事態宣言が全国で解除されてから3カ月、社会全体が徐々に活動を再開しつつあった状況とはいえ、「何かあったら、もう2度と映画が撮れなくなるかもしれない」という危機意識から、「そうまでしてやるべきものなのか」を徹底的に考え抜いたという。それでも撮らずにいられないと判断した監督の下、「死んでもやる」と言い切った主演の尾野真千子をはじめ、キャストとスタッフが心意気一つで集まった。その美しい成果を、ぜひこのタイミングで多くの人に目撃してほしい。
「個人的なことも扱っていますし、まだ冷静に自分で振り返られてはいないですけど、この時期にしかできないものにはなっていると思います。この世界に希望がありますって言うのは無責任じゃないかと感じていましたけど、少なくともこの映画のラスト近くで見せたような、奇跡みたいな、嘘みたいな色の空、ああいうものに出くわす可能性はあるんだ、今までの人生で1度か2度はあったんだってことは、ちゃんと言っておきたいんです」
インタビュー撮影=花井 智子
取材・文=松本 卓也(ニッポンドットコム)
作品情報
- 出演:尾野 真千子 和田 庵 片山 友希 / オダギリジョー 永瀬 正敏
- 監督・脚本・編集:石井 裕也
- 『茜色に焼かれる』フィルムパートナーズ:朝日新聞社 RIKIプロジェクト
- 製作幹事:朝日新聞社 制作プロダクション:RIKIプロジェクト
- 配給:フィルムランド 朝日新聞社 スターサンズ
- 製作年:2021年
- 製作国:日本
- 上映時間:144分
- 公式サイト:https://akaneiro-movie.com/
- 5/21(金)、TOHOシネマズ日比谷、ユーロスペースほか全国順次公開